Side Steps' Today

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玉肌日記

2024年02月24日 | 玉肌日記
霧島丸尾温泉(鹿児島県霧島市)
所用するところあって鹿児島へ。今回は直前までキャンセルリスクを伴ったが無事訪問。鹿児島の温泉といえば指宿に次いでこちらが有名でいずれも未踏の温泉だったが、どちらか迷った末に霧島に決定。前回の九州鉄道一周旅の際の霧島神宮駅での下車数から勘案するに、相当の観光客があるものと思われる。というのも、霧島温泉駅で降りたら神宮か温泉(しかも宿泊必須か)しかない。ちなみに比較的至近には妙見温泉再訪分も)がある。鹿児島市内からは車では高速道路を利用して1時間程度だが、鹿児島空港の近くにあるため空港利用者にとっては市内と霧島の移動が無駄に思えるほどで、逆に空港があるくらいだから、温泉の付近は霧島神宮以外に目立ったものはなし。今回は市内で所用後、霧島温泉に宿泊。ということは翌日もこの付近で温泉を堪能してそのまま空港から帰京というパターンにならざるを得ない。というのも霧島エリアは広大で霧島連山の付近に各種温泉が点在するが、連泊でもしないととても廻りきれないポテンシャルで、一括して霧島温泉と括るのはあまりに乱暴。なお、今回のこちらは丸尾温泉というのが正式な模様。山の中腹にあることから景観よろしく、大浴場から桜島が遠望できる。「旅行人」なる旅行雑誌社が経営元ということもあり、館内には雑誌や書籍、さらに漫画も大量に所蔵されていてそれだけでも魅力的なのだが、こちらの宿は比較的大規模ながらなかなかにホスピタリティよろしく、さすが旅行人に寄り添った内容で感服。温泉は2種類あって①単純温泉(pH 6.8)と②硫黄谷温泉(pH5.5)の2種類。①は無色透明ながら、やや硫黄泉のように薄く白濁しているようにも見える。つまりは浴槽こそ別れているものの、なんだか①と②が混合されているような様子であまり二種の区別はつかないものの、しっかりと体には硫黄臭が付着する。なお夜には満点の星空に加え、空港が近いことから上空を航行する航空機の航空灯もあって雰囲気良し。露天風呂では野生の鹿に遭遇し、お互いがビックリ。

玉肌日記インデクス(地域別温泉リスト)

①北海道 ②東北 ③関東 ④中部 ⑤近畿 ⑥中国・四国 ⑦九州・その他



サドウスキーのセミ・ホロウ・ボディ

2024年02月17日 | 機材マニアック
最近、フラフラとネットを見ていて見つけた画像。これはサドウスキー(Sadowsky)のセミ・ホロウ・ボディ(Semi-Hollow Body)、またはチェンバー・ボディー(Chamber Body)の構造とのこと。奥に見えるのはプレベのボディですが、遠近感からわかりませんが、手前もサイズ的にはベースでしょうか。カッタウェイ形状を見ているとギターのような気もします。自分の楽器もこんな風にくり抜いているのか…?と思いますが、この状態は最終ではなく、さらにピックアップが収まる穴、ネックのジョイント、ボリュームやトーンといったコントロール部分が収まるスペースが加わるので、実際にはさらにスカスカになる筈です。このさらに上に一枚トップ材がプライされるため、この穴たちは最終的には表面上からまったく見えない具合になります。エルボーコンター(エルボーカット→手前の楽器の画像左上の部分)部分のR(曲率)がキツいのでこの部分はトップ材が厚くなるのだろうと想像しますが、いずれにせよ結構な容積の穴が空いている印象で、これがサドウスキーの特徴のようです。確かにサドウスキーはどれも楽器自体が非常に軽い印象。使用材はアッシュが多いようながら、アッシュといってもスワンプ(軽い)→ホワイト(重い)まであるので、材の名前だけでは判断できず、ましてや代用材や最悪偽装のリスクもあるので個人的にはあまり気にならないし、こだわりもないのですが、それにしても軽いのは魅力です。同じソリッドなアルダー材と同じかそれ以上に軽い印象です。よって運搬・演奏時はラクなのですがサウンドもその分マイルドで、ベースの場合ソリッドな単板のホワイトアッシュのようなガツンというアタックがどうしても出にくい印象です。また画像で最も驚いたのはブリッジ付近の穴(図左部分)。ベースの場合、ここにはブリッジが載ってその真下に穴がくる具合ですが、サスティンに大きく影響するでしょう。当方のベースにはリプレイス・パーツであるバダスⅡブリッジが載っているのですが、ブリッジの質量をいくら増やしてサスティンを稼ごうとしても、このホールの上では効果がかなり減ってしまうように思います。結局、自分の楽器もこのような構造になっているのか、材は何なのか、レントゲン撮影やDNA解析しないと解らないのですが、楽器の内部構造はなんだか神秘的でとても気になります。

母校文化祭訪問記(4)

2024年02月14日 | 畸観綺譚
そんな当方はこんな感じのステージで当時何をやっていたのかアーカイブで確認するに、爆風スランプはともかく、プリズムやスパイロ・ジャイラ、イケロー・ジャケッツ、そしてザ・スクエアのJapanese Soul Brothers (田中豊雪のベースソロ完コピ付 w/背中弾き+歯弾き)等を演っており、記憶に残るのはJSBのみ。そういえばシャカタクをピアノトリオで演ろうとしたがピアノが借りられずに没った記憶もあるが、当時の我々も違った意味で浮いていたかも…。確かに当時、異様に盛り上がってくれたのは友人らだけでなんだかさっきのメイド喫茶と同じ状況か…。当時はお金がないのでPAのオペレーターも自分達でやったが、業者なのか学生なのか不明ながらPA卓がデジタルミキサーだったのには衝撃、時代を感ずる。しかし、校内で見る学生諸君のメガネ着装比率が高い。勉学のせいとは決して思わないが現在は体感で6割ほど、当時は2割ほどで当方もまだ裸眼だった。校内を一通り見終わると再び校庭に出るが、そこでもバンド演奏。バンドって流行っているのか?と立ち見するも、ボーカルのMC「今、すごく緊張していて…」となんだか初々しい。「緊張しているから本当の実力は出ないよ、緊張してなければもっと巧いんだけど…」というこちらの期待値を下げることで好印象を与えようという見え透いた魂胆は全く感じない。が、ドラムが一定のパルスを刻めない…なか、学生諸君は異様な盛り上がりを見せており、四分音符でジャンプし通し。あの不均一なパルスでジャンプを刻む方が相当テクニックが必要で困難そうだが心意気は十分。さらに感動的なのはバンド転換の速さ。おそらく3分ほどだったかセッティングが速すぎる。機材が…とか言っている我々中高年は見習うべきだが、せめて故チャック・ローブを見習ってキチンとチューニングはしよう! 最後は学生諸君の演奏を背に校門から外へ脱出したが、滞在は一時間ほど。よくミーティング等で行ったマック(ドナルド)だけが変わらないが、その他の景色は大きく変わっており、独り浦島太郎感あり。(完)

母校文化祭訪問記(3)

2024年02月10日 | 畸観綺譚
帰りにはメイドと記念撮影ができるというが…実際に撮影しているのはメイドとその友達と思しき同級生という絵柄。ともに両手でハート印を作って笑顔で記念撮影しているのは、歪んだ男子校の雰囲気十分で側からみていても微笑ましい。社会経験のない学生諸君の店内ロジは段取りで課題多く、見ていてこちらがなぜかハラハラ。なぜかお尻がムズムズしてきて、とてもいたたまれずに5分ほどで退店。なおメイドとの記念撮影は遠慮した。プラネタリウムやお化け屋敷、さらには学究的な展示・発表(当時そんなのあったか?)の企画には入場待ちの長蛇の列。しかし、学生と同年代の女子が圧倒的に居ない、というかほとんど見かけないのは当時と変わらず。当方学生当時には学園祭前に突如として手相を猛勉強し始めた友人があり、聞けば「占いをやるのだ」と。話をよく聞けば「女子と一対一で話せるし、あわよくば手を触ることができる」とこれまた涙ぐましい。後日にその成果を確認するも、受験生と思しき親子を占った際、生まれた年を質問すると「昭和XX年!」(子供)→「はい、19XX年ですね」(友人)→「スゴい!これぐらいすぐに計算できないと(入学試験で)入れないんですね!」(母親)という会話があったことだけしか印象にない(つまり空振り)、と。当時はライブハウス企画をしていた当方としては、どうしても学生諸君のバンド活動が気になって仕方がなく、軽音楽部が演奏する教室へ。当時は軽音でなくフォークソング部だったが、フォーク人種が絶滅したのだろうか名称が変更。当時は人間的にも素晴らしいフォーク人が同級生で部長だったが、その後の超難関大学入学後に早逝してしまった…(通夜にKORG M1キーボードが立て掛けてあったのが鮮烈に記憶)。当時はフォークソング部と自ら企画のステージで掛け持ち出演していたのだが、その軽音も意外に閑散。教室内に入ってみると4人組のバンドが演奏していたが流行の邦楽らしいが曲は不明。立ち見でちょっと聞いたが、もっともっと練習すべし!(続)

母校文化祭訪問記(2)

2024年02月07日 | 畸観綺譚
受付でパンプを貰うと、同行の家族は「メイド喫茶に行きたい!」と強硬主張。実質男子校歴10年の当方としてはそこがどんな状況か容易に想像できたが、抗えずにメイド喫茶に直行。校内は将来の受験生と思しき親子連れが多く、中には教室前に順番待ちの列もあったが、メイド喫茶前はそこだけ意外にひっそりと閑散。勇気を奮ってさっそく入店するも「いらっしゃいませ、ご主人さま!(当然男声)」と出迎えを受けるが、発声や表情に羞恥感と躊躇があり、メイドになりきれていない。また化粧の追求も足らず、ノーメイクな学生がメイド服をきているだけ。自主規制が効いているか不明だが、先達としてはマニアックに美を本格追求する姿勢が欲しかった…(が、配布されたパンプを帰宅後に眺めていると超本格的な美女?コンテスト、しかも校内のベスト美男美女カップルを選出するというツッコミすぎな企画があったことが判明、愕然となる)。メイド喫茶でメニューを見るが、学園祭では利潤を追求してはいけない様子で価格はほぼ原価。当方は慎重にコーラをオーダーしたが500mlペットボトルそのものが供されるもヌルい…が、飲食店営業許可を取得していないのでやむを得ない。慎重にコーラを選択したのは、なるべく加工や調理が加わらないものを求めたためであり、それは校内の衛生状況を熟知しているからであって、かつて試験中には試験監督たる先生は不潔さに耐えきれずにホウキで教室内をよく掃除していた。テーブルに着席するとドリンクが配られるが、後輩のなかなかシビれるサービスに思わず喉が乾いてしまい、早速開封して一口飲むに「お客さま!飲む前に私と一緒に掛け声でラブを注入しないと美味しくなりません!」と段取り間違いを思いっきり家族面前で後輩メイドに叱責される。なお、「教育上の悪影響がある」と思う親子連れが多いのか家族は我らのみだった。

Floating cloud

2024年02月04日 | Band
再び旧曲レコーディング→YouTube公開です。曲名は「Floating cloud」ですが、いわゆる「浮雲」。曲名を聴いた瞬間になぜか二葉亭四迷(中学の授業で「くたばってしまえ」がその語源と聞いた)を思い出しましたが、こちらはラテンパーカッションこそ入っていないものの、リズムはサンバ‼︎。Tリーダーの大学時代の作曲です。この録音ですが、使用している楽器は写真にある4弦ではなく、InnerWoodの6弦です。コンプだけかけて、デジタルクリップを起こさないようにオーバードライブ気味にI/Oに突っ込んで録音しており、演奏中はI/Oの赤いPeakランプが点灯しっぱなし(笑。Mix中に「Clip気味?」というスルドイご指摘がありましたが、その通りでして…8000円の安物I/Oのサチュレート感がなかなか良いのです。ドラムは打ち込みながら、ドラマーのT先輩の渾身の打ち込みにて、ハイハットワークやフットハイハットの入る位置なんかのディテールが凄くて失禁モノ。ぜひ以下からお聞きください。ところで、このなぜか爆笑して演奏している写真、チョイスをTリーダーにお任せしたので当方まったくの初見なのですが、演奏場所が神戸チキンジョージであるのは確実なものの、なんの曲だか全く記憶にございません…。なお、このTリーダーのYouTubeチャンネル、Side Stepsの秘蔵ライブ映像がいろいろとありますが、こちらはとても演奏が若く、コワすぎて平常心ではなかなか見ることができません。忘却という機能は、平常心を保つ上で非常に重要です、ね。

【過去のYouTubeシリーズ】

Floating cloud by tamura

母校文化祭訪問記(1)

2024年02月03日 | 畸観綺譚
とある機縁あり、母校たる中学•高校の文化祭へ。当時は大学学園祭と同時期に開催されており、11月文化の日を挟んだ3日間だったと記憶するも、現在では9月末に開催となっており、意外。当時は毎朝の東西線高田馬場駅が鬼門で、ホームが狭くて入場制限がでるほどだったが、今ではホームの幅も広く、かつ最後尾に乗客が集中しないように階段位置も変更されていて衝撃、結果としてその恩恵は全く得られなかった…。そういえば、発狂的な超満員状態のため乗車時にC君の革靴片足が脱げ、そのまま車内に押し込まれたことで革靴片方のみホームに取り残されるという悲しい事件があった。幸い学校は地下鉄出口の至近なので片足は靴下状態で登校、帰りは体育靴を履いて駅事務室に片足を取りにいった(ことに同行した)…。そういえば当時は黒の革靴指定だったが、いつの間にか革靴でなくなっており、なんだか学生諸君の足元はだらしないが、このC君事件がキッカケで革靴でなくなったのか? 地上に出るとなんだか早稲田通りも綺麗になったと思いきや、電線が地下埋設されているのであった。ここに綺麗とかお洒落といったテイストは当時存在しなかったのだが…。当時の学祭では、目ぼしい他校女子を確保しては校内案内の名目で是非接近したいという不埒な諸君が正門前に待機していたが、(ライバルとさえ思っていなかった)実業は駅改札まで出張しており、戦線が究極に前線化していた。ところが、今では校庭側からの入校に変更されていて、そのような諸君も(強制排除されたのか)皆無でお行儀がよろしい。三十数年ぶりの学校は、場所こそ変わらねどさすがに内部はほとんどが刷新されており、当時の姿を留めるのは校庭と高三当時に完成した高校棟のみ。戦前からあった校舎はすでになく、初の本土爆撃だったドーリットル空襲の際に生徒が校庭で犠牲になり、その崩れ落ちる姿を模したという追悼碑(彫刻家OB制作)があったはずだが、どこかに移設されたのだろうか。(続)