こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第3主日(ヨハネ20:19-31)聖書はイエスの復活を信じる鍵

2018-04-14 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)

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こうじ神父
「今週の説教」
2018/4/15(No.940)
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復活節第3主日
(ヨハネ20:19-31)
聖書はイエスの復活を信じる鍵
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復活節第3主日、長崎教区ではしばしばこの日が転勤した主任司祭助任司祭の新しい任地での最初の日曜日です。私もこの復活節第3主日に最初の日曜日の説教をしました。3種類の薬を飲んでいるという話でした。初心を忘れず、また献堂百周年に向かって心を一つにしていけるように、朗読個所を解き明かしていきたいと思います。

金曜日に、新しい中学生たちと最初のけいこをしました。小学6年生だった子供たちが、中学1年生として教室に来ていました。緊張した顔を見ながら、この子供たちの心をイエスの教えにどうやって開いていけばよいか、考えました。

金曜日は宗教が持つ3つの特徴を話しました。キリスト教も、イスラム教も、仏教も、宗教には3つの特徴があります。1つ目はその宗教を始めた人がいます。2つ目は宗教を始めた人の教えやわざがあります。3つ目は宗教が大切にしている書物があります。この3つをわたしたちのキリスト教の中で考えてみました。

キリスト教を始めた人がいます。もちろんイエス・キリストです。もちろん単なる「人」ではありませんが、ユダヤ教の中で生まれたイエスがキリスト教を開いたわけです。次にイエスの教えがあります。「わたしは道であり、真理であり、命である」「隣人を、自分のように愛しなさい」

金曜日は6人けいこに来ていたので、教えの中から友達が言わなかったものを思い出してもらって、教えを6つ子供たちの引き出しから取り出しました。3つめの大切にしている書物は聖書です。聖書を大切にしていることはすんなり答えることができました。

問題は、キリスト教を始めた人は誰ですか、キリスト教を始めた人はどんなことを教えましたか、この2つで子供たちが答えに詰まったことです。緊張のために、難しく考えすぎていたのです。キリスト教を始めたのは誰ですかと初めて中学校のけいこに来た中学1年生に聞くと、顔がこわばっていました。「難しく考えすぎ。」そう言っても、間違ってはいけないと自分で自分を追い詰めてしまって、声が出なかったのです。

中学2年生はその点落ち着いて答えてくれました。中田神父との信頼関係もあったでしょう。イエスの教えを引き出すときは、心を開いてもらうために、あの手この手を使いました。「隣人を自分のように〇しなさい」「わたしは道であり、真理であり、〇である」20年前は考えられなかったようなことまでしてヒントを出して、心を開いてけいこに臨んでくれるように努力したわけです。

本日の福音朗読でも、復活したイエスの出現を弟子たちが信じられず、イエスはあの手この手で弟子たちの心を開こうと努力しています。まずエマオの弟子たちの報告を聞いても、不思議に思うばかりで信じられませんでした。

弟子たちの真ん中に復活したイエスが現れても、「亡霊を見ているのだと思った」(24・37)とあります。さらに「わたしの手や足を見なさい」と言ってご自身の手や足を指し示しても、喜びのあまりとはいえ信じられず、不思議がっているのです。さらにイエスは、食べ物を食べました。復活したイエスを信じられない弟子たちの心を開こうと、あの手この手で涙ぐましい努力です。

では弟子たちが最終的にイエスを信じるようになったのは、どの時点だったのでしょうか。姿を現したときでしょうか。手や足を見せたときでしょうか。焼いた魚を食べたときでしょうか。どれも違うようです。むしろ、最後に用意しておられた「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて(24・45)言われた」ここでようやく、イエスの復活が信じられるようになったのです。

中学1年生の子供が中田神父からけいこを受け始めました。私があの手この手で話す、その工夫は必要かもしれません。しかし、子供たちの心を最後に開くのはわたしの工夫なのだろうかと思います。イエスの教えを子供たちが心を開いて受け入れるためには、聖霊の働きが、聖霊に導かれて書かれた聖書の働きが、最後は必要なのだと思います。

弟子たちもそうでした。復活したイエスが目の前に現れても、亡霊ではないかと思い、手や足を示してもまだ信じられず、食べ物を食べる姿を見せても不思議に思っていました。復活したイエスを最後に信じさせる決め手になったのは、聖書だったのです。

弟子たちの体験は、わたしたちを象徴する体験だったと言えるでしょう。弟子たちにとって、イエスの復活を心から信じさせるためには、何重にも囲まれた塀を壊し、心を開いてもらう必要があり、その最後の扉を開くのは聖書だったのです。イエスを十字架に追いやってしまった罪とか、引き渡されないように戦うべきだったのを逃げてしまった後悔とか、そういう壁の向こうに、復活したイエスを信じる最後の扉を開く鍵「聖書」が、必要なのです。

わたしたちも、復活したイエスを信じるため、心のいちばん奥の扉を開くのは聖書であると悟りましょう。だれか圧倒的な説教をしてくれる司祭が最後の扉を開くのではありません。司祭はいずれ変わるのです。いずれこの世を去るのです。配偶者が最後の扉を開くのでしょうか。配偶者も永遠にそばにいてくれるわけではありません。

聖書だけが、イエスを信じる扉を最後に開いてくれる鍵で、聖書に親しむならば、聖書は永遠に私を離れることはないのです。現代は目が不自由でも録音を通して聞くことができます。点字もあります。私たちはいずれかの方法で、聖書をそばに置いて親しむべきです。復活したイエスを信じる決定的な鍵だからです。

主イエスよ、聖書を開いてわたしたちに話し、心を燃やしてください。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:11-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼「記憶に残る」とか「記録に残る」という言葉を使うことがある。私自身は初めて使うが、私は記憶に残ること、記録に残ることができているだろうか。別に自分自身はそんなことにこだわりはないが、受け取る側にすると「あの神父さんの説教は忘れない」と言われれば悪い気はしないものだ。
▼記憶に残っている挨拶はある。伊王島、馬込小教区で馬込教会司祭館の新築で大司教様をお招きし、祝別と記念ミサをしていただいたときの挨拶だ。経済問題評議員の挨拶を私が代筆し、経済問題評議員がそれを30回も練習して読み上げてくれた。30回も練習すれば、それはもう本人の挨拶のようなものだ。
▼これ以上の挨拶は、生涯用意することはできないと思うが、そんなことを言うと田平教会献堂百周年を成功させようと粉骨砕身働いてくれている実行委員会の皆さんの士気をそぐことになる。もう一度ねじり鉢巻きで、挨拶を考えることにしよう。
▼記憶に残る説教はあるだろうか。説教に関しては、今が記憶に残る説教をしていると思う。「脂がのった」というか、昔では話せなかったことや、昔では湧いてこなかった発想が盛り込まれて、それなりに記憶に残ってくれていると思う。
▼あえて一つ、と言われたら、それは「銀祝記念ミサ」の説教だろう。田平教会の皆さんは、鯛之浦でのミサにあずかった人だけが聞いた、貴重な説教である。残念なことに、ICレコーダーを持っていくのを忘れてその場の録音は残っていない。返す返すも残念である。文字通り、「記憶にのみ残っている」説教である。

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今週の1枚
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第547回目。カープも勝ったり負けたり。これでも飲んで、喝を入れるか。

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