こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)幼子イエスが最初に見たのはマリアとヨセフ

2017-12-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/12/24(No.919)
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主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
幼子イエスが最初に見たのはマリアとヨセフ
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主の降誕おめでとうございます。誕生の喜びはどんな人、どんな時代、どんな状況でも喜ばしいものですが、イエス・キリストの誕生はすべてに勝る喜びです。この夜半のミサでは、誕生の瞬間、幼子イエスが目にしたものを想像しながら喜びを分かち合うことにしましょう。

イエス・キリストが誕生した時、最初に出会った人々は誰だったでしょうか。まだはっきり見えていない中で、ぼんやりとその目に映ったのは、当然の答えなのですが、マリアとヨセフでした。この基本的な出来事から出発したいと思います。

イエス・キリストが最初に出会った人、最初に目にした人は、マリアとヨセフでした。聖書の読み返しをすると、マリアもヨセフも、イエス・キリストの誕生という神秘的な出来事に至るまでに、出来事を受け入れようと悩み、もしかしたら苦しみ、それでも個人的な考えを横において、すべてをお任せするまでの大変な心の道のりを経てきました。

悩みながら戸惑いながらも、マリアもヨセフも、これから成長していくイエス・キリストに全面的に協力する心の広さを持ち合わせていました。特にマリアは、のちにイエス・キリストの地上での最後の場面、十字架の出来事までそばにいて、苦しみを共に受け止めてくださったのです。

およそ二千年前は、イエス・キリストが最初に出会った人々はマリアとヨセフでした。では今年のクリスマスにイエス・キリストが最初に出会うのはいったい誰なのでしょう。ナカダコウジという一個人でしょうか。それとも誰か別の一個人でしょうか。

わたしは違う考えを持っています。今年も、イエス・キリストが最初に出会うのはマリアとヨセフであるはずです。マリアとヨセフに出会わなければならないのです。ではどこに、マリアはおられるのでしょうか。ヨセフはどこにおられるのでしょうか。

今年は、現代のわたしたちが、マリアとヨセフとして、クリスマスにおいでになるイエス・キリストをお迎えする必要があると思っています。マリアと同じ心構えで、ヨセフと同じ心構えで、イエス・キリストを受け止めるとき、今年のクリスマス、今年のイエス・キリストの誕生が完成するのではないでしょうか。

ではマリアと同じ心構えとは何でしょうか。マリアは、悩みと戸惑いの中で、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1・38)と答え、神の計画が前に進むためなら、喜んで身をささげますと答えました。わたしたちが、「神さまの計画が前に進むためなら、喜んでお手伝いします」そんな思いで幼子の前にひざまずくなら、わたしたちはマリアと同じ心で幼子イエスの前にいるのです。

ヨセフと同じ心構えとはどのようなものでしょうか。ヨセフは婚約期間からすでに思い悩んでいました。婚約を解消しようとさえ思っていました。大きな悩みを抱えつつも、それでもイエスが生まれた時はマリアと幼子を守り抜きます。そんな思いだったでしょう。男性の皆さんが、神の計画に協力する中で困難は予想されるけれども、わたしに託されたものを守り抜きます。そんな思いで幼子とマリアの前に立つならば、ヨセフと同じ心でここにいるのです。

イエスが幼子としてこの世界においでになった時、最初に出会う人はマリアとヨセフでなければならないのです。救い主の誕生の前に、謙虚に身をかがめる人々でなければならないのです。「わたしがいるからこの会は成り立っているのよ」とばかりに自分が中心になって取り巻きを作り、なびかない人は退けるような身の毛のよだつような人はイエスの前に立つことは許されないのです。

いつか、羊飼いがイエスの前に立つでしょう。いつか、占星術の学者たちがイエスの前にひざまずくでしょう。けれども権力にしがみつく人、人を人とも思わない人がイエスの前に立つのはずっと先のことなのです。わたしたちが今日、イエスに近づこうとするなら、マリアの心、ヨセフの心でなければなりません。

今日お生まれになったイエスは、初めて目にする人としてあなたを受け入れてくださるでしょうか。イエスの目に、わたしはどのように映っているでしょうか。幼子イエスの前にひざまずいて、自分の心に問いかけることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼仕事が山積みで、ホームページの更新がままならない。17日のデータ更新を21日の夜にした。こんなことでは楽しみにしている皆さんの足を引っ張ることになる。本当に影武者か、クローンがいたらと思うくらいだ。
▼ただ、仕事は思い通りにいっている。こんなに仕事が進んだ赴任地もないだろう。経験と、主任司祭についてきてくれる人の力がかみ合って、結果を伴うのが楽しいとさえ感じる。ここまで日々を楽しめる時代はそうはないだろう。
▼もちろん、腹立たしいことはある。だがそんなことは、どこに行っても、どこにいてもある。だから気にしない。前に進む喜びがあるので、その他の痛みは通過すれば終わる話だ。今前進する力は2018年5月13日の献堂百周年。聖堂内に垂れ幕が用意される。わたしたちの決意の表れだ。
▼ところで、田平教会の敷地に隣接する土地について、主任司祭には活用するアイディアがある。まだ決定ではないが、わたしが赴任している期間内に、動き出すつもりでいる。十字架の道行きのコースを作れたらと思っている。
▼それとの関連だが、賄さんのTさんと、話を増幅させて夢を語った。「祈りの公園の構想があって、完成したらそこで十字架の道行きをしたいと思っている」「そうですか。それは楽しみです」「実物を使って、十字架の道行きをすることで、『こけら落とし』といこうかな」
▼これには困惑の様子だったが、構わず続ける。「イエス役がいて、裁判を受けて鞭打たれて、十字架担いでいって、丘の上で磔になる」「え!!イエスさまは主任神父さまでしょうけど、鞭打ったり、代わりに十字架を担いだり、ベロニカが布を差し出したり、一緒に十字架に磔にされる人だったり、いろいろ必要ですよ」
▼「大丈夫。だいたいの配役は決まっている。まずベロニカは賄さんだ」「あははは!」「イエスを鞭打つのはMさんだ」「なるほど」「右と左に磔にされるのは・・・」「磔にされるのは?」「その人は・・・」「その人は?」
▼「左はKで決まりだろう」「では回心する右の罪人は?」「それが問題よ。Tはどうだ?」「いいんじゃないですか~」あくまで適当にイニシャルを作ったので、実在する人を探さないように。

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今週の1枚
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第526回目。今年の教会イルミネーションは子供たちがよく手伝ってくれた。

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† 神に感謝 †
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