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こうじ神父
「今週の説教」
2017/9/17(No.904)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第24主日
(マタイ18:21-35)
この世の損も神との絆には代えられない
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第24主日A年の朗読で紹介されたたとえは、この世での損をあえて取ってでも、恵みが働く体験を失うべきではないと教えています。わたしたちの生活を見まわして、神の望みに答えていく具体的な道を考えることにしましょう。
最近司祭館玄関で面白い会話がありました。20代かなぁと思う女性がおいでになって、用件が済んだので帰ろうとしました。玄関は網戸が閉めてあったのですが、女性が網戸ではなくサッシの扉に手をかけてこう言いました。「お閉めしましょうか?」
わたしはとっさにこう答えました。「お構いなく。」ていねいに言ったつもりなのでしょうが、あの場面では「お」を付けずに「閉めましょうか?」で十分だと思いました。20代の女性にあらためて指摘はしませんでしたが、わたしには「おしめ」「しましょうか」に聞こえました。
今日は焼罪殉教祭です。この説教を書き終えたのは14日(木)なので、当日どうなっているのか見当もつきませんが、おそらく天気は良くはなっていないでしょう。残念ながら焼罪公園でのミサは取りやめになって、田平教会でのミサに変更になっているでしょうか。あるいはもっと天候が悪化して、田平教会での開催も断念しているでしょうか。
また17日の前後も天気に左右される予定がありました。前日の保育園運動会は、どうにか実施となっているのでしょうか。それから18日敬老の日は、甲子園球場に出かける予定です。台風がどこまで移動しているかで、飛行機も影響を受けます。こうしてみると、自然の力には、人間の思惑などひとたまりもないと思い知らされます。
福音朗読に入りましょう。先週の「兄弟の忠告」を念頭に置いて考えると、イエスの「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(18・22)の意味がより分かりやすくなると思います。
兄弟の忠告に際して、最後まで見捨てないで忠告し、仲間を得ようとする態度が必要でした。今週のたとえでも、主人は僕を最後まで赦して、できれば僕との絆を失いたくないと考えています。イエスが求める赦しの本質がここに現れています。赦しは、最後まで相手との絆を保ち続けようとする天の父の思いの現れなのです。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(18・21)「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(18・22)
わたしはゆるしの秘跡の場で、「赦しは恵みです。赦す心が備わっているから人を赦すのではなく、赦す力を恵みとしていただいて、人を赦すことができるのです」と話してあげることがあります。赦しが人間の努力とか能力であるなら、ゆるしの秘跡という恵みの場は必要ありません。
そうではなく、人を赦すのは、いつもそこに恵みが働いているのです。たとえ話に登場する一万タラントン借金している僕は、自分に百デナリオン借金している仲間を赦す力があったはずです。百デナリオンの借金を取り立てないと、明日を迎えられない人ではなかったでしょう。それなのに、仲間に憐れみをかけませんでした。自分が王に憐れみをかけてもらって王の僕であり続けることができたというのに、自分の仲間には仲間であり続けるための憐れみを拒んだのです。赦す能力を持ち合わせていても、そこに恵みが働かなければ、体験できないのです。
赦しが、つねに恵みの働く場であるなら、七回まで赦して恵みの体験を制限してよいでしょうか。「七の七十倍まで」つまり恵みの働く体験を何度でも、制限なく味わうべきではないでしょうか。イエスが赦しに限度を置かなかったのは、恵みが働く体験を制限する必要があるだろうか、そう問いかけたかったのです。
わたしの耳には、小教区内のいろんな人の声が聞こえてきます。腹立たしい話も、赦しがたい話も聞こえてきます。しかし、腹立たしさをこらえて、赦しがたいことも忍耐するとき、そこに恵みが働き、ゆるしの体験ができるのだと思います。
腹立たしいことをしていて自覚がない。赦しがたい振る舞いに気が付かない。はたから見れば哀れな人ですが、そうした人を赦してあげなければ、恵みの体験をみすみす逃すことになります。たとえ話を通してイエスは、天の父がどれだけ損をしても赦しを与え、わたしたちを滅びから救い出そうとなさるのだと教えておられます。人が神との絆を失って滅びるよりも、一万タラントン損して絆を保つことを天の父は選ぶのです。
そうであるなら、わたしたちも田平教会家族という絆を断ち切るよりも、自分が損を取ってその人を赦してあげましょう。この世の損は、だれかを田平教会家族から断ち切る損に比べれば小さいのです。この世の損は、天の父が弁償してくださいます。田平教会家族を切り捨てる損は、弁償できない損なのです。
わたしたちがお手本とするのは、一万タラントンの損を取って、王との絆を保とうとするお方です。この方向に舵を切る力は、恵みによってしか与えられません。神が赦しの恵みをわたしたちに与えてくださり、田平教会家族を一人も失うことのないように、このミサで願うことにしましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(マタイ20:1-16)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼説教を準備するとき、パソコンに向かって準備を進めるわけだが、勉強部屋にはテレビも置かれていて、木曜日は本当に説教準備の難しい日だった。なにせ広島カープがマジック2でこの日を迎え、マジック対象チームの阪神は巨人が相手、しかも菅野が先発になっていた。
▼これはほぼほぼ、「広島勝利」「阪神負け」で優勝決定、という願ってもない状況に見えた。だからテレビを背に、ほんの少し音声が聞こえるようにして、説教を書き続けていたが、一球ごとに声援が地鳴りのように聞こえて、背中のテレビを振り向いては勇気を振り絞ってパソコンに向き直る、その連続だった。
▼説教原稿もほぼ見通しがついて(適当に終わってではない)、ようやくパソコンの電源を落とし、テレビを見る。息詰まる試合展開、3対3の同点になった時は「18日に甲子園球場に行く予定だから、負けてもいいか」と本気で思っていた。
▼その後、広島の助っ人外国人がホームランで4対3と逆転する。そうなると安定したリリーフ陣と抑えがいるから、「仕方がない。ナマで優勝を観ることができないけれども、テレビを見ながら祝杯をあげるか」気持ちは固まりつつあった。
▼ところがまた同点。引き分けでは困る。負けてもいいよ、と思ったところ、またもや助っ人外国人が勝ち越しの犠牲フライ。試合も抑えがピシャリ締めて、あとは阪神に負けてもらえば・・・ところが30分以上待った結果は引き分けだった。
▼優勝は土曜日以降になる。ただし、台風の影響で17日(日)は試合が中止になる可能性が高い。もはや、土曜日の優勝ではなく、敬老の日(月)に、肉眼で優勝を見届けたい気持ちが高まってきた。阪神。かかってこいや。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第511回目。ブラックモンブラン風エクレア。一人で食べ切るにはちょっと重。
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† 神に感謝 †
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2017/9/17(No.904)
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年間第24主日
(マタイ18:21-35)
この世の損も神との絆には代えられない
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年間第24主日A年の朗読で紹介されたたとえは、この世での損をあえて取ってでも、恵みが働く体験を失うべきではないと教えています。わたしたちの生活を見まわして、神の望みに答えていく具体的な道を考えることにしましょう。
最近司祭館玄関で面白い会話がありました。20代かなぁと思う女性がおいでになって、用件が済んだので帰ろうとしました。玄関は網戸が閉めてあったのですが、女性が網戸ではなくサッシの扉に手をかけてこう言いました。「お閉めしましょうか?」
わたしはとっさにこう答えました。「お構いなく。」ていねいに言ったつもりなのでしょうが、あの場面では「お」を付けずに「閉めましょうか?」で十分だと思いました。20代の女性にあらためて指摘はしませんでしたが、わたしには「おしめ」「しましょうか」に聞こえました。
今日は焼罪殉教祭です。この説教を書き終えたのは14日(木)なので、当日どうなっているのか見当もつきませんが、おそらく天気は良くはなっていないでしょう。残念ながら焼罪公園でのミサは取りやめになって、田平教会でのミサに変更になっているでしょうか。あるいはもっと天候が悪化して、田平教会での開催も断念しているでしょうか。
また17日の前後も天気に左右される予定がありました。前日の保育園運動会は、どうにか実施となっているのでしょうか。それから18日敬老の日は、甲子園球場に出かける予定です。台風がどこまで移動しているかで、飛行機も影響を受けます。こうしてみると、自然の力には、人間の思惑などひとたまりもないと思い知らされます。
福音朗読に入りましょう。先週の「兄弟の忠告」を念頭に置いて考えると、イエスの「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(18・22)の意味がより分かりやすくなると思います。
兄弟の忠告に際して、最後まで見捨てないで忠告し、仲間を得ようとする態度が必要でした。今週のたとえでも、主人は僕を最後まで赦して、できれば僕との絆を失いたくないと考えています。イエスが求める赦しの本質がここに現れています。赦しは、最後まで相手との絆を保ち続けようとする天の父の思いの現れなのです。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(18・21)「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(18・22)
わたしはゆるしの秘跡の場で、「赦しは恵みです。赦す心が備わっているから人を赦すのではなく、赦す力を恵みとしていただいて、人を赦すことができるのです」と話してあげることがあります。赦しが人間の努力とか能力であるなら、ゆるしの秘跡という恵みの場は必要ありません。
そうではなく、人を赦すのは、いつもそこに恵みが働いているのです。たとえ話に登場する一万タラントン借金している僕は、自分に百デナリオン借金している仲間を赦す力があったはずです。百デナリオンの借金を取り立てないと、明日を迎えられない人ではなかったでしょう。それなのに、仲間に憐れみをかけませんでした。自分が王に憐れみをかけてもらって王の僕であり続けることができたというのに、自分の仲間には仲間であり続けるための憐れみを拒んだのです。赦す能力を持ち合わせていても、そこに恵みが働かなければ、体験できないのです。
赦しが、つねに恵みの働く場であるなら、七回まで赦して恵みの体験を制限してよいでしょうか。「七の七十倍まで」つまり恵みの働く体験を何度でも、制限なく味わうべきではないでしょうか。イエスが赦しに限度を置かなかったのは、恵みが働く体験を制限する必要があるだろうか、そう問いかけたかったのです。
わたしの耳には、小教区内のいろんな人の声が聞こえてきます。腹立たしい話も、赦しがたい話も聞こえてきます。しかし、腹立たしさをこらえて、赦しがたいことも忍耐するとき、そこに恵みが働き、ゆるしの体験ができるのだと思います。
腹立たしいことをしていて自覚がない。赦しがたい振る舞いに気が付かない。はたから見れば哀れな人ですが、そうした人を赦してあげなければ、恵みの体験をみすみす逃すことになります。たとえ話を通してイエスは、天の父がどれだけ損をしても赦しを与え、わたしたちを滅びから救い出そうとなさるのだと教えておられます。人が神との絆を失って滅びるよりも、一万タラントン損して絆を保つことを天の父は選ぶのです。
そうであるなら、わたしたちも田平教会家族という絆を断ち切るよりも、自分が損を取ってその人を赦してあげましょう。この世の損は、だれかを田平教会家族から断ち切る損に比べれば小さいのです。この世の損は、天の父が弁償してくださいます。田平教会家族を切り捨てる損は、弁償できない損なのです。
わたしたちがお手本とするのは、一万タラントンの損を取って、王との絆を保とうとするお方です。この方向に舵を切る力は、恵みによってしか与えられません。神が赦しの恵みをわたしたちに与えてくださり、田平教会家族を一人も失うことのないように、このミサで願うことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(マタイ20:1-16)
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▼説教を準備するとき、パソコンに向かって準備を進めるわけだが、勉強部屋にはテレビも置かれていて、木曜日は本当に説教準備の難しい日だった。なにせ広島カープがマジック2でこの日を迎え、マジック対象チームの阪神は巨人が相手、しかも菅野が先発になっていた。
▼これはほぼほぼ、「広島勝利」「阪神負け」で優勝決定、という願ってもない状況に見えた。だからテレビを背に、ほんの少し音声が聞こえるようにして、説教を書き続けていたが、一球ごとに声援が地鳴りのように聞こえて、背中のテレビを振り向いては勇気を振り絞ってパソコンに向き直る、その連続だった。
▼説教原稿もほぼ見通しがついて(適当に終わってではない)、ようやくパソコンの電源を落とし、テレビを見る。息詰まる試合展開、3対3の同点になった時は「18日に甲子園球場に行く予定だから、負けてもいいか」と本気で思っていた。
▼その後、広島の助っ人外国人がホームランで4対3と逆転する。そうなると安定したリリーフ陣と抑えがいるから、「仕方がない。ナマで優勝を観ることができないけれども、テレビを見ながら祝杯をあげるか」気持ちは固まりつつあった。
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▼優勝は土曜日以降になる。ただし、台風の影響で17日(日)は試合が中止になる可能性が高い。もはや、土曜日の優勝ではなく、敬老の日(月)に、肉眼で優勝を見届けたい気持ちが高まってきた。阪神。かかってこいや。
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† 神に感謝 †