こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第5主日(ルカ5:1-11)変えられないものを変えるイエスの言葉

2010-02-07 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/02/07(No.459)
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年間第5主日(ルカ5:1-11)変えられないものを変えるイエスの言葉
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先週月曜日から水曜日、司祭の研修会に参加してきました。人権問題を考える研修会で、まず司祭は、人権に配慮した働きが求められるということをこんこんと聞かされました。簡単に言えば、信者に対して「教会法のこんな教えも知らないのか」とか「聖書も知らないくせに口を出すな」みたいな指導の仕方はいけませんという勉強会です。

また、そんなに表立って問題にはなっていませんが、司祭のセクハラとか、パワハラとか、そういうこととも無関係ではないので、自分自身をよく振り返って、懸命に行動してくださいときつく諭されました。人権侵害をしていないかをチェックする質問票で○×を記していったら、わたしはほとんどの項目で、人権侵害をしているほうに当てはまっていまして、恥ずかしいことだなぁと反省しています。

今週の福音朗読に入りましょう。イエスが漁師を弟子にする場面が読まれました。この中でシモン・ペトロが、声をかけられた漁師たちの代表として、イエスと対話しています。今回取り上げたい箇所は、「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5・5)この箇所です。

まずは、ペトロの言い分をじっくり考えてみましょう。「わたしたちは、夜通し苦労しました」と言っています。自分たちの専門分野で、あらゆる知恵を絞って努力をしたわけです。これ以上ないというくらい、努力をしました。それでも、何もとれませんでした。結果を受け入れて、次に期待するのが普通の判断です。

ところがイエスは、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(5・4)と指示します。大自然が作り出した結果をひっくり返すほどでなければ、網を降ろしても意味がないはずです。それを承知で、イエスはペトロに声をかけたのでしょう。

ペトロも、イエスの指示を受け入れます。イエスの言葉は、大自然が突きつけた結果をひっくり返すだけの力を持っているかも知れない。ペトロにはそう思えたのでしょう。こう言っています。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。イエスの言葉を信じて網を降ろすと、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになりました。

ここでペトロが考えたことを確認しましょう。大自然の厳しさを知っているペトロは、最善の努力をしても、魚がとれない日もあることを受け入れています。ですが、イエスが声をかけ、網を降ろすように指示した時、大自然の結果をも超える何かが体験できるのではないかと思い、イエスの言葉に従いました。

この出来事で、ペトロをはじめ、一緒にいた仲間たちはイエスに従うことにします。それも、すべてを捨ててイエスに従いました。この先、弟子たちはほうぼうの町や村に遣わされていきます。また、イエスの復活後は、死をも恐れずに福音を告げ知らせます。ペトロたちの知識や経験では、絶対に成功しない働きが、イエスの言葉を信じた彼らによって、多くの実を結んだのです。

今日、午後から26聖人の殉教記念ミサが西坂公園で行われます。26人の殉教者たちも、人間的に見れば目を背けたくなるような残酷な刑に服し、成功を収めたとはとても言えませんでした。けれども、彼らの中で働いたイエスの霊が、大きな実を結んだのです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12・24)

人間のあらゆる努力をつぎ込んでも、とても成功できるとは思えない。もし、この結果がひっくり返るとしたら、イエスの力としか考えられません。弟子たち、また命をかけて証しした殉教者たちは、このイエスの言葉の力を信じたのです。

ここまで、わたしたちが見てきたことは2つあります。人間のあらゆる努力を払っても、結果が期待できない時、そこにイエスの力がもっとも働きます。イエスは、大自然の厳しさをもひっくり返す言葉の力を持っています。また、宣教してもあまり信者が増えないのに、イエスの霊は宣教する人の中で特別に働き、「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(一コリント1・21)

そこで、わたしたちも学びを得て、生活に当てはめたいと思います。ペトロが経験したように、イエスの言葉には、常識や、大自然の法則を超える大きな力が働きます。ですから、わたしたちは大胆に、「イエスの言葉だけが、常識を越える力を持っている」と信じましょう。

具体的に、考えます。「わたしについて来なさい」(マタイ4・19)とイエスは呼び掛けます。わたしはついていけませんと思う時があるかも知れません。これ以上忍耐したり、これ以上愛情をもって接してあげたりできません。そんないっぱいいっぱいの状態かも知れません。

けれども、イエスの言葉はわたしたちの常識を覆します。もう忍耐できないと思ったこと、もうこれ以上愛情を示せないと思ったことを、「わたしについて来なさい」というイエスの言葉が、乗り越えさせてくれます。

「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20・19)とイエスは呼び掛けます。人間がいくら努力しても平和はやって来ないように思えます。でもその中で、イエスの言葉が大きく働き、不可能と思える平和をもたらすのです。

今週、わたしたちもイエスの言葉の力に信頼して歩みましょう。目の前に、がっくり肩を落としてしまうような現実があるかも知れません。イエスの言葉だけが、そのつらい現実を乗り越える力となってくれます。乗り越える力、現実をひっくり返し、希望をもたらす力は、イエスから来る。今週の福音から吸収して、生活に活かすことにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼司祭研修会。先輩方は底抜けに面白い。1日目の夕食の時、ある先輩がこう言った。「世界の主要な国が集まって開く会議を知ってるか」周りの後輩司祭たちは答えた。「サミットかなぁ」「ほかには?」「うーん、G7とか」「それそれ。G7とかがあるよなー。うちの小教区の評議会はいつも『爺20(twenty)』ぞ」
▼これにはたまらず、素で笑い転げてしまった。ただ、笑わされて終わりでは後輩たちも面白くないので、ある司祭がこう切り返す。「婆、が評議会にいる時は、どうなるんですか」。これも強烈な反撃だ。すると先輩は「婆がいても爺20なの。細かいこと言うな」。研修会はセクハラ、パワハラ、人権問題の研修だったが、先輩に「いちいちうるさい」と言われ、パワーに圧倒されてその話題は終わった。「爺20(twenty)」は不適切な用語かも知れない。
▼話はこれに終わらない。「長崎こども・女性・障害者支援センター」の所長の講義を受け、「うつ病は脳内のセロトニンやノルアドレナリンが減少している状態。携帯電話が極度のバッテリー切れを起こしている状態。だから、用心して活動するのではなく、生きる最低限のこと以外何もしないで、充電することが必要です」とアドバイスしてくれた。
▼それを聞いた後の夕食。また別の先輩が、「あー、難しか講義ば聞いて、バッテリー切ればい」とこぼした。その先輩は続けてこうも言った。「バッテリー切れの時は、何もするなと言うとったよなぁ。そんなら、明日の分団会も、全体会も、休まんばやろー」。おー、そう来たか。
▼わたしたちはバッテリーが切れても、快復しない病的なバッテリー切れではない。だから、朝起きれば、ちゃんと活動に入ることができる。先輩の道理は通用しないと思うが、面白い発想だと諸先輩方にあらためて敬服したのである。ただ、うつ病になると、気分転換も良くないらしくて、本当につらいのだなぁとはっきり分かった。

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新企画今週の1枚
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第66回目。26聖人殉教記念ミサを、後で掲載します。お待ちください。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(ルカ6:17,20-26)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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