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こうじ神父
「今週の説教」
09/05/24(No.418)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の昇天
(マルコ16:15-20)
昇天の直後から、主は共にいて働く
‥‥‥†‥‥‥‥
主の昇天の祭日を迎えました。これから連続して祭日が続きます。来週は聖霊降臨、その次は三位一体、さらにキリストの聖体、さらにキリストの聖体の週の金曜日にイエスのみ心の祭日がやってきます。この一連の祭日は、セットにして覚えることにしましょう。
また、今年はイエスのみ心の祭日から、ベネディクト16世教皇の発表により、「司祭年」が始まります。司祭年に当たっての司祭に向けられたテーマは、「キリストと司祭職への忠実」となっています。「司祭年」を過ごす今年は、特に司祭のためにお祈りいただければ幸いです。
さて、主の昇天に示されたメッセージをお互い学び合いましょう。イエスが天に昇られるというのですから、まず考えなければならないことは、天に昇られるイエスを、わたしたちはどのように見つめればよいのかということです。
見方としては、わたしたちに先立って天に昇られたのだから、イエスに希望を置こうと考えることは大切だと思います。イエスはたんに御父のもとに昇って行かれたのではなく、わたしたちのために場所を用意しに、先に行ってくださる(ヨハネ14・2-3参照)と考えることで、天に昇るイエスの姿を思う時、希望を持つことができると思います。
もう一つは、イエスの次の言葉です。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(16・15)宣教に出かけて行きなさいと言うのですが、そんなに簡単なことなのでしょうか。イエスがそばにいて初めて、弟子たちは宣教活動ができるのではないでしょうか。この疑問に、しっかり答えを見つけなければなりません。
実際、イエスが共にいてくださらなければ、弟子たちはほとんど無力です。イエスと一緒に行動しておられた時でさえ、弟子たちだけで悪霊に悩まされている子供を救ってあげることができませんでした。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」(9・18)とあります。
弟子たちはイエスが共にいてくださらなければ自分たちがまったく無力であることをよく知っていたことでしょう。それなのに、宣教に出かけなさいという命令を受けて、さっそく出かけて行ったとすれば、弟子たちのそばにイエスが留まってくださる、共にいてくださるという確信があったからに違いありません。
確かに、今日の福音朗読の最後には「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(16・20)とあって、主が弟子たちと共に働いたことが分かります。けれども、弟子たちは、イエスが天に昇られた時点で即座にこれからもイエスが共にいてくださることを理解したのでしょうか。
わたしは、イエスが天に上げられてから弟子たちが宣教活動に出かけて行くまでには時間があって、そのことが今日の福音朗読には省略されていると思います。そのことを解く鍵は、今日の朗読箇所がマルコ自身が書いたものかどうかということにあります。
マルコ福音書自体は、60年代から70年代に書かれたとされています。四つの福音書の中で最も早く書かれた書物です。ところで、大多数の学者は、今週の朗読箇所を含むマルコ16章9-20節は、マルコが書いた結びではなく、マルコ以後に書き加えられた結びであると主張しています。そうであるなら、今日朗読された、弟子たちが積極的に宣教活動に出かけて行くさまは、ある一定の時間が経過した後の出来事、例えば2世紀初頭の出来事だろうと思われるのです。
2世紀初頭の出来事であれば、聖霊降臨もすでに体験しているはずです。つまり、今日登場している弟子たちというのは、聖霊降臨後の弟子たちの宣教の様子が、あたかも主の昇天直後であるかのように付け加えられているということです。
弟子たちが宣教に出かける様子をマルコ福音書の最後に付け加えた後代の編集者は、聖霊降臨以後に起こったことを、主の昇天直後のことだったと歴史を書き換えようとして付け加えたのでしょうか。わたしはそうは思いません。
この付け加えで後代の編集者が言いたいのは、主の昇天直後から、イエスは弟子たちと共におられたのだということが言いたくて、このような書き方をしたのだと思います。そのことを実感したのは聖霊降臨の時ですが、昇天された直後から、イエスは弟子たちと共にいてくださったのです。
このことはわたしたちに一つのことを考えさせます。わたしたちはいつになったら宣教する信徒へと変わるのだろうかということです。それに対する答えは、「あなたが、イエスはわたしと共にいてくださる」「イエスはわたしたちと共にいてくださる」と感じたその時から、すでに宣教者なのです。
長崎教区のここ十年来のモットーは、「参加し・交わり・宣教する」ということですが、わたしたち一人一人を振り返ると、「参加し・交わる」ことまでは何とか関わっていると感じていますが、なかなか「宣教する」ということまで踏み込めていないのが現状ではないでしょうか。
つまり、わたしの家族で、洗礼を受けてもいいかなぁと思っている人がいても、直接口に出して勧める勇気がないとか、わたしの近所の人で、正直に生きているけれども特別な信仰は持っていないというような人に、「日曜日、よかったら教会に一緒に行きませんか」と、そこまでは声に出せない。そんな状態なのではないでしょうか。
そうであるなら、やはり何かの機会に、「もっと宣教する」ということに心を向けるべきだと思います。この1年間取り組んできた「パウロ年」がきっかけを与えてくれましたし、今年6月18日から始まる「司祭年」はさらに良い機会になるでしょう。
わたしたちが「イエスはわたしと共にいてくださるんだ」と感じたなら、ためらわずにわたしにできる宣教に関わってほしいと思います。イエスは2世紀初頭だけではなく、今も、「共に働き、語る言葉が真実であることを、それにともなうしるしによってはっきりお示しになる」のです。
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ちょっとひとやすみ
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▼何事も百発百中とは行かないもので、東京から4月に顔つなぎをしていた人が実家の大村に行くついでで伊王島を訪ねてくれた。この方は、まだ顔を知らない頃に、開高 健著「私の釣魚大全」という本をプレゼントしてくれたほどの釣り好きである。釣り好きに悪人はいない(と思っている)。喜んで伊王島の海を案内した。
▼いくつか実績のある場所にボートで出てみた。試行錯誤、いろいろやってみたが、マジックくらいの太さのエソしか釣れない。こんなはずでは・・・と思いつつ場所を変えて試してみるが、どうしても結果に結び付けられない。そうこうしていると、来訪者がササノハベラ(長崎で言うクサブ)を2匹釣り、ことのほか喜んでくれた。
▼ションボリしながら司祭館に戻り、賄い婦のSさんに状況を説明すると、Sさんがこう言った。「あら~。ふだんはこんなではないんですよ。今日は最低。な~んにも釣れてないじゃないですか。せっかく遠くからの客が乗ってたのに、一番ひどいですね・・・」ねぎらってもらえるかと思ったら、やぶ蛇になった。ふだん釣っている魚を見ているだけに、思ったことを正直に言ったのだろう。
▼どうにも納得がいかず、なぜ釣れなかったのか、どんな方法なら釣れるのか、もう一度日を改めて検証に行った。「検証」という名目での釣りである。この日は「アミエビ」をカゴに詰めて、枝針3本の仕掛けをつなぎ、アジのタナを探すことにした。
▼海底に着底してから1メートルか、1メートル50ほど竿を上げて止める。するとみごとに、30センチほどのアジが4匹釣れた。他にも、着底してすぐの場所で型のいいカサゴ(長崎で言うアラカブ)が2匹釣れた。なーんだ。方法を変えれば、魚はいるじゃないか。これにて一件落着。
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新企画今週の1枚
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第25回目。司祭が銃で狙撃されています。殉教し、聖人になった会員でしょう。
詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。
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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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主の昇天
(マルコ16:15-20)
昇天の直後から、主は共にいて働く
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主の昇天の祭日を迎えました。これから連続して祭日が続きます。来週は聖霊降臨、その次は三位一体、さらにキリストの聖体、さらにキリストの聖体の週の金曜日にイエスのみ心の祭日がやってきます。この一連の祭日は、セットにして覚えることにしましょう。
また、今年はイエスのみ心の祭日から、ベネディクト16世教皇の発表により、「司祭年」が始まります。司祭年に当たっての司祭に向けられたテーマは、「キリストと司祭職への忠実」となっています。「司祭年」を過ごす今年は、特に司祭のためにお祈りいただければ幸いです。
さて、主の昇天に示されたメッセージをお互い学び合いましょう。イエスが天に昇られるというのですから、まず考えなければならないことは、天に昇られるイエスを、わたしたちはどのように見つめればよいのかということです。
見方としては、わたしたちに先立って天に昇られたのだから、イエスに希望を置こうと考えることは大切だと思います。イエスはたんに御父のもとに昇って行かれたのではなく、わたしたちのために場所を用意しに、先に行ってくださる(ヨハネ14・2-3参照)と考えることで、天に昇るイエスの姿を思う時、希望を持つことができると思います。
もう一つは、イエスの次の言葉です。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(16・15)宣教に出かけて行きなさいと言うのですが、そんなに簡単なことなのでしょうか。イエスがそばにいて初めて、弟子たちは宣教活動ができるのではないでしょうか。この疑問に、しっかり答えを見つけなければなりません。
実際、イエスが共にいてくださらなければ、弟子たちはほとんど無力です。イエスと一緒に行動しておられた時でさえ、弟子たちだけで悪霊に悩まされている子供を救ってあげることができませんでした。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」(9・18)とあります。
弟子たちはイエスが共にいてくださらなければ自分たちがまったく無力であることをよく知っていたことでしょう。それなのに、宣教に出かけなさいという命令を受けて、さっそく出かけて行ったとすれば、弟子たちのそばにイエスが留まってくださる、共にいてくださるという確信があったからに違いありません。
確かに、今日の福音朗読の最後には「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(16・20)とあって、主が弟子たちと共に働いたことが分かります。けれども、弟子たちは、イエスが天に昇られた時点で即座にこれからもイエスが共にいてくださることを理解したのでしょうか。
わたしは、イエスが天に上げられてから弟子たちが宣教活動に出かけて行くまでには時間があって、そのことが今日の福音朗読には省略されていると思います。そのことを解く鍵は、今日の朗読箇所がマルコ自身が書いたものかどうかということにあります。
マルコ福音書自体は、60年代から70年代に書かれたとされています。四つの福音書の中で最も早く書かれた書物です。ところで、大多数の学者は、今週の朗読箇所を含むマルコ16章9-20節は、マルコが書いた結びではなく、マルコ以後に書き加えられた結びであると主張しています。そうであるなら、今日朗読された、弟子たちが積極的に宣教活動に出かけて行くさまは、ある一定の時間が経過した後の出来事、例えば2世紀初頭の出来事だろうと思われるのです。
2世紀初頭の出来事であれば、聖霊降臨もすでに体験しているはずです。つまり、今日登場している弟子たちというのは、聖霊降臨後の弟子たちの宣教の様子が、あたかも主の昇天直後であるかのように付け加えられているということです。
弟子たちが宣教に出かける様子をマルコ福音書の最後に付け加えた後代の編集者は、聖霊降臨以後に起こったことを、主の昇天直後のことだったと歴史を書き換えようとして付け加えたのでしょうか。わたしはそうは思いません。
この付け加えで後代の編集者が言いたいのは、主の昇天直後から、イエスは弟子たちと共におられたのだということが言いたくて、このような書き方をしたのだと思います。そのことを実感したのは聖霊降臨の時ですが、昇天された直後から、イエスは弟子たちと共にいてくださったのです。
このことはわたしたちに一つのことを考えさせます。わたしたちはいつになったら宣教する信徒へと変わるのだろうかということです。それに対する答えは、「あなたが、イエスはわたしと共にいてくださる」「イエスはわたしたちと共にいてくださる」と感じたその時から、すでに宣教者なのです。
長崎教区のここ十年来のモットーは、「参加し・交わり・宣教する」ということですが、わたしたち一人一人を振り返ると、「参加し・交わる」ことまでは何とか関わっていると感じていますが、なかなか「宣教する」ということまで踏み込めていないのが現状ではないでしょうか。
つまり、わたしの家族で、洗礼を受けてもいいかなぁと思っている人がいても、直接口に出して勧める勇気がないとか、わたしの近所の人で、正直に生きているけれども特別な信仰は持っていないというような人に、「日曜日、よかったら教会に一緒に行きませんか」と、そこまでは声に出せない。そんな状態なのではないでしょうか。
そうであるなら、やはり何かの機会に、「もっと宣教する」ということに心を向けるべきだと思います。この1年間取り組んできた「パウロ年」がきっかけを与えてくれましたし、今年6月18日から始まる「司祭年」はさらに良い機会になるでしょう。
わたしたちが「イエスはわたしと共にいてくださるんだ」と感じたなら、ためらわずにわたしにできる宣教に関わってほしいと思います。イエスは2世紀初頭だけではなく、今も、「共に働き、語る言葉が真実であることを、それにともなうしるしによってはっきりお示しになる」のです。
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ちょっとひとやすみ
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▼何事も百発百中とは行かないもので、東京から4月に顔つなぎをしていた人が実家の大村に行くついでで伊王島を訪ねてくれた。この方は、まだ顔を知らない頃に、開高 健著「私の釣魚大全」という本をプレゼントしてくれたほどの釣り好きである。釣り好きに悪人はいない(と思っている)。喜んで伊王島の海を案内した。
▼いくつか実績のある場所にボートで出てみた。試行錯誤、いろいろやってみたが、マジックくらいの太さのエソしか釣れない。こんなはずでは・・・と思いつつ場所を変えて試してみるが、どうしても結果に結び付けられない。そうこうしていると、来訪者がササノハベラ(長崎で言うクサブ)を2匹釣り、ことのほか喜んでくれた。
▼ションボリしながら司祭館に戻り、賄い婦のSさんに状況を説明すると、Sさんがこう言った。「あら~。ふだんはこんなではないんですよ。今日は最低。な~んにも釣れてないじゃないですか。せっかく遠くからの客が乗ってたのに、一番ひどいですね・・・」ねぎらってもらえるかと思ったら、やぶ蛇になった。ふだん釣っている魚を見ているだけに、思ったことを正直に言ったのだろう。
▼どうにも納得がいかず、なぜ釣れなかったのか、どんな方法なら釣れるのか、もう一度日を改めて検証に行った。「検証」という名目での釣りである。この日は「アミエビ」をカゴに詰めて、枝針3本の仕掛けをつなぎ、アジのタナを探すことにした。
▼海底に着底してから1メートルか、1メートル50ほど竿を上げて止める。するとみごとに、30センチほどのアジが4匹釣れた。他にも、着底してすぐの場所で型のいいカサゴ(長崎で言うアラカブ)が2匹釣れた。なーんだ。方法を変えれば、魚はいるじゃないか。これにて一件落着。
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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
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