こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第3主日(マタイ11:2-11)判断が揺らいだときこそ、イエスに合わせましょう

2007-12-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/12/16(No.330)
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待降節第3主日
(マタイ11:2-11)
判断が揺らいだときこそ、イエスに合わせましょう
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今年、中田神父に1つ心残りがあるとすれば、今年も福岡教区の新しい司教さまが決まらなかったということです。松永司教さまが亡くなられて1年半になります。世の中で言えば、会社の社長が亡くなって1年半経ったということです。会社を力強く引っ張っていくはずの社長が1年半ものあいだ空白になれば、その会社はどうなっていくでしょうか。

そういうことを考えると、隣の教区の話ではあっても、日本の教会が足並みそろえて歩み続けるためにも、人ごとでは済まされないような気がするのです。ことの重大さで考えれば、188殉教者の列福式よりも先に、福岡教区に新しい司教さまを選んで欲しいなぁと、個人的には考えます。

皆さんにも経験があるかも知れませんが、どれだけある人やある物にお世話になっていても、いったんその恩恵から遠ざかってしまうと、大切さが分からなくなるのです。中田神父はもう3年以上一般紙を読んでいませんが、それまで毎日欠かさず読み続けていた新聞でも、いったん読まなくなってしまうと「読まなくてもいいかなぁ」というような気になるものです。

福岡教区の教区長を新聞と比べるつもりはありませんが、福岡教区の司祭、修道者、信徒が教区長を早く与えてほしいという気持ちにかげりが生じたりはしないかと心配になります。もちろんそんなことは決してないと信じたいですが、長く教区長が与えられないままだと、やはり余計なことが頭に浮かんでしまうのです。福岡教区のことをバチカンはどう考えているのだろうとか、余計なことだとは承知していても、つい考えてしまいます。

ただ、これだけ長く待たされれば、「やはり何か神さまの考えが働いているのではないか」そういう思いも一方ではわいてきます。神さまの目に福岡教区はどう映っているのだろうか。いやいや神さまは今慎重にお考えになっているに違いない。思いは揺れますが、どこかで私の心は、「きっと、何か考えがあってのことだろう」という結論に落ち着きます。神さまが、ご自分の愛しておられる福岡教区を放っておくはずがありません。

自分で考えていることと、実際に目の前で起こっていることが違っていたら、私たちはどう理解すればよいのでしょうか。そんな場合、信仰に関わる問題であれば、1つの大原則があります。それは、イエスが指し示すほうに自分を合わせる、ということです。このことを頭に置いて、今週の福音朗読を考えてみましょう。

まず、先週の福音書を少し思い出しましょう。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(3・11-12)。洗礼者ヨハネは、「力強い救い主」を人々に紹介しました。

ところが、ヨハネの弟子たちが見たイエスは、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(11・4-6)と、洗礼者ヨハネが考えていた「強い人」の姿と少し違っていたのです。

そこで、今週考えたいいちばんのテーマですが、伝わってくるイエスの姿が、考えていた救い主の姿とは違っている。思っていたことと違う話が聞こえてきている。こんな時、どうすればいいのでしょうか。

答えははっきりしています。イエスに自分を合わせる。これが正しい態度です。洗礼者ヨハネは救い主を「力強い人」と思っていたのに、聞こえてくるのは「柔和な人、あわれみ深い人」だった。ヨハネはすぐに、考えをイエスに合わせたのです。

信仰の目で物事を捉えるために、同じことを、生活の中でも実行しましょう。心の中で、「出来事がこうなってほしい」と思っていた。けれども、結果は違っていた。神に、「願っていた結果と違います」と言うのではなくて、「神よ、あなたが望む結果に合わせます」と、落ち着いて考えることです。

生活の中では、考えていた結果と違うことも頻繁に起こります。会社の中で、家族の中で、教会の中でも予想と違う結果を体験することがあります。説教の初めに話したように、福岡教区にどうして早く司教さまが与えられないだろうかと私はこのところずっと感じております。

こんな時、神が私たちを訓練していると考えましょう。あなたが期待していること、予想している結果よりも、神が示す結果の方が正しく、豊かなのです。予想と違う結果を受け入れるのはある場合大変つらいことですが、それは、もっと深く、もっと強く、神を信じるためなのです。今回の福岡教区に起こっていることは、もっと深く、もっと強く、司教さまを待ち望む時間になるのだと思います。

神は今週、私たちに次のことを求めます。あなたの心の中に不安が起こったら、イエスが言葉と行いで示すありのままの姿を、もっと深く信じなさい。もっと強く信じて、信仰を育てなさいということです。

洗礼者ヨハネも、不安になりました。彼は、自分の考えと実際のイエスの姿が違ったとき、イエスに信頼し、自分自身を合わせました。福岡教区にとっても、新しい教区長に全幅の信頼を置くための忍耐の時間です。福岡教区のことで考えが止まってはいけません。幼子としておいでになるイエスを待っている私たちも、神が示してくださる答えに機敏に合わせていくことができるように、信仰の恵みを願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼どうしてこんなことが起こるのだろうか。金曜日、実家の父に頼まれて佐世保市役所近くの整形外科に手術入院している叔父を見舞いに行った。父が五島から船でやって来て、遅れてこうじ神父が大波止ターミナルに到着。合流して車でバイパスと高速を飛ばして叔父を見舞いに行った。
▼叔父は重い腰痛の手術だったそうだ。それでも佐世保市内でも有名な病院らしく、術後の経過は良好のようだった。聖体拝領もさせて、午後2時に佐世保市内からでた。この日の夜、スポーツジムで、散弾銃を使った惨劇が起こるとは、誰が考えるだろうか。
▼その日のニュースでは、犯人が逃走したことまでしか報道されなかった。死者が2人、けが人が6人出た。そのニュースに胸を痛めていたところに、土曜日の朝にはカトリック教会の敷地内で散弾銃を使って容疑者が自殺するという最悪の結果になってしまった。どうして犯行にいたった経緯を語ることなく命を絶ってしまったのか。悔しい。
▼容疑者はカトリック信者だった。カトリック信者は命の尊さをしっかり教えられているはずなのに、いったいどうなってしまったのだろうか。カトリック信者であるかどうかに関わりなく、なぜ他人と自分の命に手をかけたのか、理由を知りたかった。

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今週のセンテンス
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第10回目。言語は置かれている環境に大きく影響を受ける。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(マタイ1:18-24)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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