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こうじ神父
「今週のお説教」
07/07/08(No.306)
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年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20)
イエスは一人ひとりに「行きなさい」と呼びかけます
‥‥‥†‥‥‥‥
朗読された福音で、イエスは七十二人を選んで、先にお遣わしになりました。今日は、イエスに送られていく弟子の気持ちになって味わってみたいと思います。初めに、弟子たちの気持ちを探るいくつかのポイントを紹介しておきます。
イエスは、送り出すに当たって、「それは、狼の群に子羊を送り込むようなものだ」と仰います。どんなに腹の据わった人でも、こんなことを言われると不安になるのではないでしょうか。弟子たちの不安は想像に難くありません。
「財布も袋も履き物も持って行くな」これは、自分たちを送り出したイエスに、全幅の信頼をおいて出発しなさいということです。安易に頼りたくなるこの世の便利なものを一切頼らず、イエスだけがよりどころなのだとあらためて思い直した弟子たちは、おおいに気を引き締めたことだと思います。
「途中で誰にも挨拶をするな」弟子たちは先を急ぐのだから、途中で油を売っている暇はないということですが、行った先で上手くやって行けるだろうか、自分は受け入れてもらえるだろうか、周囲の人に抱えている心配を話せば一人ひとり違ったことをアドバイスされて、余計に不安になるかもしれません。もしかしたら、そうした不安を途中で持ち込まないためのイエスの配慮だったのかも知れません。
一通り眺めてみましたが、振り返って、弟子たちに言われた諸注意をこれまでの自分の体験と重ね合わせてみたとき、初めて主任司祭になったとき、ちょうど同じだったなあと感じました。ただイエスにのみ信頼を置いて出かける、イエスの勧めがこの時ほど身にしみて感じたことはありませんでした。
浦上教会で5年、滑石教会で1年、合計6年の助任司祭を経て、初めて主任司祭としての辞令を受けました。責任重大だなぁと何となくは思っていましたが、まだ見たこともない神の家族の言わば家長となるということの重さは、辞令を受けてから日増しに高まっていきました。
初めて主任司祭として赴任したのは太田尾教会だったわけですが、その日まで私は、勉強不足で太田尾教会がどこにあるのかさえ知りませんでした。祝日表に書かれている住所を見ると、西彼杵郡とあります。あー、街の教会ではないのだなとすぐ思いましたが、それでどんな苦労を背負うことになるのか、見当も付きませんでした。
辞令が確実なものとなってから、一度当地の主任司祭と引き継ぎをするために下見に行きました。今でも忘れませんが、車を走らせている間、畝刈、黒崎、出津、大瀬戸までは何とか長崎市の周辺だなあという景色だったのですが、大瀬戸を越えると突然景色が変わり、完全にこれから先は田舎なのだと思い知らされたのでした。当時は、6年間街中の教会にお世話になっていたので、便利な教会、大きな教会を物差しにして考えていたのは確かです。これは間違った見方でしたが、当時は「田舎は不便」と、だんだん家も何もない景色に変わっていく中でションボリしたものです。
イエスは弟子たちを派遣するときに、「イエスにのみ信頼を置いて出かけるように」と形を変えて何度も念を押しています。私自身は、その意味が今ひとつ分かっていなかったのですが、太田尾教会に主任司祭として赴任したときに初めてああこういうことかと実感できたのです。この世の何者にも信頼を置かないようにと言うイエスは、弟子たち、またのちの司祭たちにこう励ましていたのです。「あとのことはすべてわたしが準備する。あなたに絶対になくてはならないのは、主であるわたしがすべてを補ってあまりあるということを決して疑わない信頼の心だ」。
確かにそうでした。世間の荒波に揉まれている信徒のなかには、びくっとするようなものの言い方をする人もいます。「おー、神父、お前が何を知っているというのか」。その中に初めて主任司祭になった私が飛び込めば、どぎまぎするに違いありません。そんな時でも、イエスは私に力を貸して下さり、勇気を持ってその人と向き合うことができるようにしてくれました。
「財布も袋も履き物も持って行くな」。私はたくさんの荷物を抱えていましたし、財布も袋も履き物も持っていました。ただ、ここで言う「財布も袋も履き物も」という意味は、教会活動を支える予算のことかも知れません。行った先が心配だから予算の目処が付くだけの資金を工面するかどうか。結果としてその心配は全く必要ないことでした。行った先の小教区で予算に余裕はありませんでした。けれどもこうした必要さえも、イエスに全幅の信頼を置くことに比べれば、たいした心配ではなかったのです。
「途中で誰にも挨拶をするな」というのもその通りです。新しい任地に向けて、まっしぐらに向かい、しっかり新しい土地で根を張り、実を結ぶ。そのためには新しい任地のことだけを心に留めて、昔への懐かしさをいっさい横に置くことがイエスに信頼を寄せる証しになります。こうしてどんな面から見ても、イエスにのみ信頼を置いて活動するという基本を徹底的に身につけるすばらしい体験ができました。
今、太田尾教会での経験を経てこちらの小教区に来て3年3ヶ月、初めての主任司祭の時よりも頭を抱える問題もたくさんありましたが、一つひとつ解決することができています。この3年で学んだことは、イエスに徹底的に信頼を寄せることは、すべてに解決の道を見いだすことができるということです。
ところで、弟子たちの派遣に目立っている特徴は、「はっきりした使命を持って飛び込んでいく」ということです。それは、出かけた先でキリストの平和を願い、神の国がやってきたことを、言葉でも態度でも、つまり生活全体で表すということです。この一点に、弟子たちの働きは集中します。
決して、成功するかどうかではありません。気に入られるかどうかではありません。その土地にキリストの平和がみなぎるように、言わないといけないことを言い、取り組まないといけないことを取り組む。それが遣わされた弟子たちに求められていることでした。
そう考えてみると私自身、謙虚に反省すべきことは反省したいと思います。神の国がここまでやって来ましたよ、神様はここにも来てくださって、救いを知らせておられますよ。そう触れ回るために、惜しまず自分を与えているだろうか。反省ばかりが目に付く気がします。
もちろん、引き締めたりリラックスしたりもします。なかなか釣りにも行けませんでしたが、この前7月3日聖トマスのお祝いの日には、自分でお祝いするために魚を釣りに行きまして、大きなアジを6匹釣りました。そういうリラックスも入れますが、それでも全体としては「神の国がわたしたちの馬込小教区にもたしかにやって来ている」と、皆さんに伝えることのできる司祭でありたいと思ってはいるのです。どうも、趣味でのリラックスが本業に結びついているか、疑わしいところもありますが。
伊王島・高島の信者すべてが「カトリック信者でよかった」と思える日はまだ完全にはやって来ていないと思います。日曜日に集まり、神のことばから学んだことをこれからも糧にして、互いに神の国を言い広める者となっていきましょう。一人ひとり、これからも精進したいものです。
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ちょっとひとやすみ
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▼結婚式の説教。再婚のカップル。年金受給世代。男性はベテラン溶接工。私はこのカップルに、次のような話をした。「溶接の仕事は、まことの愛を学ぶすばらしい職業です。溶接した金属は、『表面上』くっついていても、外から力が加わればあっけなく折れてしまいます。夫婦の愛も、『表面上』くっついているように見えるだけでは、外から思いがけない力がかかったときにもろいのです。
▼確実に、金属が溶接されている状態は、『表面も、内部も、完全に一つに解けてつながっている』のです。夫婦も、『内部まで、つまり心も固く一致している状態』が、まことの愛で結びあわされている状態です。このように確実につなぎ合わされているとき、金属であれば力をどれだけ入れても柔軟に曲がって力を受け止め、決して折れたりすることはありません。夫婦のまことの愛も、心までつなぎ合わされているとき、外部から仮に力がかかっても柔軟に受け止め、折れることはないのです。
▼さて、夫婦の心の中までつなぎ合わせるものは何でしょうか。心をつなぎ合わせるものは、表面をつなぐようなこの世の物ではありません。心をつなぎ合わせるもの、それは『信仰』です。どうぞ、これからの生活、しっかりとつなぎ合わされた夫婦であるために、信仰を大切にしていってください」。
▼この説教がよほど良かったのか、高島から船を下りて伊王島のターミナルに戻ったとき、入れ違いで船に乗って長崎の大波止に向かう一行から「やぁ神父さん、今日の結婚式の説教はとても心に響きました。神父さんとてもユニークですなぁ。あー、俺も溶接工になっていれば、あんな説教で結婚式をしてもらえたのになぁ」と声をかけられた。ありがたいお褒めの言葉に、しばらくは長崎に向かう交通船を見送った。
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こうじ神父絵手紙
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第87回目。可能性があれば、昨日結婚した若いカップルのほうの写真を入れてみます。
詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。
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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(ルカ10:25-37)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/07/08(No.306)
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年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20)
イエスは一人ひとりに「行きなさい」と呼びかけます
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朗読された福音で、イエスは七十二人を選んで、先にお遣わしになりました。今日は、イエスに送られていく弟子の気持ちになって味わってみたいと思います。初めに、弟子たちの気持ちを探るいくつかのポイントを紹介しておきます。
イエスは、送り出すに当たって、「それは、狼の群に子羊を送り込むようなものだ」と仰います。どんなに腹の据わった人でも、こんなことを言われると不安になるのではないでしょうか。弟子たちの不安は想像に難くありません。
「財布も袋も履き物も持って行くな」これは、自分たちを送り出したイエスに、全幅の信頼をおいて出発しなさいということです。安易に頼りたくなるこの世の便利なものを一切頼らず、イエスだけがよりどころなのだとあらためて思い直した弟子たちは、おおいに気を引き締めたことだと思います。
「途中で誰にも挨拶をするな」弟子たちは先を急ぐのだから、途中で油を売っている暇はないということですが、行った先で上手くやって行けるだろうか、自分は受け入れてもらえるだろうか、周囲の人に抱えている心配を話せば一人ひとり違ったことをアドバイスされて、余計に不安になるかもしれません。もしかしたら、そうした不安を途中で持ち込まないためのイエスの配慮だったのかも知れません。
一通り眺めてみましたが、振り返って、弟子たちに言われた諸注意をこれまでの自分の体験と重ね合わせてみたとき、初めて主任司祭になったとき、ちょうど同じだったなあと感じました。ただイエスにのみ信頼を置いて出かける、イエスの勧めがこの時ほど身にしみて感じたことはありませんでした。
浦上教会で5年、滑石教会で1年、合計6年の助任司祭を経て、初めて主任司祭としての辞令を受けました。責任重大だなぁと何となくは思っていましたが、まだ見たこともない神の家族の言わば家長となるということの重さは、辞令を受けてから日増しに高まっていきました。
初めて主任司祭として赴任したのは太田尾教会だったわけですが、その日まで私は、勉強不足で太田尾教会がどこにあるのかさえ知りませんでした。祝日表に書かれている住所を見ると、西彼杵郡とあります。あー、街の教会ではないのだなとすぐ思いましたが、それでどんな苦労を背負うことになるのか、見当も付きませんでした。
辞令が確実なものとなってから、一度当地の主任司祭と引き継ぎをするために下見に行きました。今でも忘れませんが、車を走らせている間、畝刈、黒崎、出津、大瀬戸までは何とか長崎市の周辺だなあという景色だったのですが、大瀬戸を越えると突然景色が変わり、完全にこれから先は田舎なのだと思い知らされたのでした。当時は、6年間街中の教会にお世話になっていたので、便利な教会、大きな教会を物差しにして考えていたのは確かです。これは間違った見方でしたが、当時は「田舎は不便」と、だんだん家も何もない景色に変わっていく中でションボリしたものです。
イエスは弟子たちを派遣するときに、「イエスにのみ信頼を置いて出かけるように」と形を変えて何度も念を押しています。私自身は、その意味が今ひとつ分かっていなかったのですが、太田尾教会に主任司祭として赴任したときに初めてああこういうことかと実感できたのです。この世の何者にも信頼を置かないようにと言うイエスは、弟子たち、またのちの司祭たちにこう励ましていたのです。「あとのことはすべてわたしが準備する。あなたに絶対になくてはならないのは、主であるわたしがすべてを補ってあまりあるということを決して疑わない信頼の心だ」。
確かにそうでした。世間の荒波に揉まれている信徒のなかには、びくっとするようなものの言い方をする人もいます。「おー、神父、お前が何を知っているというのか」。その中に初めて主任司祭になった私が飛び込めば、どぎまぎするに違いありません。そんな時でも、イエスは私に力を貸して下さり、勇気を持ってその人と向き合うことができるようにしてくれました。
「財布も袋も履き物も持って行くな」。私はたくさんの荷物を抱えていましたし、財布も袋も履き物も持っていました。ただ、ここで言う「財布も袋も履き物も」という意味は、教会活動を支える予算のことかも知れません。行った先が心配だから予算の目処が付くだけの資金を工面するかどうか。結果としてその心配は全く必要ないことでした。行った先の小教区で予算に余裕はありませんでした。けれどもこうした必要さえも、イエスに全幅の信頼を置くことに比べれば、たいした心配ではなかったのです。
「途中で誰にも挨拶をするな」というのもその通りです。新しい任地に向けて、まっしぐらに向かい、しっかり新しい土地で根を張り、実を結ぶ。そのためには新しい任地のことだけを心に留めて、昔への懐かしさをいっさい横に置くことがイエスに信頼を寄せる証しになります。こうしてどんな面から見ても、イエスにのみ信頼を置いて活動するという基本を徹底的に身につけるすばらしい体験ができました。
今、太田尾教会での経験を経てこちらの小教区に来て3年3ヶ月、初めての主任司祭の時よりも頭を抱える問題もたくさんありましたが、一つひとつ解決することができています。この3年で学んだことは、イエスに徹底的に信頼を寄せることは、すべてに解決の道を見いだすことができるということです。
ところで、弟子たちの派遣に目立っている特徴は、「はっきりした使命を持って飛び込んでいく」ということです。それは、出かけた先でキリストの平和を願い、神の国がやってきたことを、言葉でも態度でも、つまり生活全体で表すということです。この一点に、弟子たちの働きは集中します。
決して、成功するかどうかではありません。気に入られるかどうかではありません。その土地にキリストの平和がみなぎるように、言わないといけないことを言い、取り組まないといけないことを取り組む。それが遣わされた弟子たちに求められていることでした。
そう考えてみると私自身、謙虚に反省すべきことは反省したいと思います。神の国がここまでやって来ましたよ、神様はここにも来てくださって、救いを知らせておられますよ。そう触れ回るために、惜しまず自分を与えているだろうか。反省ばかりが目に付く気がします。
もちろん、引き締めたりリラックスしたりもします。なかなか釣りにも行けませんでしたが、この前7月3日聖トマスのお祝いの日には、自分でお祝いするために魚を釣りに行きまして、大きなアジを6匹釣りました。そういうリラックスも入れますが、それでも全体としては「神の国がわたしたちの馬込小教区にもたしかにやって来ている」と、皆さんに伝えることのできる司祭でありたいと思ってはいるのです。どうも、趣味でのリラックスが本業に結びついているか、疑わしいところもありますが。
伊王島・高島の信者すべてが「カトリック信者でよかった」と思える日はまだ完全にはやって来ていないと思います。日曜日に集まり、神のことばから学んだことをこれからも糧にして、互いに神の国を言い広める者となっていきましょう。一人ひとり、これからも精進したいものです。
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ちょっとひとやすみ
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▼結婚式の説教。再婚のカップル。年金受給世代。男性はベテラン溶接工。私はこのカップルに、次のような話をした。「溶接の仕事は、まことの愛を学ぶすばらしい職業です。溶接した金属は、『表面上』くっついていても、外から力が加わればあっけなく折れてしまいます。夫婦の愛も、『表面上』くっついているように見えるだけでは、外から思いがけない力がかかったときにもろいのです。
▼確実に、金属が溶接されている状態は、『表面も、内部も、完全に一つに解けてつながっている』のです。夫婦も、『内部まで、つまり心も固く一致している状態』が、まことの愛で結びあわされている状態です。このように確実につなぎ合わされているとき、金属であれば力をどれだけ入れても柔軟に曲がって力を受け止め、決して折れたりすることはありません。夫婦のまことの愛も、心までつなぎ合わされているとき、外部から仮に力がかかっても柔軟に受け止め、折れることはないのです。
▼さて、夫婦の心の中までつなぎ合わせるものは何でしょうか。心をつなぎ合わせるものは、表面をつなぐようなこの世の物ではありません。心をつなぎ合わせるもの、それは『信仰』です。どうぞ、これからの生活、しっかりとつなぎ合わされた夫婦であるために、信仰を大切にしていってください」。
▼この説教がよほど良かったのか、高島から船を下りて伊王島のターミナルに戻ったとき、入れ違いで船に乗って長崎の大波止に向かう一行から「やぁ神父さん、今日の結婚式の説教はとても心に響きました。神父さんとてもユニークですなぁ。あー、俺も溶接工になっていれば、あんな説教で結婚式をしてもらえたのになぁ」と声をかけられた。ありがたいお褒めの言葉に、しばらくは長崎に向かう交通船を見送った。
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こうじ神父絵手紙
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第87回目。可能性があれば、昨日結婚した若いカップルのほうの写真を入れてみます。
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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(ルカ10:25-37)
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