こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第5主日(ヨハネ14:1-12)通らなければならない道をきっちり通りましょう

2023-05-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2023/5/7(No.1236)
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復活節第5主日(ヨハネ14:1-12)
通らなければならない道をきっちり通りましょう
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先週、教区評議会総会がありまして、前任地田平教会の新しい議長になられた方とお会いしました。その際お菓子を二種類頂きまして、そのうちの一つは「平戸こいしや」というお菓子でした。平戸ではよく知られたお菓子です。でも心の中でこう思ったんです。「これは、食っちゃいけない。」どうしてだと思いますか?

中田神父は意地悪な人間なので、答えを言わずに説教の本題に入ろうと思います。イエスはこう仰いました。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(14・4)けれどもトマスは理解していません。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(14・5)

トマスが福音書で登場する場面が三つあって、そのうちの一つがここですが、トマスはどんくさいですね。三回とも、格好悪い役回りで登場します。トマスの霊名をいただいている中田神父は、一回くらいは格好いい場面で登場していたらとどんなに思ったことでしょう。

イエスはこのどんくさいトマスも含めて、どのようにして弟子たちが「父に至る道」を知ることができるかを教えてくださいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(14・6)イエスを通ることで、弟子たちは「父に至る道」を知ることになります。これから、弟子たちは皆、イエスが通られた道を通って、御父に至るのです。

イエスが通られた道。それは易しい道ばかりではありません。「イエスがガリラヤ中をめぐって宣教された」それを同じように見倣うだけなら、そう難しくはないでしょう。しかしイエス様は血の汗を流すほど悩み苦しまれたのです。むち打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架にかけられ、槍で貫かれたのです。ありとあらゆる苦しみを通られたのです。

弟子たちも、この道を通らなければなりません。イエス様ですら、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26・39)と願った道ですが、それでも通らなければ御父に至ることは叶わないのです。

そしてこの、イエスが通られた「父に至る道」は、十二人だけに要求していることなのでしょうか?いいえ、違います。洗礼を受けてキリスト者になったすべての人にイエスは同じことを求めるのです。「あなたも、わたしを通らなければなりませんよ」今もイエスはそう言っておられるのです。

「こんな道は通れない。」誰にとってもそのような体験はあるでしょう。恥をかかされるようなことや、自分を捨てなければとても引き受けられないようなことを、あるとき強いられるかも知れません。しかし、キリスト者であればどんな人も、それぞれ置かれた場所で、イエスが通られた道を通らなければならないのです。同じ道を通らなければ、私たちは御父のもとにたどり着けないのです。

教区評議会を終えて、中田神父は三日間実家の鯛ノ浦に帰りました。茨城に住んでいる妹と、私の甥っ子になる妹の子が、里帰りしていました。甥っ子は小学六年生ですが洗礼を受けていません。カトリックのことを全く知りません。ですから私を呼ぶときに、「おー、こうじ神父。ひさしぶり」と呼びます。カトリックの中で育っている中田神父は「何を!」と思いますが、カトリックの中で育っていなければ、「こうじ神父。今度また会おうね」と言われてもしかたがありません。

そこで私は、木曜日と金曜日、甥っ子を朝5時半に起こして、ミサに連れて行きました。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(14・9)これを体験させるためです。「こうじ神父」に過ぎない私を通して、何か聖なるもの、見えない何かに中田神父がお仕えしていることを感じさせるためです。いつか甥っ子も、「おーい神父」から「神父さん」と呼んでくれる日を、もっと言えば洗礼を受けて「神父様」と呼ぶ日を、ひたすら願い続けています。

冗談と思われるかも知れませんが、今週の説教をこう結びましょう。「主任神父様、なぜ『平戸こいしや』を食べてはいけないのか、わたしたちには分かりません。どうして、その理由を知ることができるでしょうか。」

中田神父は言った。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも私を理解できない。」これから数年間、中田神父の言葉と行いを通ってください。そうして初めて、私が皆さんをどんな方法で御父のもとに連れて行こうとしているのかが分かると思います。

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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日(ヨハネ14:15-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼実家に連休で帰った。助任たちには留守をお願いした。妹とその子(甥っ子)が同じタイミングで帰省していた。今年はずっと雨。ちょっと不運だった。それでも一年で大きく成長した甥っ子を見ることができたのは良かった。
▼少し気持ちを緩めるために来たが、帰省している間にも福江教会で葬儀が入り、また、福江に戻ってみると教区司祭が命の危険にある状態という連絡が入った。本当にゆっくりするのはこの赴任地では難しいのかも知れない。

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今週の1枚
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第843回目。上五島で目に留まった。採取してよく食べた。ふるさとの味。

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† 神に感謝 †
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