こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第33主日(マルコ13:24-32)人の子が戸口に近づいています

2006-11-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/11/19(No.267)
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年間第33主日
(マルコ13:24-32)
人の子が戸口に近づいています
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説教に入る前に、一つお知らせをしておきたいと思います。説教と信仰宣言、共同祈願を終えてから進んでいく「感謝の祭儀」の中で聖体拝領が行われますが、今日聖体拝領をなさった方は、「おや、今日のは違うぞ」と思うことでしょう。じつは、今日の祭儀に使用しているパンは、10月に東京の研修会に出かけた折に東京の信徒の方のつてで送ってもらったものです。

色も、感触も、全く違うと思いますが、ご聖体に変わるもとのパンも、提供してくださっている修道会によってこんなに違うものなんだなぁというのが実感できると思います。ただし、今日使用したパンはそれほど数がないので、もしチャンスがあるとすれば今週と来週の二回だけだろうと思います。今回このような機会を提供してくださった信徒の方との出会いに感謝したいと思います。

ここのところ、だいぶ寒くなってきました。季節は冬に向かっております。再来週には、教会の典礼暦も「待降節」、つまり教会のカレンダーとしては年が改まるわけです。そこで、キリストと共に歩んできた今年一年を振り返りながら、今日の福音を味わっていくことにいたしましょう。

本日の朗読箇所の最初と最後に、「その日、その時」ということについて語られています。ここで言う「その日、その時」とは、「世の終わり」とか、「キリストの再臨」と言ったことを考えるとよいと思いますが、それがいつになるのかは、だれにも分からない、とイエスは言います。ただ分からないという事実を伝えているのではなく、ここでは「分からないのだから、いつ来てもいいように準備をしなさい」と呼びかけていると考えるべきです。

「いちじくの木のたとえ」が、だれにも分からない「その日、その時」と向き合う心構えを教えてくれます。「いちじくの木から教えを学びなさい」。いちじくにとって「夏がやってくる」ということは、収穫の時を迎えたということのようです。私たちの身近な場所に生えている果物に例えると、夏みかんを思い浮かべたらよいかも知れません。夏みかんの木にとって、夏がやってきたということは、つまりミカンが採れるということであり、収穫に備えなさいという促しにもつながっていきます。

イエスもまた、パレスチナ地方で身近に見られる植物を引き合いに出して、「その日、その時」は、何か他人事のような縁遠い話ではなくて、確実に時を刻みながら、すべての人に起こるということを教えようとしています。具体的には、いちじくにとって夏が収穫の時であるように、「その日、その時」は私たちにとっての収穫の時であり、実っているはずのものを集める時なのです。

さてここで教会の暦との兼ね合いが出てくるのですが、教会は暦の終わり頃になると、毎年このような「終末」にかかわる箇所を朗読します。「人の子が戸口に近づいている」(13・29)この場面を思い浮かべて、私はこの世の終わりに再びやってくるイエスに、報告すべき収穫が準備できているだろうか、考える必要があります。

はたしてこの一年間で、私の中にどんな収穫があったのだろうか、改めて考えてみてはいかがでしょうか。結果だけがすべてではないとしても、何か、神様にご報告できる一つ二つのことが思い浮かぶでしょうか。

考えるヒントを、一つ示しておきたいと思います。今月は死者の月でもあります。平戸の上神崎教会の葬儀ミサに参加して説教した時のことです。私たちは神に命を含めすべてを与えていただいたのだから、お返ししなければならないということから話を始めました。私たちの中には社会に大きな貢献をした人もいるかも知れない、あるいは社会的に名前を残したり何かを残した人もいるかも知れない。仮にそれらを神に向かって「これがわたしの人生で積み上げたものです。お受け取り下さい」と言ったとして、神はどう答えるだろうかと問いかけました。

私は神の立場をこのように考えます。人間が何かを積み上げて、それを神にお返ししますと言っても、神は「それらはわたしがチャンスを与えて、わたしの祝福のおかげで積み上げたものではないか。それらはすべてわたしが与えたものなのに、与え主に返して何になるのか」そう答えるのではないかと思います。

つまり、神はどれほどこの世で積み上げた結果や努力を報告しても、神が与えた者を神に戻すだけでは喜ぶべきものがないと思うのです。ただ一つ、神にお返しできるもの、神が受け取って喜んでくれるものがあるとすれば、それは私たちが神を全身全霊をあげて愛したということ、神を固く信じてきましたという信仰ではないだろうかと話しました。

「世の終わり」はいつ来るか分からないとしても、私の人生が終わればこの世がどれだけ続いてもある意味で「世の終わり」は来ているわけです。「その日、その時」に、私は何かしらこの世のものを神に報告するのではなくて、私たちの神に対する愛を、神への固い信仰を、お返しすべき唯一のものとして準備しておくべきではないでしょうか。

信仰も、目に見えないとは言っても形の中に見て取ることはできます。こうして共にミサに参加している。これは神を確かに信じている証しになります。今日さまざまな事情で教会に来ることができない人でも、日曜日を神のために使う工夫はいくらでもできます。教会に行くことができない人でも、今週一週間を神に感謝し、新しい一週間の恵みを願うことはどの場所にいてもできます。そうして日曜日を心に留めて祈る人は、見える形で神への信仰を表しているのです。

来週の日曜日、教会の暦では最後の日曜日に当たっていて、「王であるキリスト」をお祝いします。これから残る二週間、「その日、その時」をいつかは迎える、そんな思いで、歩んできた道をゆっくり思い返しましょう。お返しすべきものが何もないと感じる人でも、神への信頼はお返しできるはずです。ミサを通して、家庭での祈りを通して、隣人への愛を通して神への信仰をいくらかでもお返しできたことに感謝し、二週間後、また新たな待降節を迎えることができるよう、ミサの中で祈ってまいりましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼長崎で開催されていた「さるく博覧会」も終了した。どの程度の盛り上がりだったか、評価は専門家に任せるとして、この博覧会のタイアップイベント「長崎市民セミナリオ」について少し話しておきたい。
▼あまり聞き慣れない言葉だと思うが、「セミナリオ」というのは「神学校」を意味する言葉で、もとをたどると「苗床」という言葉から来ている。学問や教養を身につけさせる「まなびや」のことだが、「長崎の宗教と文化」についてのセミナーが開かれた。
▼月に1度のペースでキリスト教、仏教、神道それぞれの代表者が国宝の大浦天主堂を舞台に、長崎における宗教と文化に及ぼした影響を発表し合った。参加者は延べで3000人ほどだったと聞いているが、異なった宗教指導者が国宝の大浦天主堂に集い、それぞれの宗教がもたらしたものを率直に語り合う場を持ったというのは、過去に例がない。
▼ここですべてを語れないが、長崎に根付いた宗教がどのように影響し合い、どのような時代を歩んだのか、たくさんの収穫を得たすばらしい企画だったと思う。最後にこの企画にたずさわった人で懇親会を開き、招待していただいた。講演をした先生方に声をかけていただき、感激して帰ってきた。

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こうじ神父絵手紙
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第52回目。これ、皆さん完成できますか?ちなみに私は3分で完成できます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(ヨハネ18:33b-37)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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