こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第28主日(マルコ10:17-30)「何かを捨てること」と「何もかも捨てること」

2021-10-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/10/10(No.1143)
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年間第28主日(マルコ10:17-30)
「何かを捨てること」と「何もかも捨てること」
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今週年間の第28主日の中で、「何かを捨てること」と、「何もかも捨てること」この二つを考えるきっかけにしたいと思います。福音朗読を集中して聞いておられた方は、ペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(10・28)と言い出した場面を思い出したでしょう。ペトロは「何かを捨てた」のではなく、「何もかも捨てた」という自覚がありました。

テレビの解説者やコメンテーターを見ていると、「元」何々、という肩書きの人が出演していたりします。元プロ野球選手とか、元国会議員とか、そういう人たちです。彼らは何らかの理由で「元の仕事」を離れています。野球選手であれば引退した人だったり、国会議員であれば任期満了、それから転身した人だったりします。

この前民放のニュース番組で顔ぶれが一新しているなぁと思って顔を見てビックリです。メインキャスターは元NHKのアナウンサーではありませんか。時間帯は違うけれども、ライバル局で堂々と働くのだなぁと思ったのです。

こうした方々はきっと「何かを捨てて」現在に至っているのでしょう。才能に溢れているので、何かを捨てても何かが残るのでしょう。公共放送から民放に迎え入れられて、もしも用意された仕事が終わったとしても、何か仕事を見つけるか、新しい身分で迎えてもらえるのでしょう。

ところで、ペトロがイエス様に念押しするかのように言い出したのは、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」ということでした。何もかも捨てたのですから、もしもイエスに従ったという選択が失敗だった場合、何も残らないのです。何かの約束が欲しかった、ということかも知れません。

「何かを捨てる」という選択と、「何もかも捨てる」という選択肢とでは、「何もかも捨てる」ほうがより厳しい選択だと言えます。福音朗読に戻って、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(10・17)とひざまずいて尋ねた人は、イエスから「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(10・21)と言われます。彼はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ったとあります(10・22参照)。「何かを捨てること」には同意できても、「何もかも捨てること」には同意できなかったのでしょう。

「たくさんの財産を持っていた」とされる男は、きっと「何かを捨てなさい」と言われても応じる覚悟があったのだと思います。そうでなければ、どうしてイエスの足もとにひざまずいたりできるでしょうか。相当厳しい命令を突きつけられても、やり遂げる自信があったはずです。それは「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(10・20)からもうかがえます。

ひょっとしたら、名の知れた資産家だったかも知れない。そうであれば、大勢の人の前で「それはちょっとできません」とは言えないでしょう。人々から「さすが」と言われたい気持ちも少なからずあったはずです。イエスはそんな金持ちの心に一石を投じるのです。

「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」(10・21)

「何かを捨てる」というのは、まだ自分のうちに何かを残しています。「これだけは捨てられない」というものを持っています。目に見えるものばかりではなく、目に見えないもの、「評判」とか「プライド」とか、そういうものも含めて、捨てられないものを抱えているわけです。

イエスは一石を投じます。「火」を投じたと言うべきかも知れません。永遠の命を受け継ぐため、イエスに従うためには、「何かを捨てる」生き方ではなく、「何もかも捨てる」生き方が必要なのです。

年間第26主日の福音朗読を思い起こしましょう。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」(マルコ9・43)ここでも、違う生き方をしなければ、命にあずかれないと説いているのです。

「何もかも捨てること」にあまり縛られる必要はありません。「何かは捨てるが、これは捨てられない」この生き方を捨てることがむしろ必要です。「評判」「プライド」これらは捨てられないという考えをこそ捨てた時、私たちは永遠の命を受け継ぎ、イエスに従う人生を送ることができるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日(マルコ10:35-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年は南の海水温が例年になく高い。平均水温よりも1度か、それ以上高い。そうなると台風が発生すると勢力が増し、上陸すると甚大な影響を及ぼす危険がある。
▼「水温が1度上がったくらいで」と思うかも知れないが、私が見たニュースでは0.1度単位で上昇温度を調査していた。それはつまり、0.1度違うだけでも影響があるということだろう。
▼司祭館はいくつかのガラスに養生テープを貼っている。台風14号の前に貼ったものだ。心の中では「台風来てない時はテープが気になるなぁ」と思っているが、もう一度、あるいは二度、台風が来ないとも限らない。

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今週の1枚
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第750回目。養生テープで今年の台風からの被害をブロック。

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