こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第13主日(マタイ10:37-42)その順番を、一つ下げることができますか

2020-06-27 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200628.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/6/28(No.1069)
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年間第13主日(マタイ10:37-42)
その順番を、一つ下げることができますか
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(ミサ再開のため、現在は古いもののみ視聴可)
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「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(10・42)宣教に放り出されたかも知れない弟子が不安に思っているところに、「冷たい水の一杯」はどれだけありがたい差し入れだったでしょう。私たちが差し出す温かい手を、神は必ず報いてくださいます。

これから、私の中学生の時の体験を紹介したいと思います。今から四十年も前の話です。すでに話を聞いたことがある人も、どうかもう一度耳を傾けてください。

当時私はすでに神学生した。夏休みの終わり、8月31日、五島から神学校に帰る日のことです。前の日に私は荷物を準備し、明日いつものように神学校に帰る予定でした。ところが前の晩、8月30日の夜中に、弟がひどい熱を出して、病院に運ばれていきました。

母もいっしょに病院に行きました。その時母は、「自分で何とか帰りなさい」と言って病院に行ったのです。けれども困ったことになりました。私は母親からお金を1円も預かっていなかったのです。バス代も、船賃もありませんでした。

悪いことは続きます。バス停に行ってみると、もうバスは出発していました。当時、フェリー港に着くためには、バスに2時間以上乗らなければなりませんでした。お金は持っていないので、もうほかに港に行く方法はありませんでした。

悲しくなって、バス停に立ち尽くしていると、知らないおじさんが声をかけてきました。「あんた、輝明さん家の神学生やろ」「はい」「神学校に今日帰っとね?」「はい、けれども、行けなくなりました。」私は前の日からのことを話して、もうバスもいないし、帰ることが出来なくなったと話しました。泣きたい気持ちでした。

すると、そのおじさんはポケットからお金を出して、私に握らせてくれました。見ると一万円でした。四十年前の一万円です。おじさんは私に、「タクシーばつかまえてすぐ港に行かんね」と言ってくれました。

私はお礼を言わなければいけないので、「おじさん、名前を教えてください」と言いました。するとそのおじさんは、「おじさんはおじさんたい。子どもは心配せんでよか。はよう行け」と言って、いなくなってしまったのです。

今でも、そのおじさんの名前は分かりません。元気なのかどうかも分かりません。けれども、そのおじさんは神学生になったばかりの私、海の物とも山の物とも知れぬ私に大金をくださったのです。四十年前の一万円を、あたかもコップ一杯の水であるかのように、惜しげも無く、「イエスの弟子だ」という理由で差し出してくれたのです。

そのおじさんは、信仰のことをとやかく言いませんでした。けれどもおじさんは、イエスの教えを完全に実行したと思っています。イエスが打ちひしがれている弟子に声をかけて、生きた水を与えるように、あのおじさんは私を見つけて、「わたしの弟子だという理由で」手を差し伸べてくれたのです。

そのおじさんのことを、私は決して忘れません。おじさんは、本当に私がイエスの弟子になって、イエスに固く結ばれる手伝いをしてくれたのです。あのおじさんは、わたしの心の中に、説教の冒頭に触れたイエスの声を届けてくれたのです。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

大金を持たせてくれたおじさんに、私は返すものが何もありませんでした。一万円よりも尊いものを、私は持っていなかったのです。けれども、私が司祭を目指している、イエスのために長崎で勉強している、それだけで、大金を冷たい水の一杯として与えてくれたのです。

イエスは今でも、私たちに声をかけて、「わたしについて来なさい」と言っていると思います。父や母を愛することは当然のことです。親が、息子や娘を愛することも当然のことです。それでも、神のことを優先する人がいます。神の招きが何よりも大切だと感じた人は、今までいちばん大事だと思っていたものでも、順番を一つ下げることができるのです。そしてそれはイエスの時代だけでなくて、今でも続いているのです。

最近司祭になられた青田神父様、また現在三ツ山教会におられる山田良明神父様、いずれも社会人として立ち位置があった人でした。能力もあり、社会で成功できる人でした。それを、神のために順番を一つ下げて、神の招きを最優先にして司祭となられたのです。

私たちも何かを見倣うことができると思います。イエスが期待しておられることに照らして、自分の生活の優先順位を変えること。いざとなったら、目の前の今まで最重要だったものの順番を一つ下げる。それは痛みを伴うかも知れませんが、私たちが信仰の証をするとき、圧倒的な証になると思います。

この世のものの価値を、永遠のものの価値と置き換えることはできない。この一言だけ、イエスに返事をして今週は生活に戻っていきましょう。その答えがあれば、生活すべてに、神の心にかなう順番を付けることができるようになるはずです。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日(マタイ11:25-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼週末、九州北部に猛烈な雨が降った。田平教会聖堂でも雨漏りが散見され、初めてだそうだが「砂」の堆積も見られた。天気図や気象予報士の解説を見ながら、心は新上五島町の実家に向かっていた。新上五島町の実家には十分高齢と言える母親と、次男が住んでいる。
▼母の日になにがしかの物を送っていたが音沙汰なし。あまり世間の流行に関心が無いようだが、いちおう念押しのために電話をかけてみた。何のことはない。届いていたのを忘れていたそうだ。何かあっているのではなかろうかと、いちおう気にしたのに。
▼大雨の後、天気が回復する。災害が発生していなければ、大雨で山の恵みは川に流れ、海に下る。そうして自然は豊かになっていく。大自然の営みは、いつも神の深い配慮を思い出させ、尊敬の念が湧いてくる。人間ができるのは神の偉大な計らいをたたえることだけだ。
▼だが人間の知恵は、利害を伴ってしばしば自然の偉大さに逆らっている。物理学の成果を戦争に持ち込み、原子爆弾を作り、相手をねじ伏せる。誰が誰を押さえつけたか、歴史をとやかく言うつもりはないが、人間は人間を押さえつけるためにときに神の知恵を乱用するのである。
▼今年、被爆75周年。黙想会では小学生中学生と、戦争がもたらすもの、戦争してはいけない理由、いろいろ考える。紙芝居が長崎大司教から送られてきたのでそれを使う。登場する主人公には浦上教会助任時代に高校生がたいへんお世話になった。私も、当時の高校生も、決してその人のことを忘れない。

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今週の1枚
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第676回目。最近買った替えのパジャマ。これを着て二日目でうなされた(T_T)

ホームページもご覧ください。
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今週の「笑える」
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「この人病気が『じゅうあつ』なんだね」「重たそうだけど、『じゅうとく』」
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† 神に感謝 †
コメント
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