こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

【特別講話】「ひとりひとりが(各事業所を)築く人」~語り合い分かち合おう~

2014-06-30 | Weblog
「ひとりひとりが(各事業所を)築く人」~語り合い分かち合おう~

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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/kowa20140629.mp3
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(1)ひとりひとりが貴重な体験を持っている。分かち合おう(1887文字)

●こんにちは。中田輝次神父です。今回の講師の依頼を受けてから、時間はあまりありませんでした。わたしが講師選びをするなら半年前から依頼をします。ただ、電話で依頼してきた方が同じ故郷「鯛ノ浦」の出身でして、「断りきれないよねぇ」と思いながら電話に耳を傾けていました。
●本来わたしたちは、ひとりひとり貴重な体験を持っているのだと思います。ところが、その貴重な体験に気付いていなかったり、貴重な体験だと思っていなかったり、貴重な体験なのにだれにも分かち合わなかったりして、埋もれているのではないでしょうか。わたしも、忘れられない体験をいくつかしていますが、メモを取らなかったことで失ってしまっているものがいくつもあると思っています。
●かつてわたしは、体験の分かち合いを軽んじていました。他人に対して、あまり興味がなかったのかもしれません。そのため、もっと豊かになれたはずなのに、小さくまとまってしまったかも知れないなぁと後悔しています。今わたしは48歳ですが、もっと他人に興味を持ち、周りの人の体験に耳を傾けていたら、自分の中にもっとたくさんの引き出しを備えることができただろうにと思うのです。
●わたしが、いかに他人に興味を持っていなかったかという苦い体験からまず入りたいと思います。保育園での出来事です。5月だったと思います。5月はカトリック教会では「聖母月」と言って、聖母マリアに特に捧げられた月という理解があります。そのため、ロザリオの祈りに代表される「聖母マリアに対する信心」が勧められています。ロザリオの信心は、「アヴェ・マリアの祈り」を50回唱えながら聖母マリアの生涯、イエス・キリストの神秘について黙想する祈りです。
●さてこの「アヴェ・マリアの祈り」を園児たちが積極的に唱えてくれるよい方法はないものかと考えて、園児たちに次の話をしました。「みなさんは、くしゃみをしたことがありますか?くしゃみって、どんなときにしますか?」太陽を見たときとか、コショウが鼻を刺激したときとか、当然予想されるような答えのほかに、もう1つ答えを期待しました。ただその答えは、わたしが解き明かすまで園児たちからは出てきませんでした。
●「もう1つ、くしゃみをする時があると思いますよ。それはね、だれかが自分のことを噂している時です。太陽も見てないし、コショウも近くにない。それなのにくしゃみをした。その時『あれ、だれかがわたしの噂をしたかな』と思いませんか?わたしは、そんなときが時々あります。いったいだれが、噂しているのかな。いろいろ考えます。」
●「マリア様は、くしゃみをすることがあるのでしょうか。太陽を見たときするのかな?コショウが近くにあってくしゃみするのかな?わたしは、皆さんがたくさん『アヴェ・マリアの祈り』を唱えたら、マリア様はきっとくしゃみをするに違いないと思いますよ。本当にくしゃみするかなぁ?と思う人は、ぜひ『アヴェ・マリアの祈り』をたくさん唱えてくださいね。」
●さて月日は流れ、1年後の同じ5月、わたしは同じ保育園に呼ばれて園児たちにお話しをしました。話の初めに、何気なくこんなことを問いかけたのです。「去年もお話をしに来ました。去年の話を覚えている人?」去年の話です。覚えている人などいるはずがない、とわたしは思っていました。
●ところが、1人手を挙げた園児がいたのです。年長組の男の子でした。去年は年中さんだったのでしょうか。手を挙げているのですから、答えを聞かないわけにはいきません。しかしこの場面で、わたしは去年どんな話をしたのか思い出せずにいたのです。園児が何かを言った場合、それが正解かどうかも分からない状態で、その子に「どんな話でしたか」と恐る恐る尋ねたのでした。
●幸いに、その子は「くしゃみの話をしました」と答えてくれました。よくぞ、わたしが思い出せるような適切な答えを言ってくれたと感謝しました。これが、「マリア様の話をしました」といったあいまいな答えだったら、わたしはその答えが正解だったのかどうかも分からなかったことでしょう。
●この時から、どんな小さな子供でも、興味を持って接してあげようと心に誓ったのです。この子はわたしに、どんな出会いであっても、出会った人に深く興味を持てば、その出会いは人生を豊かにすることを教えてくれたのです。そして今、わたしが皆さんに何の変哲もない体験を分かち合うことで、わたしだけの体験から、皆さんとの共通の情報に変わったのです。どんな小さなことでも、どんな小さな人々とも、人は体験を分かち合うことで豊かになれます。

(2)貴重な体験はしばしば向こうからやってくる。探しに行かない(1989文字)

●次に、貴重な体験はどこにあるのでしょうか。もし、貴重な体験が「ここにある」「あそこにある」というものでしたら、わたしたちはそれを探し求めなければなりません。わたしの経験上、貴重な体験は「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、(神の国は)あなたがたの間にあるのだ」(ルカ17;21参照)と言いたいと思います。
●わたしが赴任している浜串小教区には、浜串教会・福見教会・高井旅教会の3つの教会があって、福見教会のすぐそばには「福見の園」という特別養護老人ホームがあります。老人ホームの詳しい区別は知りませんが、ここに入所している人からは、いろいろ学ぶことがあります。月に2回訪問するだけのわたしが学ぶことがあると言っているわけですから、毎日入所者と接している職員の皆さんはもっと感じていることでしょう。
●福見の園を、ショートステイで利用しているおじいちゃんがいます。太郎さんと、仮に呼ぶことにします。この太郎さんは、ふだんは自宅でおばあちゃんと夫婦2人暮らしで、自宅にいるときは月に2回太郎さんをお見舞いしています。お見舞いして何をするかと言いますと、短いお祈りをして、カトリック信者がミサのときにいただく聖体を拝領させています。
●自宅にいるときは短い祈りと聖体拝領なのですが、太郎さんがショートステイで福見の園に入ると、福見の園はカトリック信者を2回お見舞するうち1回目はチャペルでミサをささげています。どうやら奥さんがこのミサに合わせてショートステイをお願いしているようで、福見の園を利用することで、太郎さんはミサにあずかることができています。
●どうして自宅にいるときに、教会のミサに行かないのか不思議に思う人もいるでしょう。太郎さんは脳梗塞を何度か発症して、体が不自由です。さらに奥さんも体が弱っています。教会まで連れて行ってくれる人がいないのです。自宅でミサというのも難しいです。すると、福見の園チャペルでのミサが、太郎さんにとってイエス・キリストに最も深くつながる最後のよりどころになっているわけです。
●わたしは太郎さんが何回か福見の園チャペルのミサにあずかるようになってからふと考えるようになったのです。福見の園に常に入所している人は、毎月1回チャペルでのミサに参加しています。けれども太郎さんは、ショートステイなので、ミサのタイミングで福見の園を利用していなければ、教会のミサに行くこともできないし、もちろん自宅でミサにあずかることもできません。ましてや病状が悪化し、入院でもするようになると、もはやミサにあずかることは不可能になってしまいます。
●すると、もしかしてだけど、もしかしてだけど、今回のこの日のミサが最後になるかもしれません。最後のミサに太郎さんが参加しているかもしれない。そう思う時に、わたしの心構えも少し変るのだと思います。わたしは、太郎さんにとっての人生で最後のミサをささげていることになるからです。
●司祭がミサをささげている時、すべての場面、すべての瞬間全力が注がれているかと問われると、残念ながらそうでもないと言わざるを得ません。人間ですから、疲れていてミサをささげている時もあるし、ミサが終わってからのことを少し考えながらミサをしていることだってあります。
●けれども、太郎さんが福見の園チャペルでのミサに参加するようになってから、ミサのささげる心構えをもう一度考えることができました。この貴重な学びの場は、わたしが探しに行って見つけたものではありません。わたしがふだん生活している中で、わたしの日常の業務の中で、この貴重な学びを得たのです。
●わたしはこう考えます。貴重な学びは、探しに行って見つけることもできるでしょう。そのような学びは確かにあると思います。ただ、探しに行って見つけた学びは、探しに行った場所にはあっても、日常の業務の中には見つからない学びなのではないでしょうか。もし、日常の業務の中に学びを見つけることができれば、その人はわざわざ探しに行かなくても、日々その貴重な学びを得ることができるのではないでしょうか。
●わたしは、「貴重な体験はしばしば向こうからやってくる」と思っています。向こうからやってくるので、わたしから探しに行く必要はありません。必要がないと言うよりも、探しに行かないほうが、日常の業務の中で得られる貴重な体験に出会う確率が高くなると思っています。
●太郎さんの件では、奥さんの配慮に何より敬服いたしました。ご主人がミサに参加する場所は、もはや福見の園のチャペルしか考えられないわけです。その、月に1回だけの貴重な日のために、できる最大限のことをしてくださったのは奥さんです。わたしが太郎さんを通じて貴重な学びを得たのも、もとはと言えば奥さんの配慮からです。本当に、立派な奥さんだと思いました。

(3)あなたの苦労が、最高のぶどう酒に変わると信じてほしい(4179文字)

●これからしばらく、新約聖書のヨハネ福音書第2章に取り上げられている「カナでの婚礼」という物語を題材に話したいと思います。「カナでの婚礼」という物語のタイトルを紹介しただけで、「あ、イエスが水をぶどう酒に変える奇跡を取り扱った物語だな」と察しが付く方は、相当に聖書をお読みになっている方だと思います。
●実際、キリスト者の方々でも、「カナでの婚礼」の場面が「イエスが水をぶどう酒に変える奇跡の物語だ」とすぐに関連付けることができる人はそうそういないと思います。ふだんから聖書に親しんでいれば難しいことではないのですが、キリスト者だから聖書を生活の中で読み続ける、その実践までたどり着いていない人が多いのだと思います。
●さて、場面を少し思い描くために、該当する箇所を朗読したいと思います。ヨハネ福音書第2章1節から11節です。どなたかにお願いしてあると思いますので、依頼されている方はどうぞ朗読をお願いします。

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

●いくつか、出来事に親しみを持つために説明を加えたいと思います。婚礼の場面ですから、喜びを分かち合うためにぶどう酒は欠かせないものでした。また、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあり、いずれも二ないし三メトレテス入りのものであるとあります。これは、ユダヤ人が日常生活で清めに関して大変神経質であったことを伺わせます。
●ユダヤ人は、自分たちの宗教上の清さを何よりも大切にしていていました。たとえば市場に買い物に行くと、違う宗教を信じるユダヤ人以外の人も商売をしに来ていたりします。その人たちと交わることでも、宗教上汚れると考えていたのです。それで、市場から帰ると、彼らは全身を水で洗い、宗教上の汚れを取り除こうとしたのです。そのため、大きな水がめが必要になったのでした。
●水がめの単位についても説明を加えておきましょう。メトレテスという単位は、大きな単位で、39リットルに当たるとされています。すると、それぞれの水がめは、約80リットルから120リットルの水が入るかめであったことになります。参考として、半身浴をするためにお風呂にお湯をためる、そういう量を考えるとよいと思います。
●この奇跡物語はいろんな取り上げる場所があるわけですが、今回召し使いの人たちに注目してみたいと思います。彼らは前もってイエスの母マリアに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」とお願いされていました。婚礼の客の依頼です。「快く引き受けます」と返事をしたことでしょう。
●ところが、イエスが実際に召し使いに頼んだことは、召し使いの想像をはるかに超える悩ましい依頼でした。イエスは、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と命じたのです。ぶどう酒がなくなり、場合によってはぶどう酒を買い求めに行かなければならない場面、よりによってこの緊急事態にまったく関係ないと思われる指示を受けたのです。宴会のお酒がないのに、どうして水が必要なのでしょうか。
●イエスの命令を、召し使いたちはしぶしぶ引き受けています。決して喜んで水がめに水を満たしたのではないことが、福音記者のちょっとした表現に暗示されています。「召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした」という表現です。これは、一生懸命指示に答えたという意味ではなく、当てつけ、嫌がらせのためにかめの縁まで水を満たしたのです。講師のためにコップに入れた水がここに用意されていますが、水をコップの縁まで満たすと、かえって水を飲むのが難しくなると思います。それと同じように、かめの縁まで水を満たすと、水をくむのが難しくなってしまうのです。
●イエスは召し使いたちの小さな反抗を感じ取っていたはずです。それでも構わず、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われました。自分たちの仕返しとしてかめの縁まで水を満たしたのに、今度はまたその水をくみ出して、宴会の世話役のところに持って行く羽目になりました。結果的に水は最上のぶどう酒に変わっていて、この窮地をイエスが救ったのはご承知の通りです。
●物語に登場する召し使いを通してわたしが言いたいのは、次のことです。イエスは、水をぶどう酒に変える奇跡を行いました。味も何もない、喜びも感じられないものを、喜びを分け合うすばらしい材料に変えたのです。別の言い方もできます。イエスは、しぶしぶ協力した召し使いの働きを、皆が喜ぶ結果に変えたのです。働きに価値を見いだせず、命令だから仕方なく行った。そうした働きを、すばらしい結果に変えたのです。
●わたしはここに、水がぶどう酒に変わる奇跡のおもしろさがあると思うのです。召し使いたちは、全くの徒労になるに違いないと思った作業をイエスに命じられていました。「ぶどう酒がなくなって慌てている時に、水をくんで来いと言うか。冗談じゃない。」そう思っていたことでしょう。
●パレスチナ地方ではしばしば水の出る井戸は遠いところにあり、水くみは重労働ですから、腹いせにかめの縁まで水を満たしたのでした。さらにその水をくんで、宴会の世話役のところに持って行きます。「もうどうなっても知らないぞ」と、最悪の事態さえ想像していたことでしょう。
●悪意さえ感じられる召し使いの仕返しが、イエスによって婚礼の客を喜ばせる最上の働きに変わりました。イエスは、ただ単に物理的に水をぶどう酒に変えるだけでなく、強いられて、嫌々ながらした働きでも、人々に喜びをもたらすわざに変化させることができるのです。
●水がぶどう酒に変わるだけでしたら、イエスが魔術師と勘違いされることも起こりえます。ところが「カナでの婚礼」の奇跡の中心にあるのは、不本意ながら行った人の働きを、多くの人に喜びをもたらす結果に変えることでした。ここに、イエスの奇跡の最大のポイントがあるのではないでしょうか。
●わたしたちの日常にも、似たようなことが起こっていないでしょうか。面白くないことを頼まれた。本心では、したくない作業だけれども命令だから仕方なく行った。あるいは個人的な感情をぶつけるために、仕返しのつもりで行った。そうしたわざが思いがけず人を喜ばせ、窮地を救い、感謝されたことはないでしょうか。
●そのような偶然とも言える出来事は、少なくともわたしの思いとは違っています。わたしがしたことは、望まないことをさせた人に迷惑が掛かればよいのにと、そこまで思っていたことでした。そこから良い結果が生まれた。それはもう、わたしのおかげではあり得ません。もしこうした体験を一度でも持っているなら、あなたはすでに、聖書の奇跡物語、「カナでの婚礼」を体験していると思うのです。
●イエスの奇跡は、遠い二千年前の出来事に閉じ込めておくべきものではありません。わたしは今でも、イエスが働いてくだされば奇跡は起こると思うのです。水がぶどう酒に変わる物理的な奇跡ではなく(それを否定するわけではありませんが)、わたしがだれかに対して仕返しのつもりで行ったことが人を喜ばせたとか、悪意をもって行ったことがピンチを救ったとか、そうした場面にはイエスの奇跡が起こっているのではないでしょうか。少なくともその場面で、悪を善に変えることのできるのは人間を超えている方の働きのはずです。
●参考までに、聖書のことでお話ししたいことがあります。わたしは、聖書を読むたびにさまざまな問題の答えを見つけます。なぜわたしだけが苦しまなければならないのか。なぜわたしの仕事は評価されず、努力していないと思えるあの人の働きが評価されるのか。なぜわたしの意見は聞き入れられず、うまく立ち回る人の意見が取り上げられるのか。ゆるしがたいことを、どのように受け止めればよいのか。答えの見えない問題はさまざまあるでしょう。
●わたしはこう言いたいのです。今目の前で展開している不思議な出来事、悩ましい出来事は、聖書に目をやると答えが見つかるということです。聖書はおよそ2000年前に書かれた書物でありながら、現在まで当時のまま、忠実に受け継がれてきています。
●世界中の言葉に翻訳されていますが、どの翻訳も原文にできるだけ忠実に翻訳しています。新しい読み方で、新しい翻訳を出せば、評判は良くなるかもしれません。ところがそんな小細工は一切行わず、今に語り継がれているのです。
●なぜ聖書は原文のまま、原文に忠実に2000年間受け継がれてきたのでしょうか。それは、2000年前に真理が語られたからです。現代の諸問題をも解き明かす真理が、イエス・キリストによって語られた。だから、そのまま、一字一句曲げることなく語り継がれているのです。
●聖書に真剣に目を注ぎ、耳を傾けるなら、どうしても解決できなかった目の前の不可解な出来事に答えを見つけることができる。わたしは何度もその体験をしてきました。この信じられない出来事を説明できる人は誰だろうか。このゆるし難い出来事をゆるす力をどこに見いだせるだろうか。そう思った時に、聖書を思い出してもらえたり、イエス・キリストを思い出してもらえると嬉しいなと思います。

(4)あなたの奉仕は、だれに向かっていくのでしょうか(2068文字)

●わたしたちの日々の働きは、必ず誰かのために行われているものです。自分のためという場合を除き、必ず誰かのための働きであるはずです。そうであるなら、できる限りその人(子供たちかもしれません)のために時間と労力を使う、そのことに心を砕かないといけないと思うのです。
●ただ、「その人のために」という気持ちではいても、それも限界があるかも知れません。引き受けたけれども、自分の心に余裕がなくなってくると、引き受けたものの、苦痛になるかも知れません。
●どこかで、自分の働きに限界を感じるときには、いったん立ち止まって何かを考えてみる必要があると思います。たとえば、見方を変えて、「その人のために」という目的とは違うことをわたしの目的、心構えにしたらどうでしょうか。
●その人のために、という気持ちでは限界が来るかも知れませんが、その人の向こうにおられる方に(中田神父にとってそれは、目の前の人の向こうにおられるイエス・キリストということになりますが)奉仕するという考えに立つと、限度を乗り越えられるのではないかなと思います。
●ある人のために時間を費やす場合、その人がわたしの働きをちゃんと理解してくれるのか、どれくらい喜んでくれるかも分からないでしょう。たいていの人は働きを評価されないことを嫌いますので、反応が戻ってこない場合などは働きていること自体が耐え難いかも知れません。
●けれども、その人の中にとどまっておられるキリストに自分の働きが届くのだと考えれば、いろんな問題を乗り越えていけるのではないかと、わたし自身は考えています。
●聖書の中でイエスのたとえ話に次のようなものがあります。人々にお世話した人が、実は人々の中におられるキリストにお世話していたのだという内容のものです。マタイによる福音書第25章31節から45節です。今度はわたしが読みたいと思います。

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』」

●今読み上げられた物語で、目の前の人にお世話していたことが、知らず知らずに今目の前にいるその人の中におられる方、この場合はイエス・キリストに、お世話することになったのでした。反対に、お世話を拒んだ人たちというのは、その人たちの中にイエス・キリストがいることを理解しなかったので、知らないうちにイエスへのお世話を拒んだことになっていたというのです。
●もちろん、参加しておられる皆さんとわたしとでは信じているものが違う人もいらっしゃるでしょう。目の前にいるその人の中にとどまっておられる方をどのように理解するかは、おひとりおひとりでうまく当てはめていただけたらと思います。
●職場の中で、自分が向き合っている相手は、目の前のあの人この人から出発しているのだけれども、そこにばかり目が行くと向き合うことにも限度があるかも知れません。そういうときに、その人の中におられる方、その人の向こうにおられる方と向き合っている。そんな気持ちになれたら、行き詰っているときに状況を変えられるのではないでしょうか。そして、「この人のために働いている」という気持ちを、より良い状態に、より純粋に保つことにつながるのではないでしょうか。

(5)これまでの働きが手を離れていく。最後にできることは何でしょうか(3934文字)

●次に、自分がこれまで手掛けていた働きも、いつか自分の手を離れていく日が来ます。その時、ぜひ考えてもらいたい話です。わたしは、二度考えさせられる場面がありました。一つ目は、現在西海市大島町にある太田尾教会から長崎市伊王島町の馬込教会に転勤した直後のことです。
●太田尾教会出身の先輩神父様のお母様が亡くなられて、葬儀のミサにわたしも出席しましょうということで、転勤して離れて間もない教会に参列者の一人として出席したわけです。葬儀ミサはほぼ滞りなく進んでいたのですが、ある場面に差し掛かった時にトラブルが発生しました。
●太田尾教会に新しく赴任した主任神父さまは赴任してまだ間もない後輩司祭です。この場面でだれに指示を出せばピンチを脱することができるか、わたしには名前が思い浮かんでおりました。その名前をつい、口に出してしまったのです。仮に次郎さんということにしましょう。「次郎さん。これこれの道具をどこそこから出して来て。」
●ほどなく、その次郎さんが動いてくれてその場を切り抜けることができました。けれどもわたしは、直後に「しまった」と思ったのです。わたしはもはや、この教会の主任司祭ではありません。たとえだれを動かせばよいのか分かっていたとしても、わたしは現時点での主任司祭にそれを伝えて、わたしから直接人を動かしてはいけなかったのです。後で本当に後悔しました。
●何が足りなかったのでしょうか。配慮が足りなかったのは確かです。けれどもそれだけではないような気がします。わたしが手足を動かして、実際には急場をしのいだのです。けれどもそれは必ずしも良いことではありませんでした。むしろわたしは、あの場面で手を閉じて、目を閉じて、「祈る」必要があったのだと思います。
●どういうことでしょうか。みなさんの考える祈りはどのようなものか分かりませんが、わたしが思い描くのは「手を合わせている」という姿です。基本的に人間は活動するというとき、両手を使い、両手を開いて活動するものです。手がふさがっていては良い働きは何もできないというのが一般的です。
●ただし、一つだけ、手を閉じて、手を合わせた時に適切に行うことのできる活動があります。もうすでに皆さん分かっておられると思いますが、「祈り」だけは、手を閉じて、手を合わせて行う活動です。わたしはあの葬儀ミサでトラブルが発生したとき、どのようにふるまうべきか、手を合わせ、目を閉じて考えるべきだったのです。手を合わせて祈りのうちに考えることで、最善の答えを見つけることができたはずなのです。
●手を合わせて祈る。それは、一つの姿を現します。つまり、自分のためには何もしないで、神様のために活動するというものです。わたしの経験や知恵で答えを見つけ出すのではなく、手を合わせ祈ることによって神に適切な答えを示してもらうこと。手を合わせ、神のためにだけ活動することで、今何をなすべきかという問いに、神様にしか示してもらえない最高の答えを教えてもらうこと。手を合わせ、祈るときに、このような経験をさせてもらうのだと思います。
●確かに、人間の経験や勘はすぐに何をすべきかを教えてくれることがあります。わたしがこの教会での6年の経験をつぎ込めば、すぐに答えは導き出せます。けれども、それはわたしにとって満足できる答えかもしれませんが、必ずしも最善の方法ではないかもしれないのです。今おられる主任司祭に「余計なお世話かもしれないけれど、だれそれがここでは動けるよ」と言ってあげることは、もっと素晴らしい答えだったと思います。
●時に、ある仕事がわたしの手を離れていくことがあります。もしかしたら、「この仕事についてはわたしが誰よりもよく知っているし、だれよりも効率よく動かすことができる」という思いがあるかもしれません。
●それでも、もしその職務とか職場が一旦わたしの手を離れたのであれば、わたしは以前とは違う立場にあることをよくよく自覚すべきです。わたしの手を離れたのであれば、その仕事がこれまで通りにうまく回っていくことを願って、手を合わせ、目を閉じて祈ってみることをお勧めします。すると、「これから職務を引き継ぐこの人に、ぜひあたたかい声をかけてほしい。」たとえばこのような声が、心に響いてくるかも知れません。職務を任されていたこれまでのように手を出し足を出すのではなく、手を合わせ、祈ることで最高の知恵を持っておられる神が、自分がこれからなすべきことを示してくださることでしょう。
●まずは手を合わせてみること。そのことを考えさせられた体験が二度あると言ったので、もう一つの体験もついでに話しておきましょう。太田尾教会から馬込教会に転勤しまして、それから現在の浜串教会に赴任する辞令を頂いた頃の話です。カトリック教会では信徒のために年に一度「黙想会」という修養の期間を設けます。その黙想指導のために、後輩の司祭を招いておりました。黙想会の最終日、この後輩神父さんと共同でミサをささげました。
●2人の司祭で共同でミサをささげる場合、どちらかが祭壇中央に立ち、主司式を務めます。もう一方は主司式司祭の脇に立つことになります。わたしは黙想会の感謝のミサでもありますし、後輩司祭に主司式をお願いして、脇に並ぶことにしたのです。ある意味、生まれて初めて馬込教会で司式司祭を務めず、脇に並んだのです。
●すると、さまざまなことが頭をよぎりました。これまでずっと、わたしが祭壇の中央に立っていたわけですが、わたしが祭壇の中央に立たなくても、ミサは成立することを、身をもって感じました。
●わたしが中心にいなくても、この教会は成り立つ。何もわたしでなくても、この教会は神に賛美をささげる教会であり続ける。そんなことが頭をよぎり、ちょっと涙がこぼれそうになりました。そして同時に、これからは手を合わせ、馬込教会のために祈ることが、わたしのなすべきことだと感じたのです。
●馬込教会にも6年間お世話になりました。何かを成し遂げた、それなりの自負もありました。歴代の主任司祭がだれも手をつけなかった司祭館の建設に着手し、完成させました。司祭館を建設するに当たっては、わたしが責任をかぶらないといけない場面もありました。司祭館建設に必要な資金は、赴任した時点で1円もなかったのです。それで策を講じたりもしました。
●懐かしい思い出です。司祭館の現状を知ってもらうために、雨漏りの話をしました。「皆さんの家では、傘をさして暮らしているでしょうか。わたしは、司祭館の雨漏りがひどいので、傘をさして暮らしております。」するとその話を逆手にとって、あるご婦人はこう言いました。「神父さまも傘をさして暮らせば不自由で困るでしょうに。いっそのこと合羽を着れば両手が塞がらず、快適に暮らせるのに。」これには参りました。
●けれどもその話が功を奏したのか、「主任神父さまにあんなことを言わせてはいけない」「主任神父様にあんな暮らしをさせてはいけない」という機運が高まり、司祭館建設にこぎ着けることができました。本来なら、これはわたしが担う責任ではなかったはずですが、今となってはよい思い出です。
●喜びも苦労も、たくさん経験した6年間でした。けれども一旦、主任司祭の任を解かれることが決まれば、それは切り替えなければなりません。わたしが握りしめていては、新しい主任司祭に迷惑をかけることになります。開いていた手を閉じ、これからの馬込教会のために祈ること。手を合わせて祈れば、わたしを通して働いてくれた神が、次の主任司祭を通して働いてくれます。そう信じて祈ることが、わたしにできる最後の務めだと、祭壇で脇に立ってミサをささげながら思いました。
●手を広げ、あちこち足を運んで積み上げてきた今までの努力は、手を合わせ、目を閉じて祈るとき手放すことになります。人間的には寂しさもあることでしょう。けれども、それは通らなければならない道だと思います。いつまでもわたしの持ち物であるはずがありません。必ず、次の人に引き継いでもらう時がやってきます。
●その時に、わたしの開いていた手を閉じる勇気が必要です。ここでためらってはいけないと思います。手を合わせ、目を閉じて祈るとき、はるかに知恵に満ち、これから必要なことを完全にご存知でおられる方が、あとは計らってくださいます。職務を引き継ぎ、次の人にゆだねて自分は手を合わせて祈る。それは、すべてを良い方向に導いてくださる方への信頼の証しでもあるのです。
●人が変わり、職場の雰囲気がガラッと変わる。いろいろ思うこともあるかもしれませんが、その中でやってみるべきことは2つあります。1つは手を動かし、足を動かすことです。もう1つは、手を合わせ、目を閉じて祈ることです。常により良い職場環境を維持するためには、それぞれができる努力と、それぞれが知っている祈りを職場に傾注する必要があると思っています。
●職務や職場から離れても、手を合わせることはいつまでも可能です。もしかしたら、手を動かすことよりも手を合わせることのほうが大事かもしれません。なぜなら、わたしたちの手足が動かなくなっても、それでも最後にできることは祈ることだからです。
●職場の中で祈る場面を取り込めば、職員一人ひとりが自分の職務を全うするために祈る人であるなら、最上の知恵と最上のわざをお持ちの神が、働いてくださると思います。祈りの言葉はキリスト教の祈りの言葉に縛られなくても構いません。自由な祈りで結構です。何か自分を超える方に信頼して活動するその姿勢が、何より大事なのだと思います。

(6)答えを知っているのはわたしとは限らない。だから助け合おう(2358文字)

●今回のお話の結びとして、次のことを言い残したいと思います。人はさまざまな出来事を体験し、そこから何らかのことを学んでいきますが、答えを知っているのはわたしとは限らないということです。もちろん、わたしが体験したことの意味を、わたし自身が見つけ出すこともあるでしょう。けれども全く違う場合もあります。5年、10年、時には30年も40年も経ってから、その意味を分からせてもらうことだってあり得るのです。
●考えが正しかったのか、その答えを知るのに10年かかった例から始めましょう。太田尾小教区にいたとき、週に2回ミサに行っていた巡回先の教会がありました。そこには司祭が居住する司祭館も併設されていました。この司祭館で一つ気になっていることがありました。それはトイレを使用した時に流す水の量のことです。生活し始めて4年目に、会計係の信徒に相談したのです。
●わたしがトイレを使用して水を流す時、相当の量の水が流れて行きました。これは使いすぎだろうと思い、気になっていたのです。ですがなかなか話を切り出せませんでした。ある日そのことを会計係に伝えたのです。「トイレの水、流しすぎだと思うけど、調節してくれない?」
●わたしは、節約のためにそうすべきだと強く思っていました。主任司祭の頼み事です。むげに断れなかったその会計さんは、流す水の量を調整してくれたようです。ところがその10年後に、わたしの考えは間違っていたかもしれないと思うようになったのです。
●違う赴任先でも、同じことを感じ、伝えたことがありました。トイレの水を流しすぎてないかと言うと今回は、建物を維持管理している教会役員からはっきりと釘を刺されたのです。「このトイレはたくさん水を流さないといけません。たくさんの人が利用するトイレであれば構いませんが、このトイレは週に数回、神父さんが使うだけです。少しの水しか流さなかったら、トイレを清潔に保つことができなくなります。」
●その答えを聞いたとき、わたしは目の前のトイレのことではなく、10年前にトイレのことで注文つけたことを思い出していました。もしかしたら、わたしの言った言葉のために、後で大変な迷惑をかけたかもしれない。めったに使わないトイレを清潔に保つためには、むしろ大量の水が必要だったのかもしれないと。
●わたしは答えを知らなかったのです。わたしがいつでも答えを知っていると思い違いをしていて、「こうしなさい」と指示を出しましたが、間違っていた可能性があるのです。当時もっといろんな人の意見を聞いていたら、こんなに時間をかけずに自分の行動を改めることができたかもしれないのです。
●もう1つ例を挙げておきましょう。小学生の時の体験です。自然の中で思い切り遊んでいた時代です。あるとき幅の狭い川を、足を濡らすことなくジャンプして渡れるか、友達と競っていたことがありました。わたしは器用に川をジャンプできたので、みんなの注目を浴びて得意げになっていました。
●またあるとき、一人で川遊びをしていて、川底に割れたビンの欠片(かけら)があり、裸足だったわたしは深く足の裏を切ったことがありました。みるみる赤い血が流れて、自分でも怖くなりました。だれも近くにいなかったのですが、たまたま親せきの人が通りかかって、病院までわたしを運んでくれました。
●今でもその時のことを思い出すとゾッとするのです。一人で川に入って足を切った時に、出血多量で死んでいた可能性もありました。川をジャンプして渡って、渡った向こうにガラス瓶の欠片があって大怪我していた可能性もあったのです。そうした危険をくぐりぬけ、わたしが今あるのは誰のおかげだろうか?自分が用心深かったからだろうか?決してそうではありませんね。
●わたしは守られていたのです。あるときは遠くから神が見守り、あるときは身近な人を送って、守ってもらったから今があるのです。そんなことも、わたしは知らずにいたのです。だれかに守られて危険を回避していたのに、まるで自分が何者かであるかのような態度がどうしてできるでしょうか。
●自分の愚かさや、不注意を改めるきっかけとか、今感謝できる十分な理由に思い当たるとか、そうした自分を育てるチャンスがはるか昔にあったことに、わたしは30年も35年も経過してようやく気付かされたのです。
●だれかにヒントをもらったなら、もっと早くに気付いていたかもしれません。答えを知っているのはわたしとは限らないと、早くに考えを改めていたら、もっともっと成長できていたかもしれません。だからこそ、助けてもらう必要があります。だからこそ、同僚の言葉に謙虚に耳を傾ける十分な理由があります。自分の足りない部分に早く気付くことができるのであれば、年齢や経験に関係なく、どんな人に耳を傾けることもためらってはいけないと思うのです。
●職場の仲間は、互いに関わり合うことで成長していきます。皆がどこかで互いにつながることのできる枝であってほしいと思います。枝と枝とは、一見無関係のように見えるかもしれませんが、中心には一つの木があって、つながることができるのです。
●中心にある木を一つの言葉で表すこともできますが、個々人の向こうにおられるお方とだけ言っておきましょう。そのお方につながれば、一人ひとりに違いがあっても学びあえる相手だし、ゆるしあえる相手だし、苦労を分け合える相手になれます。
●今日、同じ話を聞いて、考え方を分け合った友として、また明日から同じ職場で力を発揮してください。もう一度、同じ話を話題に考えを出し合いたいときは、皆さんにお配りした資料の最後に、参考個所を示しておりますのでご利用ください。つたない話でしたが、最後まで耳を傾けてくださり、ありがとうございました。
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