こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

キリストの聖体(ルカ9:11b-17)わたしたちも人々のための食べ物になろう

2010-06-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/06/06(No.479)
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キリストの聖体
(ルカ9:11b-17)
わたしたちも人々のための食べ物になろう
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今日は、「キリストの聖体」の主日です。今日のキリストの聖体の主日で、一連の特別な名前の付いた日曜日が終わり、来週からは「年間の主日」に移ります。念のため、名前の付いた主日を思い出しますと、ご復活の後のご昇天から始まって、聖霊降臨、三位一体、キリストの聖体、この4つが、連続してやってきます。皆さんもぜひ、4つの主日の名前と並び順を覚えてほしいなと思います。

さて、キリストの聖体の主日に当たってわたしが考えた要点は、「食べ物は、食べられたら、目には見えなくなる」ということです。この、一見当たり前のようなことを鍵に、聖体について黙想してみたいと思います。

まず、ふだんの食事を考えてみましょう。おいしくいただいた食事は、すっかりおなかの中に入って、ほとんど何も残りません。けれども、何も残らないと言っても、何も食べなかったのとは違います。食べた物は栄養となり、体を養うのです。

では、聖体も同じように考えることができるでしょう。ミサに参加し、聖体を拝領すると、わたしたちは恵みに満たされます。食べ物となったキリストは、わたしたちが拝領してしばらくすると見えなくなりますが、拝領しなかった人とは明らかに違いがあります。拝領した人は確かにキリストに養われるのです。

また、食べ物は、食べてしまえば消えてなくなるけれども、要らないとは決して言えません。補助食品も含めて、どうせ消えてなくなるものだから、毎回毎回食べなくてもよいなどとはだれも考えないでしょう。同じように、わたしたちの心を養う聖体も、見えなくなってしまうのだから要らないではないか、とは言えないのです。

むしろ食べ物は、食べても食べてもなくなってしまうものなのに、わたしたちの生活になくてはならないものなのです。聖体も、拝領して30分もすればおそらく見えなくなってしまうものですが、わたしたちの心の糧として、命の糧として、なくてはならないものなのです。

ここから、もう1つのことを考えたいと思います。イエスは、わたしたち人類すべてのために、十字架の上で命をささげ、お亡くなりになりました。わたしたちの目から、消えてなくなったのです。食べ物が、食べられることで消えてなくなるように、イエスは、十字架の上で命をささげることで、わたしたちのために消えてなくなられたのです。

十字架の上で命をささげたことで、見えなくなるというのは意味深いと思いました。目には見えなくなりましたが、復活したイエスが弟子たちを、婦人たちを、信じるすべての人を生かし続けました。食べ物が消えてなくなっても、食べた人を生かすように、イエスは十字架上で亡くなられて復活し、わたしたちも含めすべての人を生かしてくださいます。つまり、十字架の上で命をささげた姿の中に、聖体の恵み、聖体がわたしたちにもたらす働きが、示されているわけです。

食べ物は、人間になくてはならないものだと言いました。聖体も、信じる人にとってなくてはならないものです。そしてすべての人にとって、イエスが十字架で亡くなられたことは、なくてはならないものだったのです。

そこで、わたしたちの生活を振り返ってみましょう。わたしたちは食べ物の大切さを知り、聖体も信じる人にとって必要であることを十分わきまえています。もう一歩踏み込んで、生活する中で出会うすべての人のために、体の食べ物でない、心の食べ物を指し示してあげる必要があるのではないでしょうか。すべての人の命の糧として、十字架の上で亡くなられたキリストを、何かの形で指し示す必要があるのではないでしょうか。

食べ物の大切さも知っています。聖体に養われる素晴らしさも知っています。では、出会うすべての人のために、聖体に養われる素晴らしさを、どうやって示していけばよいのでしょうか。

次のような方法はどうでしょうか。「わたしたちが、この社会にあって聖体となる」という方法です。イエス・キリストそのものになりきることはできませんが、わたしたちが、出会うすべての人の食べ物となることは可能だと思います。

わたしたちが出会う人々は、「すべてにこえて、神を愛する」という食べ物を知らないかもしれません。わたしたちが出会う人々の中にあって、「すべてにこえて、神を愛する」姿勢を示すなら、出会った人々はわたしを通してイエス・キリストの第一の掟を食べることになります。

「隣人を、自分のように愛する」という食べ物を、「そんなもの受け入れられない、食べられない」と思っているかもしれません。そんな中で、わたしたちが隣人を自分のように愛することで、イエス・キリストが与えてくださった第二の掟を知り、「受け入れてみよう、食べてみよう」と考えるかもしれません。

つまり、出会う人々の真ん中で、イエス・キリストが示した食べ物を食べ、「これは食べることができます。これを食べると豊かになります」と証しをすることで、わたしたちは出会う人々の食べ物、人々のための聖体となれると思うのです。

食べ物は大切です。体の食べ物も、心の糧も大切です。わたしたちはイエス・キリストという、最高の命の糧をいただいているのですから、その恵みを出会う人々に届けましょう。まずそうな食べ物ではいけません。わたしたちがおいしそうな食べ物となって、出会う人々にイエス・キリストに養われる素晴らしさを証ししましょう。わたしたちが拝領する聖体が、この証しのわざを可能にしてくれます。

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ちょっとひとやすみ
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▼もしかしたら、日曜日の説教を配信する相手が、一度も見たことのないネットの向こうの人々だけでなく、すぐ近く、足元にいるかもしれない。そう感じたのは、小教区の広報委員会の中での会話だ。意外と近くの人が、この「ちょっとひとやすみ」を読んでくれていることが分かった。
▼そうなると、当然配信されている説教本体の部分も、読んでくれる可能性がある。希望が出てきたので、メルマガを読んでくれるように、案内のチラシを作ることにした。難しくならないように作ることが難しいが、何とか読みやすいチラシにしたいと思う。
▼メルマガを受け取る人が高齢者である場合、繰り返し読み返すことができるというメリットがあると思う。自分自身でもよく分かっていることだが、説教で話したことを、1度聞いただけでそのまま理解し、消化するというのはほとんど不可能である。
▼1度聞いただけで理解できる話をしろと言われそうだが、どんな話でも2度3度聞き直したり考えたりして、「こういう意味だったのかなぁ」と分かるものが多いのだから、聞き直すため、読み直すためにメルマガを受け取るのは十分メリットがあると思う。
▼どんな反応が来るだろうか。まったくの空振りに終わるかもしれない。まぁ、それはそれで、次のチャンスを探そう。上五島にはたくさんの、潜在的な需要があると見込んでいる。この町でうまくいかなかったら、次の町だ。きっと、必要としてくれる人に巡り合うに違いない。

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新企画今週の1枚
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第86回目。浜串にある「岬の聖母像」。一緒に写っている(予定)のは来客。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100606.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第11主日
(ルカ7:36-8:3)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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