この別荘(後に旅館として使われた)は、東急電鉄の根津嘉一郎と結びつけられる事が多いが、最初に別荘として築いたのは、海運でもうけた内田信也である。
パンフレットにもはっきり書いてはないが、最初はこの日本家屋部分だけだったようだ。旅館時代には麒麟の間と呼ばれたらしい。
しかも、庭を数寄屋風にしつらえたのは根津嘉一郎。
こちらは、麒麟の間の二階の大鳳の間。
庭の石組も、素晴らしい。
そこに、こういう洋館を増築するのは、ちょっと違和感を感じるのだが。やはり、明治の人間はエネルギッシュでおもしろいと感じたものは何でも取り入れる精神を持っていたのだろうか。
旅館としての居心地は、悪くなさそうだ。