新しい自分との出会い
――自己表現を豊かにするもの――
◎墨彩画、書に魅せられて
新しい年が来ました。今年もどんな自分に出会えるのか、やっぱりわくわくしています。
子どもの頃、新年を迎えると、早朝より若水を汲み、真新しい水で顔を洗うと、家族そろって近所の氏神さんに初詣に出かけて行くのです。秋に収穫した藁で父が編んだしめ縄が、新年の空気をきりっと引き締めてくれます。なんだか新しい自分に出会えそうで、わくわくしたものです。60歳を過ぎた今もそのわくわく感があるから、ずっと子どもなのでしょうか。
今年も大学の仕事、学校の授業研究会や研修会の仕事、全国各地の講演活動で多忙な日々になりそうです。そんな日々ですが、言葉で表現すると同時に絵や書で自分を表現する楽しみを追求していきたい、とわくわくしています。
墨彩画や書の魅力というのは、その日その時の一回きりの線と色で今の自分を表現できることなのです。今最もかきたいことを自分らしい表現方法で、かきたい時に決断してかく、一回きりの世界に深い味わいを感じているのです。
拙い作品ですが、その日その時の自分の生きている証なのです。とは言え、いつも思い通りにはいかなくて苦闘しているのですが、また挑戦したいという気になるから、やっぱり面白いです。
◎二人の師と作文教育
この墨彩画と書の師との出会いが、これまた人生の宝になりました。お二人の人間性と作品の深さにほれ込んでいるのです。一本の線の中に、自然への深い洞察と人生の厚み、中国の文人たちの精神性が宿っていて、自分の未熟さに身を縮めることしばしばです。
ところで、こういう世界というのは、えてして師の権威の前にかしずき、師は絶対、師の技術に一歩でも近づくための精進と訓練が求められるものです。
私が出会ったお二人の師は、権威をふりかざさず、私たち生徒と対等に一人の人間として接して、指導してくださるのです。師は、私の作品を、本物を追求する厳しい眼で見てくださいますが、まずは、私が何をこそ表現したかったかに共感し
、私の私らしさを大切にしてくださった上で、いくつかのアドバイスをくださるのです。
ある日、ふっと目の前が開けたような感動を味わったのです。それは、自分が長い間追求し続けてきた作文教育の原則そのものだったからです。子どもたちが作文を書く時、自分の表現したいことを自分の言葉で、自分らしい表現方法で自由に書くということを原則に、40年近く、いえ今も大学生に指導しつづけてきています。
子どもの作文も、今を生きている証です。子どもたちの作文を手にした時、まず何よりもその子の表現したかったことに心寄せ、その子の良さ、その子らしさを発見して共感するのです。
私の師は言います。「いろんなジャンルの本物にたくさん触れ、美しいものを観る感性を養い、表現意欲を喚起させたい」と。「まず技術を盗め」とは言わないのです。
作文教育においても同じことでした。いかに書かせるかの技術ばかりに目が行き、ああ書け、こう書くなという指導には走らないことを鉄則にしてきたのです。すぐれた文学に触れ感動しながら感性を豊かにし、友だちの作文を、表現・生活と重ねて味わうという指導を追求してきました。
尊敬する二人の師によって、自分の教師生活をかけて追求・実践してきた仕事を確かめさせていただいたのです。
◎芸術は教えられない
作文が好きで書きたいという子どもを、そして、今書を書きたい、絵を描きたいという自分を大切にしたいと思います。
味わいたい言葉を一つ。優れた書や絵を残した中川一政の言葉です。
「柳のような字をかく先生の弟子は柳のような字をかく。みな字を書けるようになったが、目は盲にされてしまう。技術は教えられるが、芸術というものは、教えられないものだ。先生に頼るということは先生の眼鏡をかけて物事をみることだ。自分の眼で見ることを忘れてしまうことだ」
「無条件に己をぶつけ、線を引いてみたらいい。紙の上に自分の全存在がひらき、夢が息づく。遊ぶ字だ。そこに生きるよろこびがふくれあがってくる」
書や絵で遊びながら、この一年も新しい自分と出会いたい。いやいや、本業の仕事を忘れないようにして。
(とさ・いくこ 和歌山大学講師・大阪大学講師)