5月4日に愛媛の実家で先祖祭りに参加した。
昨年父が亡くなり、それまで父が参加していたのが、かわりに私が参加するようになったのだ。
先祖を同じくする家が集まって、お墓参りの後、持ち回りで懇親会を行うだけのものだが、こういうものは長く続けることに意味があるのだろう。
今年の当屋(とうや)はご近所の方で、親子共々学校の先生をしていた人である。
数年前になくなったその方の母親は教師を辞めた後、近所の子どもを集めて寺子屋式の塾をされていた。
私も小学生の頃少しお世話になった。
塾の時間にさぼって外を走り回っていたのを見つかってこっぴどく怒られたことだけは鮮明に覚えている。
田舎にしては珍しい背筋の伸びた気品のある方で、厳しい先生で有名だった。
そのなくなった先生に二人子どもがいて長女(姉)が今回の当屋である。
長男(弟)は田舎では伝説の人物で、高校進学すら珍しかった時代に京大に進学し、商社マンとして世界中で活躍したという人である。
私は話は聞いていたが、この方にはこれまでお会いしたことがなかった。
姉の命令で、今回は東京から子どもと孫を連れて参加されていたのである。
世代も近いので、今回参加した次男の方といろいろ話をした。
関係がややこしいが、今回当屋の方とは伯母と甥という関係になる。
彼は父の仕事の関係で小学校の6年間はニューヨークで過ごしたとのことだった。
現在は東京で家族を持ち仕事に就いている。
ここ数年は祖母の葬儀や法事で毎年のように帰省しているということだが、そもそも愛媛が故郷という感覚はない。
この家庭の場合、我が家以上に問題は深刻である。
田舎には年老いた伯母一人が広大な屋敷に一人暮らしをしている。この方には子どもがいない。
頼りになる弟は既に東京で落ち着いてしまっていて帰ってくる予定はない。
その子ども達も東京で職に就き落ち着いてしまっている。
私の場合は岡山と愛媛なので何かあればすぐに帰ることが可能だが、東京からすぐにというのは無理である。
反対に、例えば病気などをしたとき東京に呼び寄せると言っても、田舎暮らしをしていた人を東京に連れて行くのは無理がある。
日本中で見られる問題の一つがここにもある。
昨年父が亡くなり、それまで父が参加していたのが、かわりに私が参加するようになったのだ。
先祖を同じくする家が集まって、お墓参りの後、持ち回りで懇親会を行うだけのものだが、こういうものは長く続けることに意味があるのだろう。
今年の当屋(とうや)はご近所の方で、親子共々学校の先生をしていた人である。
数年前になくなったその方の母親は教師を辞めた後、近所の子どもを集めて寺子屋式の塾をされていた。
私も小学生の頃少しお世話になった。
塾の時間にさぼって外を走り回っていたのを見つかってこっぴどく怒られたことだけは鮮明に覚えている。
田舎にしては珍しい背筋の伸びた気品のある方で、厳しい先生で有名だった。
そのなくなった先生に二人子どもがいて長女(姉)が今回の当屋である。
長男(弟)は田舎では伝説の人物で、高校進学すら珍しかった時代に京大に進学し、商社マンとして世界中で活躍したという人である。
私は話は聞いていたが、この方にはこれまでお会いしたことがなかった。
姉の命令で、今回は東京から子どもと孫を連れて参加されていたのである。
世代も近いので、今回参加した次男の方といろいろ話をした。
関係がややこしいが、今回当屋の方とは伯母と甥という関係になる。
彼は父の仕事の関係で小学校の6年間はニューヨークで過ごしたとのことだった。
現在は東京で家族を持ち仕事に就いている。
ここ数年は祖母の葬儀や法事で毎年のように帰省しているということだが、そもそも愛媛が故郷という感覚はない。
この家庭の場合、我が家以上に問題は深刻である。
田舎には年老いた伯母一人が広大な屋敷に一人暮らしをしている。この方には子どもがいない。
頼りになる弟は既に東京で落ち着いてしまっていて帰ってくる予定はない。
その子ども達も東京で職に就き落ち着いてしまっている。
私の場合は岡山と愛媛なので何かあればすぐに帰ることが可能だが、東京からすぐにというのは無理である。
反対に、例えば病気などをしたとき東京に呼び寄せると言っても、田舎暮らしをしていた人を東京に連れて行くのは無理がある。
日本中で見られる問題の一つがここにもある。
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