母が亡くなったのは昨年の桜の花が真っ盛りの晴れた日。107歳と5ヵ月の寿命を立派に全うしての大往生だった。
昭和19年、私が4歳になった時に父は南洋で戦死した。寡婦となった母は、担ぎ屋、病人の付き添い、作業員宿舎の炊事婦などをして、朝から晩まで働き、私を育ててくれた。
晩年の母はよく「この手はゆ(よく)働いた手やっど」と言って、しみじみと手を眺めていた。その左手のひらは、少し内側にくぼんで引きつっていた。
あれは私が小学3年生の時のこと。道の普請に出た母の左手に石の破片が刺さり、そこから菌が入ってグローブのように腫れた。きっと病院へ行くお金がなくてぐずぐずしていたのだ。土砂降りの雨の夜、叔父がリヤカーに乗せて病院へ連れて行ってくれた。麻酔無しだったのか、手術台の母の足を押さえていたのを覚えている。先生が手のひらにメスを入れると、うみが天井まで飛んだ。
翌日、登校の途中で私は引き返し、母のそばを離れなかった。幼いながら母が死んだら自分も死のうと思いつめていた。この時が私たち母子の一番のどん底時代だった。
後にこの時の1日の欠席で、小学6年間の皆勤賞をもらえなかった。
母の苦労を見て育った私は、母を大切にしなければと思って生きてきた。でも、いつも支えられていたのは私の方だった。
鹿児島県霧島市 秋峯いくよ 2012/4/3 女の気持ち欄掲載
昭和19年、私が4歳になった時に父は南洋で戦死した。寡婦となった母は、担ぎ屋、病人の付き添い、作業員宿舎の炊事婦などをして、朝から晩まで働き、私を育ててくれた。
晩年の母はよく「この手はゆ(よく)働いた手やっど」と言って、しみじみと手を眺めていた。その左手のひらは、少し内側にくぼんで引きつっていた。
あれは私が小学3年生の時のこと。道の普請に出た母の左手に石の破片が刺さり、そこから菌が入ってグローブのように腫れた。きっと病院へ行くお金がなくてぐずぐずしていたのだ。土砂降りの雨の夜、叔父がリヤカーに乗せて病院へ連れて行ってくれた。麻酔無しだったのか、手術台の母の足を押さえていたのを覚えている。先生が手のひらにメスを入れると、うみが天井まで飛んだ。
翌日、登校の途中で私は引き返し、母のそばを離れなかった。幼いながら母が死んだら自分も死のうと思いつめていた。この時が私たち母子の一番のどん底時代だった。
後にこの時の1日の欠席で、小学6年間の皆勤賞をもらえなかった。
母の苦労を見て育った私は、母を大切にしなければと思って生きてきた。でも、いつも支えられていたのは私の方だった。
鹿児島県霧島市 秋峯いくよ 2012/4/3 女の気持ち欄掲載
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