EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

子規の句碑新たに建立 松山市平和通りに

2009年08月13日 | 伊予松山歴史散策
昨日所用で平和通を自転車で走行していると新しい句碑8基を発見した。
場所は、松山市平和通三丁目から平和通五丁目の間で新たに歩道と自転車専用路が建設された境目に建立してある。
この平和通りは、戦後松山市が実施してきた戦災復興都市計画事業の一つとして道路整備した松山市で一番大きい市道である。「片側2車線」今年松山市で初めて歩道と車道の間に自転車道を整備した。此処に新しい句碑が先月建立された。
句碑の殆どは、正岡子規の句で、子規は短詩系文学、特に近代俳句を確立した俳人である。東京大学を中退し日本新聞社の記者として入社、日清戦争の時に従軍記者として清国に渡り記者として活躍した。「秋山眞之と松山中学、東京予備門の同級生で、日清戦争で活躍していた事に刺激を受けての行動」帰国の船内で喀血して須磨で療養を余儀なくされ以後体調を崩しながら近代俳句の確立に命を掛けた。また野球を全国に広め振興に尽くし野球殿堂入りしている。野球をこよなく愛し野球人以外の人が野球殿堂入りしているのは子規だけである。
松山が野球の強いのは子規が松山に帰るたびに青少年に指導した基盤があるためである。

画像の句碑は、明治28年9月20日夏目漱石の下宿先「愚陀佛庵」で療養していた子規は何時に無く体調がよく友人の柳原極堂「排誌:ホトトギスの創刊者」と松山城の北山麓を散歩した時の句である。

杖によりて 町を出づれハ 稲の花

       句碑は、同じ大きさ、形で8基建立されている。


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