EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

平成21年・アマチュア無線の祭典

2009年08月28日 | 伊予松山歴史散策
 8月22・23日に平成21年アマチュア無線の祭典「2009・ハムフェア」が東京有明・国際展示場(東京ビッグサイト)で開催され参加いたしました。 
今年の参加者は昨年より2,000名増の延べ32,000名(初日21,000名、二日目が11,000名)のアマチュア無線愛好者が全国から来場いたし、私もJARL技研コーナーのお手伝いをして来ました。

画像は、8月22日(土)午前10時開会式典が行われ外国からも各代表が参列されテープカットをされました。
左から、HL1BBG・キム・イルブKARL韓国アマチュア無線連盟会長:K1ZZ・デーブ・サムナーARRLアメリカアマチュア無線連盟会長:JA1AN・原昌三JARL日本アマチュア無線連盟会長:VE6SH・ティム・エラン・ARU国際アマチュア無線連合会会長:OKIVR・セツボ・シサット・GAREC国際アマチュア無線非常通信会議議長:相神一裕・JAIA日本アマチュア無線機器工業会会長の皆さんがテープカットをされて二日間の祭典が開かれました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧松山海軍航空隊

2009年08月18日 | 伊予松山歴史散策
 松山航空隊は、昭和16年海軍呉建築部により工事が開始され、昭和18年10月に第一期工事が完了し松山海軍航空基地として使用開始された。
昭和19年4月に第二期工事として、掩体、隧道、誘導路の工事をした。
昭和20年連合軍に接収され、朝鮮動乱時には米英軍が使用、昭和27年に民間空港として整備現在は2500m滑走路に整備しジャンボジェットが就航、また国際便も就航するに至っている。
昭和41年に全日空のYS11が着陸に失敗し伊予灘に墜落、乗務員乗客全員死亡と言う悲惨な事故が起こった。
50万都市の空港で県庁、市役所から15分で空港に行けるのは全国でも松山空港であり非常に利便性のいい空港である。

画像の松山海軍航空隊跡の石碑は、松山市北吉田町、帝人(株)松山事業所入口に再建立されています。「以前は木製だったと記憶している」
記念石碑の横に碑文の石碑がある。
碑   文
茲は松山海軍航空隊跡地なり大東亜戦争中この地に海軍飛行豫科錬習生あり搭乗員たらんとして日夜厳しき教育と訓練に耐へ必勝の信念を以て敵に當らんとこの隊門を出ず。
時に戦雲愈々急を告げ米軍の侵攻本土決戦の様相を呈す。
遂に隊員盡く一死以て國に報いんとある者は特攻要員にある者は沿岸防備員と隊を去り國難に殉ぜんとす。
終戦、幾星霜往時の姿すでに無しとは言へこの地、松山海軍航空隊は我等豫科錬の夢の跡也以て隊址碑を建立す

とある。

画像の「松山海軍航空隊跡」石碑には、平成13年6月1日再建立
松山空甲飛14期生
世話人 愛媛松空会
    熊本松空会
と刻字されている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧松山海軍航空隊・掩体「戦闘機格納庫」の紹介

2009年08月17日 | 伊予松山歴史散策
昭和12年7月7日中国北京郊外で起きた武力衝突を契機として戦線は拡大の一途をたどり、ついに昭和16年12月8日に、米、英、蘭と戦争状態に突入太平洋戦争になった。
ここに紹介する、戦闘機の格納庫は、ゼロ戦、紫電、紫電改を敵機襲撃から保護するためのものです。
松山航空隊は、ハワイ真珠湾奇襲攻撃をするために、ここ松山で訓練を極秘で実施していました。
訓練の場所は、西宇和郡瀬戸町三机だそうです。(愛媛県佐田岬半島の中頃伊予灘に面した所) ここは、真珠湾によく似た湾で、「ニイタカヤマノボレ」命令発信その日のため訓練が行われたそうです。
それから、終戦間近の海軍航空隊は、三四三航空隊を編成しその司令官に「源田 実」海軍大佐が航空隊指令官として任命され、隊の編成は横須賀であったが、訓練基地は松山が一番いいと源田大佐の意向で急遽松山に決定したそうです。(源田 実は、戦後国会議員となり、またノンフイクション作家として海軍航空隊に関する多くの著作物を出版している。また、松山航空隊三四三航空隊を源田実の事実に基づいた映画が製作され、主演は確か三船敏郎だったと思う)
源田大佐は、昭和20年1月15日に松山に赴任しここで世界最強の航空隊を結成することを目的にしており、戦線で活躍の優秀なパイロット、撃墜王と呼ばれるゼロ戦パイロット達でこれを紫電改の訓練と、ドイツ空軍が始めた集団戦法の訓練が目的で、パイロット1200名その他整備兵等関係兵士総勢3000名の編成航空隊でした。
三四三航空隊の編成は次のようなもので、三四三航空隊(属名:剣部隊)指令:源田大佐、その下に、戦闘三○一飛行隊(新撰組)、戦闘四○七飛行隊(天誅組)、戦闘七○一飛行隊(維新組)、偵察第四飛行隊(奇兵隊)、戦闘四○一飛行隊(極天組)が昭和19年12月正式に編成され、昭和20年1月15日に源田航空隊指令が松山に赴任した。
しかし初期訓練、集団戦法訓練をする間もなく、20年3月13日米機動部隊が松山飛行場などを沖縄上陸作戦に先立って四国沖に接近、3月19日松山航空隊は編成早々四国上空で多数の米機と大空中線のため遂に紫電改の発進の時が来た、紫電改51機が松山飛行場を一斉に飛び立った。
この日、飛来したのは、約150機のグラマン機で、42機を撃墜、この日初めてグラマン機の一部が松山飛行場を攻撃したそうです。
この時私は6歳でしたが空中戦の様子が記憶にあります。

米国は、優秀な世界最強の零式戦闘機に対抗する戦闘機を開発、それがグラマンF6F、F4Uでこれに打ち勝つために、紫電改を製機した。
しかし、米国はすでにその先を見込んで昭和17年9月にB-29の製作に取り組んでいたそうです。
このB-29を使い日本本土を攻撃するには航続距離550K(爆弾搭載4トン)これに必要な滑走路は、マリアナ、サイパン、グァム、テニアンが必要であった。
それが、ミッドウエー海戦でこれが日本の敗戦が決まったのも同然であったのではないでしょうか。
米国は、この四国での空中戦で手痛いダメージを受け改めてB-29の必要性を感じたそうです。(B-29、スーパー・フォートレス、空飛ぶ要塞と呼ばれた。)
20年5月4日初めてB-29による松山攻撃が始まりその後10日、14日の攻撃で松山飛行場一部使用不能と記述がある。
その後松山大空襲があった。
時、昭和20年7月26日午後11時08分に始まり27日午前1時13分頃まで約2時間余り爆撃は継続、攻撃要領は、大都市に対するものと同じ方法で行われ、攻撃の先頭部隊は無数の小型焼夷弾を投下次いで、後続の部隊が大型の焼夷弾を投下した。
これで松山は一夜にして焼け野原と化した。
但し、松山城は攻撃から外されていたそうです。
東京大空襲(昭和20年3月9日)から約4ヶ月後の事である。
 
画像は、松山大空襲で残ったのがご紹介したこの「掩体」(えんたい)格納庫です。
物の経緯、事情の分からない人々はなんだろうと不思議に思い、そして見逃してしまうのではないかと思います。
此れは、太平洋戦争の遺物の一つとして保存し後世に悲惨な出来事を語り伝えて行かねばならない。
現在、三個の格納庫が松山市に残って降りますが、私も初めて格納庫を見ました。
今年もまた終戦の日が来た。
世は正に日本は平和そのもの、これでいいのであろうか?
参考文献「松山城は残った」松山大空襲の記録より、一部引用

追記
 一昨日、奇しくも「終戦の日」デジカメ3台を持参して撮影した。子ども心に記憶に残る戦争の出来事を回想しながらカメラに納めた。 
 私の父も関東軍の将校でしたが、昭和20年4月28日ニューギニアで戦死、父親の顔は記憶になく、撮影しながらこの事も脳裏を掠めた。
仏壇に線香を捧げながら合掌。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊予松山城天守・鯱

2009年08月16日 | 伊予松山歴史散策
8月14日松山城観光ガイド(松山観光コンベンション協会・奉仕活動)の当番日で天守最上階にてガイドをしていました。関東からお越しになられた方から鯱に付いて質問を受けました。
鯱(しゃち)とは、シャチが水を吹き上げるところから想像された海獣で、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っていて逆立ち状態で取り付けられており建物が火災時に口から水を噴き出し火を消すと言う守り神とされ織田信長が安土城創建の際、天主の装飾に取り入りたのが始まりで以後天主大棟の両端に雄雌の鯱を揚げるようになった。雄雌の区別は口を開けているのが雄で口を結んだいるのが雌である。(松江城の鯱の雄雌区別は、ひれで区別をしているそうだ。先般7月22日に行った時にみると両方とも口は開けてなかった・・一概に口で区別はしていない事が解った。造りは銅板張木造だそうです)また鯱の取り付け方角は殆どが大棟が東西にある場合は、東に雄、南北にある場合は、南に雄を揚げている。しかし名古屋城天守は、北側に雄を揚げているのでこの事も一概には言い切れない。製造方法は、瓦・木・石・金属等で造られている。名古屋城の金の鯱は有名で、高知城は鋳造製で、伊予松山城は瓦製でありますと説明いたしました。
次いで、対となる物を表す用語としても使用されるものに、狛犬や仁王、沖縄のシーサー・鯱など、一対で、口が開いている方を阿形(あぎょう)、閉じている方を吽形(うんぎょう)と言われ、阿形を雄・吽形を雌とされる。
転じて、2人の人物が呼吸まで合わせるように共に行動しているさまを阿吽の呼吸、阿吽の仲などと呼ばれている。


画像の鯱は、平成16年から平成18年12月まで平成の大修復の時、天守の瓦の風化が酷く全て新たに葺き替えられ鯱も新しく造り取り替えた。此の鯱は修復前の鯱で阿形(雄)は大正14年4月製造の刻印がある。吽形(雌)には刻印が無いが風化の度合いから阿形より古いとされている。・・伊予松山城山麓ロープウエー乗場に展示しております。

注:天主と天守と使い分けたが、定説として安土桃山時代は天主と表記し、江戸時代は天守と表記する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本国道・道路現標

2009年08月15日 | 伊予松山歴史散策
東海道(現国道1号線)の起点は、江戸時代から現在も日本橋とある。
藩政時代の東海道は、未だ点々と残っていいて、今年5月16日に横浜市鶴見区にある旧東海道川崎宿近くをM電機会社社長の案内で散策し近くに坂本九が卒業した川崎小学校にも立ち寄った。校門に川崎小学校わたしたちの先輩:佐藤惣之助・坂本九お二人の説明版があった。阪神タイガース球団歌「六甲おろし」の作詞が佐藤さんとは知らなかった。

日本橋には、日本国道元標(複製)が設置されていた。旧東海道と現国道1号線の路線は社会状況の変化に伴い大分変わっているが起点の変更はない。しかし終点が変わっているのではないか??起点は江戸時代から現在に至るまで日本橋で変わりは無いとある。
道路元標の傍に日本の主要都市までの里程表示版も設置してある。
一番距離が長いのは、鹿児島市まで1,469粁と記載してあった。
また、日本橋には、立派な東京市道路元標も設置してある。勿論復元されたものだろうが・・本物は太平洋戦争時に金属供出で潰されたのでは??

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする