松山航空隊は、昭和16年海軍呉建築部により工事が開始され、昭和18年10月に第一期工事が完了し松山海軍航空基地として使用開始された。
昭和19年4月に第二期工事として、掩体、隧道、誘導路の工事をした。
昭和20年連合軍に接収され、朝鮮動乱時には米英軍が使用、昭和27年に民間空港として整備現在は2500m滑走路に整備しジャンボジェットが就航、また国際便も就航するに至っている。
昭和41年に全日空のYS11が着陸に失敗し伊予灘に墜落、乗務員乗客全員死亡と言う悲惨な事故が起こった。
50万都市の空港で県庁、市役所から15分で空港に行けるのは全国でも松山空港であり非常に利便性のいい空港である。
画像の松山海軍航空隊跡の石碑は、松山市北吉田町、帝人(株)松山事業所入口に再建立されています。「以前は木製だったと記憶している」
記念石碑の横に碑文の石碑がある。
碑 文
茲は松山海軍航空隊跡地なり大東亜戦争中この地に海軍飛行豫科錬習生あり搭乗員たらんとして日夜厳しき教育と訓練に耐へ必勝の信念を以て敵に當らんとこの隊門を出ず。
時に戦雲愈々急を告げ米軍の侵攻本土決戦の様相を呈す。
遂に隊員盡く一死以て國に報いんとある者は特攻要員にある者は沿岸防備員と隊を去り國難に殉ぜんとす。
終戦、幾星霜往時の姿すでに無しとは言へこの地、松山海軍航空隊は我等豫科錬の夢の跡也以て隊址碑を建立す
とある。
画像の「松山海軍航空隊跡」石碑には、平成13年6月1日再建立
松山空甲飛14期生
世話人 愛媛松空会
熊本松空会
と刻字されている。
昭和19年4月に第二期工事として、掩体、隧道、誘導路の工事をした。
昭和20年連合軍に接収され、朝鮮動乱時には米英軍が使用、昭和27年に民間空港として整備現在は2500m滑走路に整備しジャンボジェットが就航、また国際便も就航するに至っている。
昭和41年に全日空のYS11が着陸に失敗し伊予灘に墜落、乗務員乗客全員死亡と言う悲惨な事故が起こった。
50万都市の空港で県庁、市役所から15分で空港に行けるのは全国でも松山空港であり非常に利便性のいい空港である。
画像の松山海軍航空隊跡の石碑は、松山市北吉田町、帝人(株)松山事業所入口に再建立されています。「以前は木製だったと記憶している」
記念石碑の横に碑文の石碑がある。
碑 文
茲は松山海軍航空隊跡地なり大東亜戦争中この地に海軍飛行豫科錬習生あり搭乗員たらんとして日夜厳しき教育と訓練に耐へ必勝の信念を以て敵に當らんとこの隊門を出ず。
時に戦雲愈々急を告げ米軍の侵攻本土決戦の様相を呈す。
遂に隊員盡く一死以て國に報いんとある者は特攻要員にある者は沿岸防備員と隊を去り國難に殉ぜんとす。
終戦、幾星霜往時の姿すでに無しとは言へこの地、松山海軍航空隊は我等豫科錬の夢の跡也以て隊址碑を建立す
とある。
画像の「松山海軍航空隊跡」石碑には、平成13年6月1日再建立
松山空甲飛14期生
世話人 愛媛松空会
熊本松空会
と刻字されている。