日本における勉強=修行では「教えないこと」が基本でした。多く
は「ただ働き」食事以外は無給で、さまざまな作業などをしながら
「教えない、必要があったら学べ、盗め」とされていました。
厳しいですが、それでも金をとる、までは少なかったでしょうね。
私のように、教えないで月謝をいただくというのはエゲツナイかなあ?
次のように思われる方がいらっしゃいますか?
「教えないとかいっても、質問させるのだから、それには答える
わけで、結局は教えてるんじゃないの?」
そうです。こんな疑問が出てくるように、不親切に説明しておくの
が私流の「教えない」なのです。
いままでの3回では「教えない」と何度も書きながら、その内容を
はっきりさせていませんでした。
もしエライ学者の方などがこの文をご覧になられても、それだけで
あちらを向いてしまわれそうです。(見るわけないけど)
そういう方の書かれる「キチンとしたもの」では初めに定義などが
これでもか、と説明してあります。我々多くの人間はそれだけで
その世界に入っていけません。が、エライ方は考慮などなさいませ
ん。そちらが土俵に上がって来い、とおっしゃいます。
でも、専門までいかなくても例えば数学の教科書を見ましょうか。
単元の初めに概念とか定義とか、たくさん書かれています。
イヤになりません?
なぜそんな決め方?とか思っていると、もう「~であるから、次の
ことが言える・・」と先へ進んでしまうのですね。
ものを考えるとは最初は「こんな場合はどうだろう?」からです。
「正確を期するため定義から説明する」というのは、考えることの
流れとは違うように思われます。
少しずつ考え初めて、疑問を一つずつ解決してゆく、その中で思考
が出来あがってゆくのではないでしょうか。
話が横道に入ってしまいました。
私の「教えない」とはどういうことか、でしたね。
そもそも、完全に何も教わらないで勉強が進む人はふつういません
から、「カンペキに何も教えない」ということはありえません。
平方根やピタゴラスの定理を教わらずに、自分でみつけられるなど
という人はほとんどいないでしょう。まず教わらないと、できるワ
ケがありません。
「なるべく教えることを少なくして、自分で学ぶ力を育てる」とい
うことを、ここでは「教えない」と表現しています。
教えすぎない、という表現では実感が伴いません。
かなり意識して「教えないぞ」としてないと実行できないのです。
さてここからの具体論が難しい。出来あがったものがあるわけで
はないのです。
◎
私の年若い知人にT君という人がいます。数年前私に、とある本を
教えてくれました。辻本雅史著『学びの復権』です。
井上の考えていることがこの本で少し分かった気がする、といって
教えてくれたのです。(著者は教育学者、現京大教授)
読みやすい本です。
乱暴を承知で短かく本の内容を紹介しますと
「明治に始まった学校教育には欠けているところがあり、忘れ去ら
れた江戸の教育にその解決法がある」というものです。
その中心は「教えないこと」
非常に面白い本ですが、後半の具体論は弱いと思います。T君も
そう指摘していました。また、私には儒教の話はジツはピンと
きません。勉強不足を恥じるばかりです。
とはいえ、面白くて勉強になる本です。
この本を読んで自分の方向に自信が持てました。
(上記掲載の写真は昨日近所の山を撮ったものです。暑いですね)
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