「教えない」極意

2012-10-01 10:21:14 | 教えない
塾の身の丈に合わぬ生意気ばかりを書くと
お叱りを受けますので、たまには塾らしく。


高橋和巳の文章に、教えない、というものがあったはずと
探していました。
(気が向いたときのパラパラ探しで見つからなかった)

『作品集7』のp334にありました。
真面目に探せば早く見つかったでしょうに。

高橋が中国語を学んでいるころの話です。

『どうしても分からない部分が出てくる。
 中国語の辞書は 完備していなかったせいもあって
 辞書にはのっていない語彙や言いまわしが頻出する。
 その際、教授はいつもこう言われた。
 「ここまでともかく君は読めたのだ。人間として考えて
  みたまえ」
  そして私がひそかに小説を書いていることを知られて
 からは、こうも言われた。
 「君自身がこの文章を書いているとせよ。ここまで、
  このように書いてきた。さて君はこれに続けて
  どう書こうとするか」と。』

自分で考えなさい、というのが勉強の王道です。

つねに「分かりません」と人を頼り、先生から(分かり易く)
教えてもらっていてばかりでは、上記のようにつき放されると
先に進むのに難渋するでしょう。

自分の頭で考え、自分の言葉で噛み砕いたものが
身に付くのです。
次へ進みうるストックとなります。

いつも自分の頭で考えることが出来ている人は
良い質問ができますね。
ヒントに出会うと俄然エンジンが回り始めます。

こういう人には必要に応じ教えても構わないのです。
教えることの内容が高度ですから。
問題を、全ての角度から、深淵の世界におりて検討する
のは、個人には至難の技です。

そのために、自分の足で歩けるようになっておく必要が
あるのですが、常に甘やかされていると自立が大変です。

「まず自分で考えてみなさい」が大切なのです。

特に最近のような世相、また教えるテクニックの進化
これらに囲まれた現在日本の子どもたちは大変です。

人間は、突然放り出されてパっと自立できるものでは
ありません。
放りだされたら身近に代替を探して安易に解決します。

先生がつき放すと、親、兄弟、友達、別の先生、ネット
いくらでも教えてくれる人たちがいますから。

懇切に教えてくれますよ。
その方が楽だから。精神的にも。

友達から「教えて」といわれて「自分で考えろ」とは
今の時代、言いにくいことですよね。

こうして、誰かがつらい思いをして始めた「教えない」が
いとも簡単に潰されてしまいます。
教える側は親切でそうしてあげているのに。

・・・潰れた次の「教えない」のステップは難しい。

成人式をすぎても思考の自立ができない若者が増える訳です。


「教えない」は一気に出来ない、徐々に進めると書きました。
また勉強には個人差(というより個性)が大きいので一斉授業
より個別形式の方がやりやすい、とも書いております。

ただ、個別で面と向かって「教えない」のも大変です。
下手をすると「教えてくれない」で終わってしまいますから。
すこしずつ自立へ導く手加減、継続性の維持、が難しいのです。

少しずつ離れてゆくと、苦労しながら考え始めている、
これは嬉しいものですが、
通常は、生徒がシンドイ、先生もシンドイ。
「あ、それは・・間違えてるって」
それを黙って見ているのは教え好きな者にはつらいですね。


「教えない」塾で成績が急に伸びるか?
それは通常ありえません。

将来、東大に通るか?
分かりませんね。

じゃ、なぜ「教えない」なのだ・・

その子には未来があるから。


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