久しぶりに山口塾の話

2012-08-05 15:28:11 | 塾あれこれ
自分の強い処を活かす、の話で
古いことを思い出しました。

山口塾もそれで失敗していたのです。
後年塾がつぶれる、そのスタートだったかな?

山口塾(小学生)はご存じのようにおおむね一日の授業を
二つの時間枠に分けていました。
(算数・理科)の授業と(国語・社会)の授業です。

それぞれ一人ずつが担当しますから、教員が二人いればよい
というシンプルなもので、これも強さの源でしたね。

私がド素人で塾に入れて頂いた時には塾の中心メンバーは
すでに固定していました。
五日市教室が哲弘・中山、己斐教室が林・高垣、
二つを行き来するのが塾長(恭弘)その裏に三宅

非常にシンプルで力を発揮しやすい仕組みです。
受験合格率の高さの一つはそこから来ているのでした。

その後20年近く勤めた私が辞める時も上記のやり方を
アレンジしていただけと言えるかもしれません。

さてそうすると後から入った人たちはいつまでたっても
サブに回るか、(メインではない)仕事に回るか。

私が中学部を始めたのもそういうことです。

中途で入った人はさておき、大学を卒業した若い人の
行く末が見通せませんね。

5年たっても10年たっても哲弘・林体制なのです。

生徒の数はどんどんと増えてくるし、教員の構造的な
問題は残ったままだし、塾長でなくても「どうする?」
という気持ちが共有されていました。

そこで塾長が向かったのが(山口塾の「普通の塾」化)
大手と似通ったことを取り入れて大丈夫と踏んだわけです。

もっと大きくして金を儲けよう、ということではなく
(リスクを犯し、難しい経営に臨めば金も入るでしょうが)
将来に続く山口塾を築こうという気持ちが強かった筈です。

その方向は必ずしも間違っていたとは言えないのですが
まず手始めにとった手段が間違っていた。

会社とか組織というものを知らない弱さが出ましたね。

まず経営コンサルタント(学習塾専門、だそうで)を呼んで
塾の見直しを図ろう、と言い始めたのです。

ボタンの掛け違いの始まりです。

コンサルティングには通常は二つのケースがあります。

本当に行く末が見通せなくて根本から見直してほしい、のか
すでに結論はあり、それを実現する手段としてコンサルタントに
頼むのか。

山口塾の場合は後者です。

いろいろ証拠はありますが、例えば中学部を作った私に
コンサルタントは一回も話を聞きに来ませんでした。

コンサルタントも交えた会議などで率先して発言し
進みそうな方向に反対していた私ですから、
逆にじっくりと話を聞きにくるのがホンスジでしょう。

それがなかった、つまり「結論ありき」


私が一貫して主張していたのは「もしも一から見直す
のであれば現状を徹底して見、分析してくれ」
「長所・短所を山口塾の教員に明らかにしてくれ」
「そのうえで、他塾が真似できない山口塾が成功した
ところを活かす改革案にしてくれ」

うすうす塾長の意の正反対だとは思いつつ
言わねばならぬことは黙っているタイプではありません。

「あなたは山口塾を変えると仰っているが、では今まで
塾が成功してきた理由は何だと考えるか、教えてくれ」
コンサルさんは「・・・・」無言です。

しかし、明らかに私一人の孤軍。
他の先生がたは無言。(エライのか、バカなのか)


仕事のマニュアル化であるとか、組織の明確化、など
会社人間であった私からすれば(噴飯)のスローガンで
要は「若返りの推進」を図ろうとしたわけです。

そのこと自体は悪いことではないのですが、もっと上の
プライオリティがあることを気づかなかったのです。

(他者より優れていることの推進)

これは一見従来の「上にいる人間」の固定化に繋がりそうです。
今まで成功してきたのですから。
しかし勿論本当は後に続く若手へのプレゼントです。

虚心坦懐に、まず大切な事は何か、話を聞いてほしかったけれど
あちらが色眼鏡で見ていたのか、噛み合いませんでした。

外の世界を知らない山口塾人間(多勢の講師)は、たまたま成功して
きたことの分析もできなかった。
当たり前に思えたのでしょう。
だから何が一番大切かが分からなかったのです。


ここから始まった塾の「組織化」は多くの苦労とガーベジばかりの
生産を残し、実態は、長所を薄める方向に進んだのです。

授業の劣化。

幸い生徒が強いからなんとか誤魔化せていた・・
先生は二流でも生徒が自分で伸びるのです。

上記コンサルタントは山口の沈下をねらう他塾の回しものでは
ないか、と私には思えるほどでしたね。

余り下がらなかったのは若手の頑張りも大きかったでしょう。
力はまだまだと思えましたけれど。


従来、山口塾を牛耳っていた長老連中は若い有能な先生と
ケンカをするなどと言うことはありませんでした。

良い意味で紳士的に、新体制を協力して作り
各教室長を譲り、気持ちよくサブに回って行きました。

自分たちの「腕」に自信があったし、将来の塾の在り方を
考えてもいたからです。このままではいけない、と。

しかし結果、若い人が力をつけ、生徒を引きぬいて新塾を作った
のですから、みんな甘かったのかもしれません。

私が辞め、一年後くらいの「若者のクーデター」でしたから
本当の様子は分かりませんが、私の退職後にもベテランたちが
「独立」してゆく流れの中で起きたことです。

経営者としては結果として大失敗になってしまった。
一番甘かったのは塾長(恭弘)でしょう。
哲弘先生に任せちゃってたのも含めて。


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