私の下手な俳句作りを例にお話を始めましょう。
自作の句を見ると、表現したかった情景や心情が
ぱっと浮かんできます。
それで、良い出来の句に思えてしまいます。
少なくとも他者に伝わらないなんて思えない(OH・・)
もちろんひどい勘違い。
これを記号を使って説明してみます。
なるべく面倒にしないつもりですのでヨロシク。
Aを見てそれを表現するのにaと書いた積りだけど
実際には似て非なる表現a'を書いているのです。
この間違いに当人はなかなか気づきません。
Aを表現しようとして書いたものだからa’でも
それを見た瞬間に初めのAを想起するのですね。
それが邪魔をするわけです。
Aが浮かぶわけですから、実際に書いたのは本来のa
ではなくa’なのにそれでも十分と思うのですね。
aを書いたつもり=錯覚もあるかもしれません。
a’だぞ、と気づけばaへ修正も可能です。
もっと上手な表現が出来ているかもしれません。
○
夕焼けがキレイであったので俳句を作ろうとしたとき
表現に苦労したあげく「トマトの如き夕日かな」と
ひねったとしましょう。(俳句は捻ると言います)
いくら何でもですが、これが上記のa’です。
これで当人にはくだんの美しい夕陽が浮かぶのです。
そのレベルで止まってしまいますよね。
もっと違う表現を探さねばならないのに自分では
なかなかそのことに気づかないのです。
洒落た表現ができた、程度に思ってしまうのです。
苦笑されているあなた、いやホントなんです。
ことは「創造」だけに限りません。
会社で書く文章にも、理系の論文でもありうる。
(それを防ぐために型どおりの文章で書くのです)
書くことだけではありません。
話すことだって、絵を書くことだって
自分の頭が邪魔をして客観的になれなくなるのです。
(冷静になれない私)は俳人にはなれないわけです。
廃人・・・・
○
表現されたものを読む側も似ています。
Aでa”が浮かぶタイプの人がいるとします。
夕焼けといったらカンザスに限る、なんてね。
「カンザスの草原に沈む夕日はよかった・・」
ドロシーがロスの方向を夢見たかもしれない
農場の夕日。。
そういう人にトマトというとグリーントマトを
思い出してフライにすると案外いけるなんて
感想を持たれてしまうかもしれません。
a’でAを=トマトで美しい夕日を描く、という
のは作者以外には意味がないことかもしれませんね。
aをαと間違えるとか上記以上のミスも起き得ます。
差し出す方にもミスがあり受け取るほうにもミスが
ある、バスの中で耳打ちしながらの伝達ゲームって
やりましたよね。
◎
表現、伝達は上記のように難しいものです。
そこで一生懸命に正確さを追求して沢山のことを
細かく書く人がいます。
読むほうは今度は分らなくなるのですね。
書いているほうは「正確を期している」のだから
読むほうが分らないなんて、つゆ思いません。
もし伝わらないならば読む側に責任がある、くらいに
しか思わないようです。
そんな人は直りませんからね。
文のコツは削ることにあるとよく言われるのは
こういう経緯からではないでしょうか。
けれども削りすぎるとそれはそれで分らなくなる。
按配が難しいですね。
やはり冷静でなくちゃならない。
(もう少し続けますがスミマセン時間切れ)
追伸
カンザスのドロシーって『オズの魔法使い』です。
なお『フライドグリーントマト』はカンザスから
遠く離れた南部アラバマ州でした。
ちょっと勘の悪い文でスミマセン。
景色も違ったよね。
自作の句を見ると、表現したかった情景や心情が
ぱっと浮かんできます。
それで、良い出来の句に思えてしまいます。
少なくとも他者に伝わらないなんて思えない(OH・・)
もちろんひどい勘違い。
これを記号を使って説明してみます。
なるべく面倒にしないつもりですのでヨロシク。
Aを見てそれを表現するのにaと書いた積りだけど
実際には似て非なる表現a'を書いているのです。
この間違いに当人はなかなか気づきません。
Aを表現しようとして書いたものだからa’でも
それを見た瞬間に初めのAを想起するのですね。
それが邪魔をするわけです。
Aが浮かぶわけですから、実際に書いたのは本来のa
ではなくa’なのにそれでも十分と思うのですね。
aを書いたつもり=錯覚もあるかもしれません。
a’だぞ、と気づけばaへ修正も可能です。
もっと上手な表現が出来ているかもしれません。
○
夕焼けがキレイであったので俳句を作ろうとしたとき
表現に苦労したあげく「トマトの如き夕日かな」と
ひねったとしましょう。(俳句は捻ると言います)
いくら何でもですが、これが上記のa’です。
これで当人にはくだんの美しい夕陽が浮かぶのです。
そのレベルで止まってしまいますよね。
もっと違う表現を探さねばならないのに自分では
なかなかそのことに気づかないのです。
洒落た表現ができた、程度に思ってしまうのです。
苦笑されているあなた、いやホントなんです。
ことは「創造」だけに限りません。
会社で書く文章にも、理系の論文でもありうる。
(それを防ぐために型どおりの文章で書くのです)
書くことだけではありません。
話すことだって、絵を書くことだって
自分の頭が邪魔をして客観的になれなくなるのです。
(冷静になれない私)は俳人にはなれないわけです。
廃人・・・・
○
表現されたものを読む側も似ています。
Aでa”が浮かぶタイプの人がいるとします。
夕焼けといったらカンザスに限る、なんてね。
「カンザスの草原に沈む夕日はよかった・・」
ドロシーがロスの方向を夢見たかもしれない
農場の夕日。。
そういう人にトマトというとグリーントマトを
思い出してフライにすると案外いけるなんて
感想を持たれてしまうかもしれません。
a’でAを=トマトで美しい夕日を描く、という
のは作者以外には意味がないことかもしれませんね。
aをαと間違えるとか上記以上のミスも起き得ます。
差し出す方にもミスがあり受け取るほうにもミスが
ある、バスの中で耳打ちしながらの伝達ゲームって
やりましたよね。
◎
表現、伝達は上記のように難しいものです。
そこで一生懸命に正確さを追求して沢山のことを
細かく書く人がいます。
読むほうは今度は分らなくなるのですね。
書いているほうは「正確を期している」のだから
読むほうが分らないなんて、つゆ思いません。
もし伝わらないならば読む側に責任がある、くらいに
しか思わないようです。
そんな人は直りませんからね。
文のコツは削ることにあるとよく言われるのは
こういう経緯からではないでしょうか。
けれども削りすぎるとそれはそれで分らなくなる。
按配が難しいですね。
やはり冷静でなくちゃならない。
(もう少し続けますがスミマセン時間切れ)
追伸
カンザスのドロシーって『オズの魔法使い』です。
なお『フライドグリーントマト』はカンザスから
遠く離れた南部アラバマ州でした。
ちょっと勘の悪い文でスミマセン。
景色も違ったよね。