先日、治水神・禹王研究会の第5回総会・研究大会があり、立命館大学 末川記念会館に出かけました。
5月16日(水)まで同大学 歴史都市防災研究所において、
「 日本の禹王遺跡と治水神・禹王信仰展」がおこなわれており、もちろん今回の大会はそれに合わせて開催されたわけですが、初めての禹王展で貴重な資料を拝見することができました。
会場では『治水神・禹王研究会誌』第5号(治水神・禹王研究会編集・発行、2018年4月1日)を受け取りました。
今号では、昨年10月に行われた「第6回 全国禹王サミットin富士川」参加記を書かせていただきました(32-37ページ)。
参加記のなかで、追加するかたちで、今年2018年1月に古賀さんを頼って九州北部豪雨災害地を訪ね、また古賀河川図書館を訪ねさせていただいたことをかきました。その部分についてはぜひ広く知っていただきたいと思い、ここにそのまま掲載します。
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1−2 緊急報告「2017.7.5〜7.6 九州北部豪雨災害の特徴」古賀邦雄氏
禹王研究に災害研究は必須であるように思われるが、昨年2017年7月5・6日に及んだ九州北部豪雨災害の緊急報告が古賀邦雄氏(古賀河川図書館館長)からあった。
古賀氏の話では、今回の水害は筑後川そのもので起きたのではない。筑後川に入り込んでくる中小河川の氾濫が問題だったという。多くの流木があり、予防もできなかった。川幅5mのところが川幅100mにもなった。筑後川の治水対策に問題はなかったが、中小河川の治水は難しく、その治水対策はできなかったのだという話であった。
この報告を聞き、大変な被害であるということとともに、古賀氏がこの水害に本当に心痛めていることが伝わってきた。しかし実際には、私はこのときその被害と伴う心の痛みが理解できていなかったように思う。
というのは、それから3ヶ月後の2018年1月20日、私は福岡県八女市山内でおこなわれた徐福の祭り「童男山ふすべ」に参加したあと、翌日の飛行機の時間を遅い時間にし、朝のうちに久留米市に移動、古賀氏に筑後川と被災から半年が経った災害現場を、古賀氏のご友人の運転でご案内いただいた。
久留米バスセンターで迎えていただき、筑後川を日田市まで遡った。田主丸の河童像、月光菩薩を見て、そのゆかりを聞きながら上流へ向かった。江戸期に造られた恵利堰、そして水害のときには繰り返しテレビニュースで見た堀川用水の三連水車、改修の進む山田堰、大石堰と古賀氏の名案内で巡ることができた。被災地の朝倉市杷木町赤谷川、そして寒水川は、筑後川沿いの道をそれぞれの川沿いに車を左折させただけで、大変な被害であることがわかった。人がいなかった。山肌をごっそりと削り、一気に駆け下りてきたであろう濁流がまだ家の1階部分を奪っていた。大破した軽トラックがどうしようもなく土砂とともに放置されていた。
これほどに水の力は大きいものかと思った。もう半年なのか、まだ半年なのか。戻らない川の流れを人工的につくっている様子も初めて目にした。ようやく私は古賀氏がどんなにか心痛めていたかを知ることができたのだった。
古賀氏から声をかけていただかなかったら、きっと私は知らないままであったと思う。このいまの姿をもっと多くの方に見ていただきたいと思う。人は水とともに生きるけれど、その水がどれほどの力を持つものなのかを肌で感じる貴重な機会だと思う。
古賀氏について、これは周知のことであろうけれど、古賀河川図書館のことを付しておきたい。以前よりご自宅を私設の河川図書館として開設していることは存じていたが、今回、併せて古賀河川図書館も訪ねることができた。玄関先にも本が出てきてしまうのではないかというほど、玄関から2階に至る階段の両脇まで家の全てが川の本であった。
感心したのはこの1万冊に及ぶ川の本を古賀氏が独自の35種の分類表に基づいて整理しており、ありとあらゆる本が報告書が保管されているということである。最近は海外からの学生の見学も多いということだが、この宝物が宝物として生き続けることができるよう、私たちは見守っていかなくてはいけないと思った。