ほるほる

矢作川のほとりで枝下(しだれ)用水を、
徐福・百済王で中韓日の渡来人伝説を楽しむ
逵(つじ)志保のページです

福良雀と丙午

2011-05-21 15:33:42 | 矢作川研究所
枝下用水120年史編集にむけて、受益地の方々からいろいろな話を聞かせていただいています。
一昨日は金谷のKさん宅を訪ねました。以前からいつでもいらっしゃいとおっしゃっていたので、ではお言葉に甘えてとスタッフのNさんとでかけました。
前日に「明日よろしくお願いします」と電話をすると、「そうそう何年生まれ?生年月日はいつだっけ?」と言われ、「未です」と答えて生年月日をいいました。
Nさんのことも聞かれたので、これはなにか干支にちなんだものが出てきそう!と図々しい予感。

行くと、ものすごく大きなお家で入るとちょっと民芸館なみ?いやそれ以上と思われる土鈴のコレクション。
展示用の御部屋があり、応接間にもショーケースが3つ、Kさんワールドでした。
おつれあいがお菓子をもって登場、つづいてお抹茶をたててくださって・・・。
これはもう土鈴を見に来た観光客気分。
もちろん枝下用水にちなんだ話、戦中の様子などを聞かせてもいただいたんですが、今日の収穫というか
私は自分の生まれ年を間違えていたという事実にぶつかりました。

Kさんは長くお寺で家相や方角を見たりといった職に就いていらしたそうで、
前日の生まれ年を聞いたのはその癖のよう。
「つじさんが未だというのでおかしいなと思っていたら、生年月日を聞いて分かりました」といわれました。
なんでも生まれ年は旧暦で数えるのだそうで、そうなると私は2月2日、節分の直前になるので未ではなく、
悪名高き?丙午になるのだそうです。
「だってねえ、ヒツジな訳ないでしょう。自分で分かるでしょう。つじさん見ていてヒツジっておかしいなあと思ったもの。」・・・それってどういうこと?

というわけで、私はいままで未だと思い込んでいた丙午の44歳なのでした。
ショーゲキ!!!!!

さてさて話は変わり、土鈴をたくさん見せていただいて、それはそれは感激して帰ろうとすると、二人にそれぞれ土鈴のお土産をくださいました。
どうもKさんのイメージする私たちのようなのです。
ちなみにNさんは言ってもなかったのに、大好きな猫ちゃんの土鈴でした。ぴったりで怖いくらい。

私は・・・写真の福良雀です。京都のものだそうですが、どこなんでしょう?
名前の通りしあわせそうでかわいらしい雀の土鈴。枝下用水120年史の完成も暗示してくれているようです。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、福良雀とともに帰ってきました。宝物にします。
コメント (9)
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徐福の縁

2011-05-16 02:49:41 | 徐福伝説
本日、享年101歳の奥野先生のお葬式があり、和歌山県新宮になんとか駆けつけることができました。
新宮駅からとりあえず徐福公園、徐福さんの墓参り。これは徐福関係者のお決まりコースなのか、お墓で神奈川のTさんとお会いし、大阪方面から少し遅れていらっしゃるIさんを駅で迎え、一緒に葬儀場へ歩きました。「徐福3人娘で見送るなんてきっと喜んでくださるわね」とIさん。そう、奥野先生は私たちをそう呼ぶことがありました。

奥野先生ご夫妻の介護を献身的になさっていた滋子さんから、お亡くなりになる日のお話をお聞きしました。当日の朝、いつものように小さく刻んではいたけれども朝食を召し上がり、日課のベットで少し休むところで、ちょっとそのときに様子が変かな?と思いお医者さんをよんだとのこと、そのまま静かに眠るように息を引き取ったということでした。でもあと数か月で100歳の誕生日、滋子さんは「迎えさせてあげたかったわ」とおっしゃっていました。
自由に出回れなくなった奥野先生が、それでもそれからもこんなにたくさんの思い出を残してくださることができたのは、滋子さんがまさに足となって、「徐福が何よりのリハビリなんです」と私たちにつきあってくださったからに他なりません。
本当にありがとうございました。

友人代表で私の徐福研究を本気にさせてくださった山口さんが弔辞を読まれました。お二人の関係は40年ほどになるのでしょうか?奥野先生との二人三脚の長い歴史を改めて知り、数えればわたしもその半分をときにご一緒させていただいてきたこと、思い出すことがあれこれあり、ふと見ると山口さんの手が少し震えているようで、4人目の「息子」としての悲しさが伝わり、そして滋子さんをねぎらう言葉がそこにあったことも、そばにいたからこその言葉と思い、それは大きく歳のはなれた、でも本当に「友人」の送る言葉でした。
きくところによると、お亡くなりになる前夜に「葬儀のときは友人代表でね」と徐福仲間のお祝い会の席で滋子さんから言われたとのこと、それがあっという間に本当になったのだそうです。

たくさんの弔電がありました。そこには徐福関係者が名前を連ね、日本中、そして中国から韓国から届いていました。
戒名は「福翁利導居士」、まさに徐福翁です。

ご配慮いただき、池上正治さんとともに徐福研究者代表として焼香をさせていただいたことに、大いに責任を感じました。
私はいま44歳。徐福の初調査で新宮にきたのが21歳の夏。そこで奥野先生にも出会いました。
人生の半分が徐福です。
先月佐賀の村岡さんを亡くし、奥野さんを亡くし、悲しいお知らせが続きました。

「次の徐福のニュースはきっと楽しいものに!」そう約束して新宮を後にしました。
コメント (1)
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新宮へ

2011-05-15 08:50:54 | 徐福伝説
昨日祖母の四十九日を終え(私は読経の途中で退席)、午後から矢作川の「川会議」。講師としていらしていた研究顧問Fさんのところに突然恩師の訃報がはいり、終了次第、駅まで急いで送りました。
私も今日は葬儀のためにいまから和歌山県新宮市に向かいます。20年以上も前、貧乏大学生は特急に乗らずに急行で新宮市に向かいました。そして市役所のYさんに連れられて、奥野先生のところに行ったのでした。
いつもと違う日帰り旅ですが、それでも熊野古道目的の観光客の楽しそうな車中にいて、しみじみと思うのでした。
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私たちの徐福さん・奥野先生、安らかに!

2011-05-12 23:31:38 | 徐福伝説
大学の講義が終わって枝下用水120年史編集室のある水源事務所に到着した矢先、
新宮のYさんからの電話が鳴りました。
覚悟はしていましたが、この春悲しい別れが続きます。

和歌山県新宮の奥野利雄先生が、2011年5月12日 午前10時35分にお亡くなりになりました。
満99歳だそうです。大往生ですね。
謹んでお悔やみ申し上げます。そして本当にこれまでありがとうございました。

まだ誰も徐福を話さないときに、奥野先生はこつこつと調査を続けていらしたこと、
奥野先生と約束したこと、一緒に出かけたこと、いろんなことを思い出しています。
民俗資料館館長時代からお世話になってきました。

昨夜、不思議なことに中国徐福会会長とそれまで頻繁に連絡をとっていなかったのに、
これからの話をメールでいろいろとしていました。
奥野先生はそんな様子を安心してくださったでしょうか?

通夜葬儀日程は下記の通りです。

通夜   5月14日(土)午後6時30分
葬儀   5月15日(日)午後12時30分

式場   あすか斎苑(新宮市池田1-2-19) 電話 0735-28-0811

喪主   奥野俊彦さま
自宅   こちらに問い合わせください。
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GW中休み

2011-05-02 08:46:40 | シホのホ(雑記帳)
みなさまGWをいかがお過ごしですか?
今日は私は研究所の仕事の日で、これはもう本当に忙しくて、通勤電車の中で書いたものを白目でチェックしています。
私の通う列車はトヨタに向かう人たちと同じです。今日はガラガラで嬉しくもあり、悲しくもあり。
豊田市に到着しました。今日も頑張ります。

写真はワタルの高校のそば、津島の天王公園の藤棚です。野球の応援帰り、ああいいかおりと立ち止まりました。
コメント (7)
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