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2018年11月3日 徐福学習講演会(京都府与謝郡与謝野町)に行ってきました

2018-11-24 15:09:15 | 徐福伝説
2018年11月2日・3日、丹後徐福研究会主催の徐福学習講演会(京都府与謝郡与謝野町)に出かけました。
京都駅から「特急はしだて」に乗り、前に来たのはいつかと思いだしてみると、2011年2月6日に京都府地域力再生プロジェクト支援事業として、丹後徐福研究会主催の講演に呼んでいただいた時以来です。同じ丹後徐福研究会という名称ですが、2011年のときは伊根町・石倉昭重さんが頑張っていらっしゃいました。これまで丹後半島で徐福伝承地といえば京都府与謝郡伊根町であり、新井崎神社であり、石倉さんでした。ですから今回は同じ丹後半島でも初めての伝承地訪問、研究会の方とも初めてお会いすることになったのです。
新生の丹後徐福研究会はこれまでの研究会を引き継ぐかたちで昨年2017年11月に新たに設立・参加を呼びかけ、その年11月3日に「徐福サミットin与謝」を開催し、今年2018年1月に京都府日本中国友好協会、与謝野町日本中国友好協会の会員を中心に設立された新しい集まりです。とはいうものの、ここは度胸、今年は北京から中国徐福会会長・張雲方さん、連雲港から中国徐福会顧問・張良群さんを招いて講演会をおこなうといいます。準備時間も少なく予算も少なかったらしいこの会の、なんとか成功させたいという思いと中国側との調整に入るかたちで準備段階から関わったこともあり、そしてなによりも大きな目的があって、今回、私も出かけてみることにしました。
その大きな目的とは、与謝野町の高野山真言宗 滝山施薬寺で毎年11月3日だけ公開されるという与謝蕪村の「方士求不死薬図」(六曲屏風一双)の絵を見ることです。ここでいう方士とは徐福だということで、どんな絵かは以前から知っていましたが、実物を拝観できると聞いて、行かないわけにはいかないと思ったのです。

11月2日夕方、京都駅から2時間で天橋立駅着。迎えに来てくださった会の方の車で会場・与謝野町温江「かや山の家」へ。公共の宿が出発点のようなのですが、そんな味気なさがない、なんだかとっても素敵な空間で嬉しくなりました。http://www.kaya-yamanoie.com 丹後徐福研究会のみなさん、日本と中国の徐福仲間と丹後地方の美味しい料理を囲んで話が弾みました。宿泊は京都府野田川ユースセンターへ。(ここもとても美味しい朝食で、覚えておこうと思ってわざわざ名前を書き込んでいます。)



11月3日午前、「かや山の家」で徐福学習講演会がおこなわれました。今回、まだ徐福のことを知らないという方が対象と思い、ご講演者のおふたりにはそのことを伝え、中国で、そして徐福の故郷と伝わる連雲港でこれまでどのような徐福を取り巻く動きがあったかをお話しいただくことにしました。

「中国の徐福文化研究」中国徐福会会長・張雲方さん
「連雲港の徐福研究及びその成果」中国徐福会顧問・張良群さん

おふたりのご講演は丹後徐福研究会のみなさんに刺激的だっただけでなく、これまでの活動の背景を知ることにもなり、とても貴重な時間でした。不慣れでもなんとか成功させたいという会の思いに、ご自身たちが長い間尽力し、苦労してきた方々だからこそ応えてくれたようにも思いました。

「かや山の家」での昼食後、念願の高野山真言宗 滝山施薬寺に向かいました。与謝蕪村「方士求不死薬図」(六曲屏風一双)を初めてこの眼で観ることができました。(撮影禁止ですのでこちらをご覧ください。→http://www.town-yosano.jp/wwwg/info/detail.jsp?common_id=2683





以下、祖父から3代目となる二谷住職のお話から
この絵は今から260年前、蕪村が宝暦4-7(1754−57)年に丹後に滞在していたときに描かれたものです。蕪村の40歳ころの作品で、作品としては初期にあたります。この絵の入手経緯はよくわかっていないのですが、蕪村は小さいころ施薬寺に預けられていたそうで、度々ここを訪ねてきたのだそうです。しかし蕪村はあまり生い立ちを語ろうとはしなかったそうです。
「方士求不死薬図」は墨絵に朱が入っている絵で、東西に薬を求めて新井崎に漂着した徐福の話が描いてあるものと思われます。左に子ども2人と徐福。右に子どもと薬と仙人。仙人は薬を持っていて、徐福が仙人に敬意を示しています。徐福のそばにいる子どもは竿に小銭をぶら下げている者と籠を持っている者がいます。仙人のそばにいる子は中国らしく頭を丸めています。薬の番をしているはずが寝入ってしまっています。左に雅号・四明と書かれていますが、印はありません。
明治時代、施薬寺は全焼したのですが、この絵は大きな屏風だったので蔵に入れてあり助かったのだそうです。
施薬寺は桓武天皇の病気を治したということで当時の空霊上人が施薬寺の名前をいただいたそうで、薬師如来があります。1985-86(昭和60-61)年に修復したときに加悦町指定文化財から京都府指定文化財(1986年4月15日)となりました。京都府指定文化財となると公開の義務もあり、当時4回だった公開は今は11月3日の1回にしました。

与謝蕪村ははたしてどこで徐福伝説を知ったのでしょう?なぜここでこの絵を描いたのでしょう。知りたいことはまだまだたくさんあります。そして与謝蕪村が「方士求不死薬図」を描いたことを知らない人、知っていても年に一回11月3日にこの絵が公開されていることを知らない人はたくさんいると思います。私も去年初めて知りました。ぜひ多くの人に知ってもらいたい、そして自分の眼で見てほしいと思いました。



その後、丹後半島の伊根町まで車を出していただき、新井崎神社を再訪しました。中国からおこしになった方たちには徐福伝承地の新井崎神社ぜひ見ておいてほしかったのと、ここまできたのだから石倉昭重さんを訪ねたいと思いました。





新井崎神社は徐福を祭神とした神社です。疫病がこの地で流行っていたとき、徐福が当地に辿り着き人々を救ってくれた、そのために祀られているのだと伝わっています。数年ぶりに訪ねましたが、整備もされており、海側から神社を確認することができました(上の写真、わかるでしょうか、右側の背の高い木の奥に鳥居があります)。また看板の案内文は気の利いた文章で、大切にされているなあと感じました。
ここまできたら石倉昭重さん宅に行かないわけにはいきません。石倉さんはこの地で長く徐福を語ってきた人物です。商工会議所時代には薬用入浴剤「蓬の香」や清涼飲料水「蓬・健康ドリンク・仙丹」を商品化していました。どちらの商品も与謝蕪村の「方士求不死薬図」の絵がパッケージに使われていたので商品名に徐福とは入っていなかったのですが、徐福のこととわかりました。地元の祭でも徐福の仮装をしている姿がインターネット上で出ていましたし、ご自宅の前には「蓬莱庵」と立て札をたて、徐福のことで訪ねてくる方を歓迎していらっしゃいました。



7年ぶりにお会いする石倉さんは92歳、懐かしいとそばによる人たちと、この人が石倉さんかと丹後半島で徐福を語り続けてきたその人に会えたことを喜ぶ方がありました。こういうとき、私はどれほどか沢山の徐福の先輩たちに育ててもらってきたことかと思います。杖をつきながら、それでも訪ねてきた方々に瓢箪や中国で拾ってきた石を土産にくださるところは昔と全く変わっていませんでした。



そうそう石倉さんの娘さんから素敵なイヤリングをいただきました。「よく見て!あずきなのよ」と言われてびっくりしました。この地域で穫れる薦池(こもいけ)大納言がついていました。伊根町で地元の特産を工夫している人たちがいることに感激でした。

みなさんに別れを告げ、車で天橋立駅まで送っていただきました。
駅は外国人観光客でいっぱいでした。夕方発、天橋立駅から「特急はしだて」で京都まで、そこから新幹線に乗り換えて帰宅しました。
ついつい徐福のことでは熊野・新宮に足が向きがちですが、丹後半島のこともきちんと調べなくてはと思いました。
翌日、丹後徐福研究会のHさんからお土産にといただいた新米のなんとも美味しかったこと。美味しいものがあるところに身も心も寄せられてしまう自分に改めて気づきました。

昨日、丹後徐福研究会から電話があり、来年の11月3日には与謝蕪村のこと、そして新井崎神社のことを研究して話してくださいとの依頼がありました。調べなくてはなあと思いながら、伸ばし伸ばしになりがちの私を知っているかのようなお電話で驚きました。

来年11月3日、ぜひ丹後半島でお会いしましょう。
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