ほるほる

矢作川のほとりで枝下(しだれ)用水を、
徐福・百済王で中韓日の渡来人伝説を楽しむ
逵(つじ)志保のページです

日本海から

2016-06-21 22:02:48 | シホのホ(雑記帳)
先日、北の国(ワタル)から毛蟹やホッケやチーズや…母の日、父の日ということで美味しい荷物が届いた。http://blog.goo.ne.jp/horuhorushiho/e/585a269f0a752d1aeb3714282c27c001

そして今日、つれあいの実家から晩に荷物が届くことになっていたので待っていると、実家からの荷物とともに、「おかし」と書いた日本海(サホ)からの荷物が届いた
。「えー、サホが−!」と、いつまでもサホにはハードルが低く、喜々として箱を開ける。


サホなりの演出だそうで、宛名はつれあいのみ。でも開けると父の日と母の日のセットになっていた。
「新潟一番搾り」がはいっていて、箱の「父の日」をきちんと一箱は「母の日」と書き換えているところが細かな芸。そして以前つれあいが従兄弟夫婦からもらって、私に一つもくれないで食べきった、つれあいの大好きなマヨネーズあられ。そしてせんべい好きな私には荒砕き堅焼き煎餅!美味美味!
新潟はおせんべいが充実していて美味しい。
ああまた太ってしまう。

サプライズ好きな我が家は、離れていてもこんなふうに盛り上がっているのでした。


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2016年6月16日 2016中日韓徐福文化象山フォーラム その2

2016-06-19 22:50:29 | 徐福伝説
中国、韓国の徐福関係者とはこんな機会でないとじっくり話すこともできないため、昨夜はあれこれと時間をとられた。そのため、帰国のために荷詰めもできないままに寝てしまったので、5:00起床。それにしても今回もやっぱり荷物が多くなった。いつも中国行きは大きなスーツケースを半分以上は空の状態で持っていく。それでもパンパンになってしまうのだ。今回も相当な量になった。ほとんどが本。たぶん重量オーバー。

8:30から昨日の大会議室で論文検討会。

中国:張良群:中国徐福会副会長、日本:田島孝子:日本徐福協会会長、韓国:金享受:済州徐福文化国際交流協会理事長の3人が順に座長をつとめ、15人の発言があった。一番初めは今回の会場の象山徐福会の代表の方。用意されていたテーマは「徐福東渡と古越文化」だったけれど、昨日の私の発表を受けて、急遽テーマを変え、2012年、あの日の象山でのことを話してくださった。同時通訳のおかげもあって、いかにこの日を迎えることが大変だったか、そして今回、ずっと開催許可がおりないなかで、象山県のある寧波市が日本の奈良、韓国の済州とともに「東アジア文化都市」に2016年選定されたのをチャンスと申請し、やっと開催となったのだと知った。この「東アジア文化都市」の選定というのは日中韓の首脳会議で決まった国際イベントだそうで、選定されると1年間この名義を使って様々な文化イベントができるのだという。そう言われてみればそんなマークが配布物には全てついていた。今日は徐福関係者だけの会だったので話しやすかったこともあると思うが、こうしたこまかな話はこれまで表にならなかっただけに、昨日の私の発言に共感してもらえたことはほんとうに嬉しかった。
それぞれにこの日のために準備してきた発表だからもっと時間を十分に欲しかったと思う。その点では本当に気の毒だった。私は今回、翌日にどうしても外せない仕事が午前中にあり、必ず今日のうちに帰国しなくてはならなかったため、途中で抜けることになっていたのだけれど、同じ時間に抜ける方が多く、結局その時間が閉会になることになり、結果、最後まで聞くことができて心残りがなく有りがたかった。

10:45早い昼食を取り、11:30みなさんに見送られて車で上海浦東空港へ向かう。羽田孜さんの息子・次郎さんと話しているうちに、ほぼ同じ頃に中国に初めてきたことをしり、1985年ごろからの激動の中国を肌で感じてこれたことは自分たちに本当に良かったという話になった。次郎さんもだからこそこうして父の祝辞をわざわざもってきてくれたのだろうと思う。主催者も羽田さんの参加は本当に嬉しそうだった。
上海に入った頃からの高速道路の渋滞はいつものものなのか。隣に座っていた新宮市職員のTさんが「上海ディズニーが今日オープンです」というので、それが本当の理由かはわからないものの、みな納得。今回の大会はいつでも上海ディズニーのオープンの年として覚えられるのがいい。


15:00上海浦東空港着。12日の爆破事件を受けて、空港内にはいるのに2段階「爆破検査」と書かれたところで止められたがなんとか入場。フライトが遅れたものの、中部国際空港からの最終列車に飛び乗ることができ、夜中12:30帰宅。就寝。

みなさん本当にありがとうございました。
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2016年6月15日 2016中日韓徐福文化象山フォーラム その1

2016-06-19 21:49:42 | 徐福伝説
7:00朝食。ようやく参加者の方たちと顔を合わすことができた。
8:15ホテル・黄金海岸大酒店(ホテルの前がビーチというリゾートホテル)を出発し、徐福上陸地、徐福が不老の丹薬をつくるために掘ったと伝わる丹井(井戸)、徐福が象山に滞在したことを伝える唐代の蓬莱観碑(再建)、徐福が2年滞在したと伝わる石屋などを訪ねる。既に2013年に案内いただいたところではあったけれど、今回のために細かな配慮が加えられており、手すりができていたり、道も舗装されていた。
2013年に来た時はまだ内装が完成していなかった施設も綺麗になっており、展示にもかなりお金がかかっていた(私が来たことも既に象山徐福会内ではひとつのできごとにカウントされていて、呆けた顔で聞き取りをしている姿が施設展示や案内パンフレットに紹介されていて、気を抜いてはいけないと思った。)古老から徐福の話を聞くなどの子どもたちに伝えていく取組みも象山では試みられているようで、この日は新たに作られた「徐福講堂」で子どもたちが大きな声で道徳の書物を読み上げていた。

11:00にはホテルに戻り、昼食をすます。

リハーサルもあったので早めに大会議室に行くと、再会の記念写真が続く。会えなかった間に出版した本をサインを入れてプレゼントしてくださる方も多く、感謝感謝。なかでも古くからお世話になっている張良群さんは1950年から2015年の『当代中日韓徐福文化交流図志』(2016年)という写真で見せる徐福交流史の本を出版。そこには私が大学生時代に徐福伝説を知った経緯が紹介され、当時の写真が中国のどなたかから提供されていて驚いた。また古い友人Fさんは先祖が唐代の詩人だったとかで、先祖も徐福のことを唐詩に詠んでいたことがわかり、その詩を収めた本や昔収集したという日本の1936年の『方言』(東京・春陽堂発行)をくださった。どうやって入手したのだろう。


14:00象山フォーラムスタート。司会は地元・寧波テレビ局のアナウンサー。中国の大会の開会式では恒例の現地の役人たちの挨拶のあと、中国徐福会会長・張雲方氏、日本は羽田孜元総理の息子・羽田次郎氏が祝辞代読、韓国は元北京・名古屋総領事の柳洲烈氏が続く。登壇のたびにファンファーレみたいな曲が流れて、大袈裟な感じがしたけれど、この日は最後までこの感じが続いた。

開会式に続いて、2012年の象山大会で予定されていた表彰式がおこなわれた。表彰は3種あり、徐福文化貢献賞の個人賞と団体賞、そして徐福研究優秀論著会長賞=特別賞。私は徐福文化貢献賞個人賞と徐福研究優秀論著会長賞をいただいた。2012年の時には会長賞は各国1人で賞金もあると言われていたので、今回、日本の方たちから「今夜は逵さんのおごりだね−!」なんて声もあったのだけれど、残念、今回は賞金はなかった。でも今後も3年毎に表彰していくという話だったので、ぜひみなさんがんばりましょう。


そのあとホテル前で記念写真を撮り、15:00から基調講演。基調講演はそれぞれ15分程度で、6人が登壇した。
今回の大会の特徴がとてもよくわかるラインナップとテーマだったと思うので書いておきます。
司会:中国:陳勤建:国家非物質文化遺産保護工作専家委員会委員、中国民俗学会副会長、華東師範大学対外漢語学院終身教授
1)中国:羅来興:中国共産党象山県委員会常務委員、宣伝部長「徐福文化の伝承と国際交流の拡大に向けて」
2)中国:姜躍春:中国国際問題研究院世界経済研究所所長、研究員「中日韓の協力を図るチャンスとチャレンジ」
3)中国:劉魁立:中国社会科学院栄誉学部委員、中国民俗学会栄誉会長「地方風物伝説の人的視覚」
4)中国:湯重南:中国社会科学院世界史研究所研究員、博士課程指導教官「徐福東渡と東アジア文化」
5)日本:逵志保:愛知県立大学講師、博士「徐福伝説を中韓日で語り継ぐために」
6)韓国:柳洲烈:韓中投資交流協会諮問大使、徐福国際文化研究協会顧問、韓日協力委員会事務総長、元北京・名古屋総領事「徐福ロード」

今回の特徴は中国民俗学会の方々が徐福の会議に登場したこと。これは今まで全く無かったことだ。中国徐福会は世界文化遺産登録にすすめるには伝説でいくしかないと主張しているが、もう次の段階に入っているのだと理解できた。
日本からも肩書ある人に入ってもらいたかったのではないかと思うけれど、中国徐福会・象山徐福会のみなさんがこうした機会を与えてくださったこと、ただただ感謝しかない。私は今回、2012年に象山で発表することにしていた小論をこの大会がいつか開かれる時まで他では発表しないことにしていたので(開催への願掛け)、当然その話をしようと思っていた。だけれど、主催者からいま一番周りに伝えたいことを原稿にして欲しいと言われ、ならば2012年に尖閣諸島問題で象山大会が期限なしの延期になったこと、当時どのようなやり取りを中国徐福会としたか、その時の主催者の詫び状とともに、当時「徐福縁たより」として私から徐福関係者に連絡した文章を使って、あの時のことをこの大会の席で確認しておこうと決めた。それはきっと今後の徐福伝説を取り巻く交流史に残しておくべきことだと思ったから。

今回、この発言について、あとから日本の方に「よくあの場で言えましたね」と言われたのだけれど、私が徐福関係者だけでなく地方政府の方たちが多くいる前でこの発言をすることについて躊躇しないですんだのには何よりも同時通訳の方たちへの信頼があった。今回もまた北京から4人の国レベルの同時通訳の方たちが乗り込んでくださっていたのだけれど、そのうちリーダーで日中担当のYさん、日韓担当のKさんは私の古くからの友人で、二人は私が発表するときは必ず二人が担当して私の発言を確実に伝えるから、どんなアドリブも大丈夫!と言ってくれていたのだ。それは本当にありがたかった。

18:00基調講演が終わるとすぐにホテルの会議室から離れにある大ホールに移動。「2016中日韓徐福文化象山フォーラムの夕べ「山と海の伝説」」と題して徐福の音楽舞台があった。背面の映像とパフォーマンスに圧倒された。

そのまま円卓での大宴会が始まり、大盛り上がりで散会。
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2016年6月14日

2016-06-15 06:56:38 | 徐福伝説
昨夜、「明朝7時半には出発するから、7時には朝食を食べて!」と聞き取った私は、杭州の超豪華ホテルでの超豪華な朝食を大急ぎで食べて、7時半、荷物を持って部屋を出たら、「さあ朝食に行こうか−」とまだまだのんびりムードのXさん。これだから言葉ができないのは困る。…いや、でも昨日はメモしてくれたよね。予定変更か。
というわけで、8時半に杭州を車で出発。同行の3人との会話が楽しめず、ひたすらおとなしく。
10時、余「女兆」SAでXさんが籠に入った水蜜桃を買ってくれて、みなで食べる。初物だったし、甘かった!

11時前に寧波に到着。ここで青島のSさんと合流。Sさんは主催者側から私が中国語を話せないからとわざわざ合流できるように待っていてくださったのだ。ああ、みなさんいつも本当にごめんなさい。ここからはホッとして、あれこれみなさんと話しながら12時ごろには象山県のリゾート地に到着。


インターネットで天気予報を見た時には最高温度はまだまだ半袖でいいかな?くらいだったのに、ここに来たら暑い暑い。
昼食を終えて周囲を散策。これからリゾート地になりますという感じで、海沿いの回廊など建築中ばかりだった。

ホテルに戻ると次々と各地から参加者が到着していて、挨拶。
何十年にもなる老朋友だから、前より色が白くなったとか(化粧でしょ!)、太ったとか、好き勝手なことを言われる。

夕食は別室に呼ばれてしまったために、日本のみなさんと合流できず。
ただ同じテーブルに集まった人たちを見ると、中国徐福会の方向性が見えてきた。
世界文化遺産登録に向けて、今回の会議はかなり力を入れている模様。
部屋に戻って参加者名簿を確認。
中国民俗学会など、これまで参加のなかったところからの名前が見える。
長年、徐福を伝説として民俗学の立場から捉える必要をほそぼそと言い続けてきた私には、感慨深いものがある。

明日の会議が楽しみになってきた。
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2016年6月13日 上海、蘇州、そして杭州へ

2016-06-14 17:23:50 | 徐福伝説
2012年9月、中国浙江省寧波市象山県でおこなわれる予定だった徐福国際会議が尖閣諸島国有化問題で突然中止になり(私は既に中国に到着していた)、以来、いつか象山県での開催をと願っていたところ、3年9ヶ月を経てようやく開催となった。これは徐福を通した中韓日の民間交流の正式な再開とも言えるように思う。中国徐福会・象山県人民政府から招待状をいただき、現在中国に来ています。

今回、私は先に蘇州に行くことにしました。同じく2012年9月に建築中の徐福記念館の話をきいたまま、まだ見学できていなかったからです。
6月13日、前日の上海浦東空港ターミナルでの爆破事件の影響なのか、中部国際空港から上海行きの飛行機はどれも遅れており、私も2時間遅れで浦東空港に到着しました。物々しい警備を覚悟していたけれど、全くその気配はなく、安心しました。遅れたせいで朝から蘇州市徐福研究会のかたをお待たせし、また、準備いただいていた昼食会もキャンセルとなり、予定を合わせて現地集合してくださっていた方には申し訳ないことをしました。

というわけで目的の千灯徐福記念館に向かいます。「徐福記念館は蘇州の少し田舎につくっています」と聞いていたけれど、上海虹橋空港と蘇州の中間地点といいますからだいぶ蘇州に入る手前です。浦東空港から約100キロ、車で2時間ほどで千灯につきました。
これまで徐福の記念館というと、それだけでいくのにはかなり不便なところという印象がありましたが、ここは「千灯之古鎮」という水郷地帯の古い町並みの観光地で、徐福のことがなかったら来ることもできなかったと思うと、本当にラッキーでした。


千灯徐福記念館は古い町並みのなかにあり、古い民家をそのまま使って展示館にしてあるので、違和感がなく、展示内容にはまだ課題もあるけれど、他にはない、古鎮を観光していたら徐福記念館というのがあって、徐福という人物を知りましたというような出会いを大いに期待できるところでした。


それにしてもなぜ蘇州の千灯という場所に徐福?と思われるかもしれません。2500年もの歴史があるこの千灯、外来の侵略を阻むために北には長城が作られたわけですが、南には防堤が作られたのだそうです。その防堤には土盛がつくられ、その上には遠望台と呼ばれる信号を出すところをつくったのですが、その千個目にあたるところが千「土敦」(トウ=土盛)という地名になったとのこと。ところが文革時代に土盛とは名前が暗いということで明るい漢字を当てて「千灯」になったとのことです。文化大革命にちなんだ名前があちこちにつけられたことは知っていましたが、古い歴史ある地名もそんなふうに変えられていった時代があったんですね。
この千灯に残る徐福伝説は、徐福には8人の子があり、1人はここに置いて行かれ、3人を連れて行った。あとの4人は日本で生まれた子だという話があるとのこと。数回に渡る渡海の5度目の成功はこの地からなんだそうです。
その残された子は姓を王と改め、後の人は始皇帝と徐福を記念して延福寺を建てた(寺名を改めた?)といいます。

私はいま用水の仕事もしているため、古鎮の石畳にも目が行きました。


2072枚もの石畳は南宋時代(1127−1279年)のもので、その下にはいまも排水路が通っていて、石の間から雨水が落ちていきます。日頃、水路は昔ながらのオープンか、効率を考えた暗渠かなんて話をするわけですが、暗渠もこんなに歴史があると十分風情がありました。

それから車で1時間ほどで蘇州市に帰り、蘇州市徐福研究会の事務所(小学校の敷地内の建物の2階を使っています)を訪ね、新旧委員のみなさんが集まってくださって、食事会をしてくださいました。元会長の管正さんは現在84歳。杖をついていらしたけれど、変わらずお元気そうで、他にも懐かしい方々にお会いできて、ほんとうに嬉しく思いました。何年前になるかは忘れてしまったけれど、蘇州市徐福研究会顧問のお話をいただいたとき、まだまだ早すぎると言ったら、そんなことはわかっていると会長に言われ、私への励ましと思ってお引き受けすることにしました。残念ながらまだその名にふさわしい役割をはたすところまではできていないけれど、蘇州市徐福研究会がいろいろな場面でこの地域らしさを出していくことができるよう、これからも応援団をつとめていきたいと考えています。



20時30分、名残惜しくみなさんと記念撮影をし、お見送りいただいて中国徐福会副会長と蘇州市徐福研究会のみなさんと杭州に出発。22時30分、ホテルに着いて就寝。お世話になりました。
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