年齢を意識するようになったのは、70代の半ばからだったように思います。
さまざまな事務的な面での意識はありましたが、昨今のように、「来し方行く末」を意識するようなものではなかった。
もちろん、悲観的に申しているのではありません。ごく素直に、「順番だなァ~」と思ってしまうというだけの話です。
つまり、死は身近な現実です。
だからこそ、「遺影を作ろう!」と思ったりするのでしょうね。
写真は東武動物公園の鯉です。
寒さの中にあっても、格闘技のありさまで、餌を奪い合っています。
年齢を意識するようになったのは、70代の半ばからだったように思います。
さまざまな事務的な面での意識はありましたが、昨今のように、「来し方行く末」を意識するようなものではなかった。
もちろん、悲観的に申しているのではありません。ごく素直に、「順番だなァ~」と思ってしまうというだけの話です。
つまり、死は身近な現実です。
だからこそ、「遺影を作ろう!」と思ったりするのでしょうね。
写真は東武動物公園の鯉です。
寒さの中にあっても、格闘技のありさまで、餌を奪い合っています。
先日、私の遺影を作った。
いままでの経験によれば、「遺影」とは、故人を偲ぶよすがとして、遺された写真の中からそれらしいものを選び、拡大して作るようなイメージがあった。
それが本来なのかもしれない。
しかし私は、前もって自分で選び、自分で作っておこうと思ったのだ。
どうせ作るなら、いっそのこと、写真館で撮影して貰おうということにした。
身辺の整理もせず、遺言書なども作っていないにもかかわらず、写真を作ろうというのだから、順序が狂っているかもしれない。
写真館へ行ったところ、「遺影をお作りになるのですね、かしこまりました」と、あっさり受け止めてくれた。そのようなお客が、増えている様子だった。
受付の女性店員は、「はい、遺影の場合は、かくかくしかじかのケースがございまして………」と、至極手回しがいい。
しかも、本人を前にして、「遺影、遺影、遺影………」を連発し、臆するところや遠慮などはなかった。
「背景はどのようにいたしましょうか?」
「遺影の場合は成人式や七五三などと違うので、地味な傾向をお好みの方や、むしろ華やかな背景がいいとおっしゃる方もいらっしゃいます」
つまり、遺影撮影にかなり馴れている様子なのだ。
撮影技師は40歳なかばほどの男性。
その男性は、いっさい「遺影」という言葉を使わない。
私が「遺影なので………」と言っても、「そのようなポートレートの場合は………」と言い替えて応じてくれる。
彼には彼のこだわりがあったようだ。
そんなわけで、身辺整理などより前に、「遺影」のほうが先に出来てしまった。
死を急いでいるつもりはない。
写真は、12月13日撮影の六義園。
司法試験問題漏洩事件の裁判があった。
問題作成に当たっていた教授が、交際関係にあった教え子に、試験問題を教えたという事案だ。
裁判のニュースを見ていて、おかしくなって少しだけ笑った。
「娘に対するような気持ちになり、なんとか助けてあげたいと思った」
その教授の弁である。
まさか此の期に及んで、「私たちは父娘のような関係です」と言い逃れを言っているとは思えない。
当初、教授はそのように思っていたのではないか。
ところが、男と女の場合、そのような感情がそのまま持続するとは限らない。同情は恋慕に突っ走りかねないのだ。
夏目漱石か誰かのジョークに、「可哀想だってことは、惚れたってことだ」というのがあったが、まさにその通り。
一対一の男女関係において、間合いの取り方は難しい。
同情は危なっかしい淵なのだ。
昭和16年(1941年)12月8日の未明、日本海軍の航空機と潜航艇の真珠湾攻撃により、大東亜戦争が勃発した。
宣戦布告が遅れたため、日本国によるだまし討ちという非難は受けたが、日本側の無線は丸々傍受されていたらしいから、易々と引っかかったという説がないわけではない。
昭和20年(1945年)8月15日、「ポツダム宣言受諾」という形によって、日本は降伏した。
私にとっては、国民学校1年生の冬に戦争が勃発し、小学校5年生の夏休み中に敗戦となった。
その後「極東軍事裁判」が開かれ、事後に設けられた「平和を乱した罪」によって、東条被告ほかの指導者が死刑判決を受け、即刻執行された。
「平和を乱した罪」などの事後法によって裁くなど、勝者が敗者を裁く見せしめ裁判であったが、日本側はその判決を受諾し、昭和27年(1952年)4月28日 に講和条約が発効し、日本は独立を果たした。
以来現在に到るも「極東軍事裁判 (東京裁判)」 史観が我が国の精神構造を支配し続けている。
「東京裁判史観」を盲目的に信じ、「ほんに日本は悪者よのう~」と思いながら、戦後復興に精を出し、国際貢献に努めてきた。
「あの戦争は日本だけが悪かったのです」と言っているだけでは、戦争に駆り出されて散った兵士たちの心に対し、何らの敬意も表せない。
真珠湾攻撃は「だまし討ち」であり、広島、長崎の原子爆弾投下は戦争を早期に終わらせるための『正義」だったのか。
現在における国際社会の状況を見れば、「日本だけが悪かったのです」と詫び続けることの愚かさが分かるではないか。
それにしても、このように欺瞞だらけの国際社会にあって、「よくもここまでやって来たものだ」と思う。
写真撮影の際、露出補正を行うことがある。
カメラの特性として、雪のように白い被写体はグレーに写り、逆に真っ黒もグレーになってしまう。
そのような機能を補正するため、露出補正値を決めてシャッター・ボタンを押している。
その際の補正値については、被写体の明るさや撮影者の意図などによって決めている。
私のような自信のないカメラマンは、幾段階かの補正値を決めて、余分にシャッターを押すことになる。
しかしそれでは終わらない。
黄色に色づいた銀杏を見てシャッターを押したはず。だが、プリントの段階になって、目に焼き付けた美しさがどれだったか、迷ってしまうことがあるのだ。
露出補正値を変えて複数枚を撮影したため、「さっき感動した美しさはどれだっけ?」と、頼りない迷いかたをするのだ。つまり目移り。
現実よりも美しいものを求めてしまうのかなァ。
写真は六義園の銀杏。あの日の美しさとは違う。このように濁った色ではなかったはずなのに。
今日は12月8日。大東亜戦争(アメリカは太平洋戦争と言っているが)が始まった日だ。
あの日の朝の昂奮は、今も覚えている。