味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

細行を矜まざれば、終に大徳に累せん。

2015-07-26 10:21:46 | ブログ
第2401号 27.07.26(日)
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細行を矜(つつし)まざれば、終に大徳に累せん。『書経』
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 小さい行ないでも、それを慎まないと、しまいには大きな道徳をこわすことになる。(召公のことば)213
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 【コメント】上の『書経』の訓戒はまさしくその通りだと思います。〈しまいには大きな道徳をこわすことになる〉というよりか、「こわすこともある」ということだと思います。要は念には念をいれろということでしょう。
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 ところが多くは、事故をしてはじめて目が覚めるという人が多いようです。
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 二十年位前のこと。電電勤務を退職して後、請負会社に招聘されて勤めたことがありました。工事の作業現場は大分でした。工事終了後、大分の工事現場の機材・器具等々を鹿児島に持ち帰ることになりました。
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 大型トラックに機材・器具等々を積み込み、途中で落ちないようロープで括りました。それは安全選任者がしました。その後私は、ロープ二本を追加してくくりました。そうしたら安全選任者が、何故そこまでするのか、と私に苦言を呈しました。
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 大分から鹿児島までは6時間を要するのです。途中で物を落としたら大変なことになるからだといって、安全選任者を説得したのでした。ロープ二本を追加したといっても30分しかかからないのです。万一、高速道路で事故を起こしたら小さな会社は事業運営が出来なくなるのです。とにかく念を入れるに越したことはないのです。
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 今日、空手道指導のため、北麓公民館を使用させて戴いています。ここは薩摩の郷中教育が行われていた「清渓学舎」という所です。私の詩吟道師匠。竹下一雄先生が、「清渓学舎」で『南洲翁遺訓』を教え広めてくださいというのが遺言だったのです。竹下先生は、西郷さんが好きでしたが、菅臥牛先生を殊の外尊敬していました。
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 「清渓学舎」使用については17年目に入りました。毎月の使用料支払いと同時に、使用状況を綿密に記した報告書を提出しています。現在の町内会長さんが、報告書をみて唸っていました。これが信頼関係を維持することになるのです。

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『大学味講』(第238回)
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   味  講
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 (一) 楚の国のことを書いた書物にこの語があるのを引用して、国を治めるには、財宝よりも善人が宝であることを説いたのでありますが、その物語はなかなか味があるものであるから、ここにその概要を紹介することと致しましょう。
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 (二) 楚の国の王孫圉という大夫が、国の使節として晋の国に行った。そこで晋の国王定公が、その歓迎の宴を催してこれを歓待したが、その時、その接待役になったのが趙簡子という人物である。ところがこの趙簡子が、いささかおっちょこちょいで、大いにおめかしをして、服にありったけの玉を飾りつけ、それを自慢げにサクサクと鳴らしながら国賓王孫圉の接待にあたったのである。そして
「貴国には「白珩」というすばらしい玉があるということを聞いておりましたが、それが今でもおありですか」
と、内心は自分の衣服に飾ってある玉を自慢しながら聞いたのである。ところがこれに対して王孫圉は
「はい、あります」
と軽くあしらったのであるが、趙簡子はわが意を得たりとばかり
「それは定めし立派なものでしょうね。一体どういうものですか」
と、眼中、王以外のものなしという有様である。

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『論語』(第338回)
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 子曰はく、徳ある者は必ず言あり。言ある者必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり、勇者必ずしも仁あらず。
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 孔子が言うには、「徳のある人には必ず善い言葉がある。なぜならば、心中に蓄積された盛徳がおのずから外にあふれ出て言葉となるからである。善い言葉のある人が必ずしも徳の有る人ではない。言葉は其人の真情から出るものばかりとは限らず、口先のみのこともあるからである。仁者は必ず勇者である。なぜなら心に私心なく正義を断行するからだ。しかし勇者は必ずしも仁者ではない。なぜなら勇には正義によらぬ血気の勇もあるからである。」
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『農士道』(第217回)
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 楊子は「其の然る所以を知らずして然るのを命といふ」といっているが、以上の「境遇」及「性質」の決定こそは實に「命」なのである。吾々が此の世に孤孤の第一声を挙げたその時、(厳密にいへ母胎に宿りしその時)既に必然の「命」の上に置かれてゐるのである。否「命」そのものとして生まれて来たのである。斯くて生命は天命である。(天は絶対を意味する。天命とは絶対なる命の謂である。)従って尊き必然であり、尊き拘束である。吾々は先づこの「命」の必然を明確に自覚せねばならぬ。汝の境遇は如何。汝の稟性は如何。吾々は先づ「汝自身を知る」ことが第一である。熟々思ふに、この「命」は各人全く唯一無二にして全然相同じきものは決して二つと存しない。如何に相類似せる二人の命と雖も、其の時に於て、其の處に於て、其の関係に於て、全然相同じきものは決して存しない。全宇宙を通じて幾千萬億の人間が生るるも、我と全くその「命」を同じうする者は一人もあり得ない。
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清明、躬に在れば、気志神の如し。

2015-07-25 12:04:32 | ブログ
第2400号 27.07.25(土)
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清明、躬に在れば、気志神の如し。『礼記』
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 身に、清らかで明らかな心を保っていれば、その志気は神のような働きをする。大いなる仕事をなすには、心をきれいにしなくてはならない。(孔子のことば)
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 【コメント】上の『礼記』の言葉はまさしくそのとおりだと思います。心をきれいにとは具体的にどういうことかと聞かれたら、『南洲翁遺訓』の精神のとおりですです、と答えればいいと思います。
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 昨夕は海江田愛実嬢がサッカーのし過ぎでしょうか、足と腰が痛い痛いというものですから、健康スポーツランドに温泉治療につれて行きました。私は左肩が痛くなった4年前、温泉治療で治癒したのでした。ただ、急によくなるというわけけではないので、ゆっくり治療をするようお勧めしました。
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 今朝の学問館は谷山小学校6年・竹之内君も来てくださいました。
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 学問館の教材は、
 1.幻の講話 第三巻 第二十五誥 特殊の才能を持つ女性に
 2.当下一念
 3.感性が理性を超克する瞬間
 4.立腰教育で日本の未来を照らす
 5.盛衰の原理
 6.立志照隅----等々でした。
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 〈石巻には港を見下ろす丘に大きな神社がある。その祭りを町を挙げて祝っていた。海を見晴らす丘に海神を祀るのはギリシャも日本も同じだが、ギリシャの神ははげ山の中の遺跡と化している。しかし、日本の神は豊かな鎮守の森に包まれて社に鎮座し、住民がこぞって祝っている。「古代ギリシャ文化はもはや死んでしまったが、古代日本文化はいまもまさに生きているのです。」
 この事実は何を物語るのか。ギリシャ神話は有名だが、神々の系譜は神話の中だけで完結、断絶し、いま繋がってない。これに対して日本は、天照大神の系譜に繋がる万世一系の天皇という具体的な存在を軸に、我われの先祖は目に見えないもの、人知を超えたものを畏敬し、尊崇する心を、二千年以上にわたって持ち続けてきた、ということである。
 目に見えないものへの畏敬、尊崇の念は、自らを律し、慎む心を育んでいく。
 「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らむ」という心的態度はこの国に住む人たちに共通した価値観となって定着した。言いかえれば、私たの先祖は「自反尽己」に生きたのだ。自反とは指を相手に向けるのではなく、自分に向ける。すべてを自分の責任と捉え、自分の全力を尽すことである。そういう精神風土を保ち続けたところに、この国の繁栄の因がある。〉「盛衰の原理」(2011-1 致知)
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『大学味講』(第237回)
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   第八節 善以て宝となす
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 楚書に曰く、楚国は以て宝と為す無し。惟善以て宝と為すと。
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 註 釈
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 善以て宝と為す=善人を以て宝という意味である。
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『論語』(第337)
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 子曰はく、邦道あれば、言を危(たか)くし行ひを危くす、邦道なければ、行ひを危くし言孫ふ。
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 孔子が言うには、「国が治まって道が行われている場合には、正しいと信ずる所を遠慮なく言い断固として行う。国が乱れて道が行われていない場合には、正しきを行うべきは少しも変りがないが、言葉は当たり障りがないよう注意せねばならぬ。」
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『農士道』(第216回)
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 遺伝の法則といふやうな模型的算式で之等を説明し尽したと誇り居る者は暫く措く。苟も之を自己直接の問題として深思する時、果して疑いなきを得るであろうか。我を何故にこの「境遇」の上に置きてこの世に送り出せしか、我に何故にこの天稟の「性質」を與へて此の世に生れ出でしめしか、そは思うことの切なれば切なるほど、誠に摩訶「不可思議」である。
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民の欲する所は、天必ず之れに従う。

2015-07-24 10:11:15 | ブログ
第2399号 27.07.24(金)
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民の欲する所は、天必ず之れに従う。『左伝』
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 天は必ず人民の望みに従うものである。(『書経』大誓)260
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 【コメント】真理を会得したという中村天風を学んで20年になります。人々の思いは宇宙霊と微妙に応酬すると言っています。総てを盲信しているわけではありませんが、〈天は必ず人民の望みに従う〉というよりか、天風が言う、微妙に応酬するという方がいいような気が致します。
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 思うに『南洲翁遺訓』をお手本とし、私がブログでご紹介している『大学味講』等を参考にした方がいいと考えます。とにかく漢籍を繙くことだと思います。

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『大学味講』(第236回)
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 (二) これはつまり、天子が財政についても、道に随ってこれを行えば、天子の位に居られるが、民意に反しても、財貨を取り立てることだけに走れば、天子の位を失うに至るものであるというので、この章を引用したものであります。
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 (三) これを現代に即していえば、政界なり、財界なりの首脳者が、不善の金を懐にして私腹を肥やすようなことをすれば、その位にいることが出来なくなると、いうことになるでありましょう。
 かくてこの章も、「徳は本なり。財は末なり」を説明したものであります。

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『論語』(第336)
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 子曰はく、士にして居を懐(おも)ふは、以て士と為すに足らざるなり。
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 孔子がいうには、「いやしくも士たる者は、道を以て天下を経営する志がなくてはならな。家庭の安逸を懐かしみ恋しがるようでは、まだまだ士と謂うにはほど遠い。」
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 解説を紹介して思うには、士たる第一人者は私の詩吟道師匠・竹下一雄先生その人でした。天下国家を論じ、自分の内のことはそっちのけでした。その次は西郷南洲顕彰館初代館長・児玉正志先生でありました。
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 荘内では長谷川信夫先生なのでしょうね。現代では。高木先生。

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『農士道』(第215回)
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 士とは所謂義理を行ふもの、道徳的行為の主体たるものを指すのである。換言すれば物の奴隷たらず、情慾の馬猿たらざる、真に自律自由なる人格者の謂に外ならない。外物(食色、名利、位祿等王陽明の所謂躯骸上の欲念)によって、池表の萍の如く、東より風吹けば西に流れ、西より風吹けば東に流るるやうな自律なきものにならぬことである。この人格の自由無碍の活動については少しく深く内省して見たいと思う。
  抑も人間には皆與えられた「境遇」といふものがある。
   汝は何故に牛馬として生まれないで、人間として生まれたか。
   汝は何故に外国人として生れないで、日本人として生まれたか。
   汝は何故に他家に生れないで、汝の家に生れたか。
   汝は何故に他の父母を父母とせず、汝の父母を父母として生まれたか。
   汝は何故に男子(若しくは女子)として生まれたか。
   汝は何故に長男(若しくは二三男)として生まれたか。
私は上の関係を概括して「境遇」といふが、何人か果してこの與えられた境遇の「何故に?」に、所謂科学的に明確な解答をなし得るものぞ。
  更に吾々は天稟の゛性質」てふ不可思議のものがある。
   汝は何故に斯くの如き体質を有して生れたか。
   汝は何故に斯くの如き性質を有って生まれたか。
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之れを聴くに耳を以てするなくして、之れを聴くに心を以てせよ。

2015-07-23 10:06:49 | ブログ
第2398号 27.07.23(木)
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之れを聴くに耳を以てするなくして、之れを聴くに心を以てせよ。『荘子』
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 物事は、耳で聴かずに心で聴くことだ。(孔子のことばとして引用)
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 耳という感覚器官だけで心が働かないならば、音声は受けとめえても、本当の意味内容はわからない。
 しかし、心で聴けてもまだ十分ではない。気をもって聴く必要がある。気とは、そのときの空気、そのときのようすであり、心をむなしくした場合にのみ気をもって聴くことができるのである。
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 〈参考〉之れを聴くに心を以てするなくして、之れを聴くに気を以てせよ。聴くは耳に止まり、心は符に止まる。気なる者は、虚にして物を持つ者なり。

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 【コメント】参考になる訓戒だと思います。〈心をむなしくした場合にのみ気をもって聴く〉ことができても、その受け取り方、判断を常識的に捉え対処・措置しようとするならば、そこに何らかの素地、いわゆる学問により修得したものがなければならないと思います。 
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 どんな良い提案でも幼児には理解できないのです。日々に精進する姿勢・行動がなければならないのです。
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 新婚の新妻が夫婦間のトラブルにより夫に殴られ蹴られした後、「夫を殺します」という悩みを打ち明けてきた場合、あ、そうですか、お好きなように、というわけには行かないのが普通ではないでしょうか。
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 ところが夫側の両親は全く危機感がないようなのです。特に世間体が悪いとかいうことで。万一、殺人事件でも発生してからではどうしょうもないのです。
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 そういう事象が耳に入ってこなければ、人様のことだから、無関係でもよいのですが。困ったものです。

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 連日いろいろなニュースが飛び込んできます。特にオリンピック会場建設問題もそのひとつです。件の責任者は迷惑をしているという言葉を発しましたが、多くの国民は、迷惑以上の心痛を覚えているのではないでしょうか。
 菅原兵治先生がご健在であれば、2600億円の費用について何と仰せになるでしょう。
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 7月19日のブログで『大学味講』の言葉を取上げ、〈「徳本財末」の真理に帰り〉と書きました。大戦後70年、「財本徳末」の思想がまかりとおり、ギリシャだけに止まらず、大変なことになっています。これも天が描いたシナリオなのでしょうか。
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 菅原先生は、「私どもはここに決然として「徳本財末」の真理に帰り、正しい「徳」こそが、正しい「利」をもたらすものであるという、大学の道を明らかにする時ではないでしょうか。」という論に謙虚に耳を傾けなければならないと思います。

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『大学味講』(第235回)
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  第七節  惟れ命常においてせず
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 康誥に曰く、惟れ命常に干(おい)てせずと。善なれば則ち之れを得、不善なれば則ち之れを失ふを道(い)ふ。
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   味 講
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 (一) 書経の康誥の篇に「ただ命、常に干てせず」という語があるが、その意味は「天が天子に命を下して万民を治めさせるが、その命は永久不変のものではない。その天子の政治が善であれば、天命を受けていることが出来るが、もしその政治が不善であれば、それを失うものである」というのであります。
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『論語』(第335)
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 「克伐怨欲行はれざる。以て仁と為すべし。」子曰はく「以て難しと為すべし、仁は則ち吾知らざるなり。」
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 原憲がさらに孔子に尋ねた。「克(他に勝つことを好むこと)伐(自分がすぐれていると誇ること)怨(忿り恨むこと)欲(貪って厭き足りないこと)の四つが心に起ろうとするのを制して行われないようにするのは仁ということができましょうか。」孔子「こういう感情を制することは困難であるが、仁であるかどうだか私は知らない。」
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『農士道』(第214回)
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     第二節  士------命、志、道
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 「士」----斯くいへば普通一般の人は直ちに「さむらひ」即ち「武士」の事と思ふであらう。然しこは言語の偶像に惑わされてゐるともいふべきものであって、少しく考へを深むれば士と称するものは必ずしも武士のみに限るべきでないことに直ちに気付くであらう。
 試みに現代私共の日常「士」と称してゐるものを挙げて見るも、曰く「文士」曰く「学士」曰く「博士」曰く「禅士」曰く「居士」曰く「弁士」曰く「大議士」曰く「弁護士」----。文に属する方面にも随分「士」と称するものがあるではないか。故に用例よりいうも「士」は決して「武士」のみの謂ではないことが明らかであろう。況や東洋古典を味読して「士」とは何ぞやという問題に触れる時など、特にその然るを覚えるであろう。
 我邦に於て「士」即「武士」と解するやうになったのは、主として鎌倉時代以後の武家政治時代になってからの事である。私共は「武士」以前に遡って「士」の本質を思弁するの要があるではないか。

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其の過ちを告げざるは忠に非ず。

2015-07-22 09:48:33 | ブログ
第2397号 27.07.22(水)
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其の過ちを告げざるは忠に非ず。『近思録』 
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 相手に間違いがあった場合、それを忠告しないのは、こちらのまごころがないことである。(程明道のことば)301
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 【コメント】人の間違いをただす場合、ストレートに言ってよい場合もあるし、婉曲に傷つかないように言った方がよい場合もあるし、その時と、相手の人物にもよると思います。
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 昨日の『大学味講』の所でも書きましたが、〈志の不渡り手形であったり、立志の遊戯〉と見られるような言動では駄目だと思います。後々、筋がとおっていた、言動に清々しさがあった、心に清明さが残るようでありたいものです。

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『大学味講』(第234回)
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 (二) ですから、それは「売り言葉に買い言葉」という諺があるように、----たとえば、こちらが「馬鹿野郎」といえば、相手も「なに、この畜生」といってくるように----道に反した言葉をこちらの口から出せば、相手もそれに応じて、道に反した言葉を以て応じてくるので、それがこちらの耳に入るように、財貨もまた同様に道に反したことをして入ってきたものは、道に反したことによって出ていくものであります。
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 (三) これは国のことなので、一般の人達にはちょっと分りにくいでありましょうから、民間のことで考えてみましょう。ある商店で誇大広告を出して宣伝して、インチキ商品を売って莫大の利益を得たとする。しかしそれがバレるとだまされた客が承知しない。そこで怒ってどなりこんだり、訴訟をしたりして、捧腹するので、一時はだまかして入ってきた金も、「亦悖って出づ」で、なくなってしまうものだ、ということ----つまり「悪銭身につかず」ということ----と解してよいでありましょう。

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『論語』(第334)
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 憲恥を問ふ。子曰はく、邦道あるに穀し、邦道なきに穀するは、恥なり。〔憲問第十四〕
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 原憲(げんけん)が何が恥ずべきことであるかを孔子に問うた。孔子「君子は固い節操のあることを貴ぶが、最も事を行う才のあることを貴ぶ。国に道の行われている時は俸禄を受けるのは恥ではないが、邦に道の行われていない場合に、いさぎよく退くことが出来ないで、むなしく祿をはんでいるのは恥ずべきことである。」
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『農士道』(第213回)
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 孔子は「學に志した」その志のために、彼の一生を惜しげもなく提供して、甘んじて「粗食を飯ひ水を飲み肱を曲げて之を枕とする」生涯の中に樂んでゐるではないか。三十にして我立てりとか、四十にして惑わずとかいってみるが、人生実際の険岨につき當ると、未だ「志」すらも立っていなかったことに自ら狼狽し転倒することのあるを見ても、真個の「立志」といふことが如何に真剣なるべきもの、命がけのものたるべきかを知り得るであろう。
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 「立志」は実に人生の開眼である。これあるが故に人間が人格(格は「ただす」である。私共が「志」によって個々の欲求群の是非を格して判断選擇して行く力が即ち「人格」である。)として生き得るのである。「志」は人生に斯くも切要である。而して志とは前述の如く「士たる心」である。かるが故に私共が人生観を確立せんとするにはどうしても先づこの「土」とは何ぞやの問題につきて慎思し、明弁する處が無ければならぬ。
 
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