第2399号 27.07.24(金)
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民の欲する所は、天必ず之れに従う。『左伝』
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天は必ず人民の望みに従うものである。(『書経』大誓)260
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【コメント】真理を会得したという中村天風を学んで20年になります。人々の思いは宇宙霊と微妙に応酬すると言っています。総てを盲信しているわけではありませんが、〈天は必ず人民の望みに従う〉というよりか、天風が言う、微妙に応酬するという方がいいような気が致します。
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思うに『南洲翁遺訓』をお手本とし、私がブログでご紹介している『大学味講』等を参考にした方がいいと考えます。とにかく漢籍を繙くことだと思います。
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『大学味講』(第236回)
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(二) これはつまり、天子が財政についても、道に随ってこれを行えば、天子の位に居られるが、民意に反しても、財貨を取り立てることだけに走れば、天子の位を失うに至るものであるというので、この章を引用したものであります。
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(三) これを現代に即していえば、政界なり、財界なりの首脳者が、不善の金を懐にして私腹を肥やすようなことをすれば、その位にいることが出来なくなると、いうことになるでありましょう。
かくてこの章も、「徳は本なり。財は末なり」を説明したものであります。
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『論語』(第336)
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子曰はく、士にして居を懐(おも)ふは、以て士と為すに足らざるなり。
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孔子がいうには、「いやしくも士たる者は、道を以て天下を経営する志がなくてはならな。家庭の安逸を懐かしみ恋しがるようでは、まだまだ士と謂うにはほど遠い。」
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解説を紹介して思うには、士たる第一人者は私の詩吟道師匠・竹下一雄先生その人でした。天下国家を論じ、自分の内のことはそっちのけでした。その次は西郷南洲顕彰館初代館長・児玉正志先生でありました。
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荘内では長谷川信夫先生なのでしょうね。現代では。高木先生。
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『農士道』(第215回)
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士とは所謂義理を行ふもの、道徳的行為の主体たるものを指すのである。換言すれば物の奴隷たらず、情慾の馬猿たらざる、真に自律自由なる人格者の謂に外ならない。外物(食色、名利、位祿等王陽明の所謂躯骸上の欲念)によって、池表の萍の如く、東より風吹けば西に流れ、西より風吹けば東に流るるやうな自律なきものにならぬことである。この人格の自由無碍の活動については少しく深く内省して見たいと思う。
抑も人間には皆與えられた「境遇」といふものがある。
汝は何故に牛馬として生まれないで、人間として生まれたか。
汝は何故に外国人として生れないで、日本人として生まれたか。
汝は何故に他家に生れないで、汝の家に生れたか。
汝は何故に他の父母を父母とせず、汝の父母を父母として生まれたか。
汝は何故に男子(若しくは女子)として生まれたか。
汝は何故に長男(若しくは二三男)として生まれたか。
私は上の関係を概括して「境遇」といふが、何人か果してこの與えられた境遇の「何故に?」に、所謂科学的に明確な解答をなし得るものぞ。
更に吾々は天稟の゛性質」てふ不可思議のものがある。
汝は何故に斯くの如き体質を有して生れたか。
汝は何故に斯くの如き性質を有って生まれたか。
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民の欲する所は、天必ず之れに従う。『左伝』
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天は必ず人民の望みに従うものである。(『書経』大誓)260
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【コメント】真理を会得したという中村天風を学んで20年になります。人々の思いは宇宙霊と微妙に応酬すると言っています。総てを盲信しているわけではありませんが、〈天は必ず人民の望みに従う〉というよりか、天風が言う、微妙に応酬するという方がいいような気が致します。
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思うに『南洲翁遺訓』をお手本とし、私がブログでご紹介している『大学味講』等を参考にした方がいいと考えます。とにかく漢籍を繙くことだと思います。
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『大学味講』(第236回)
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(二) これはつまり、天子が財政についても、道に随ってこれを行えば、天子の位に居られるが、民意に反しても、財貨を取り立てることだけに走れば、天子の位を失うに至るものであるというので、この章を引用したものであります。
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(三) これを現代に即していえば、政界なり、財界なりの首脳者が、不善の金を懐にして私腹を肥やすようなことをすれば、その位にいることが出来なくなると、いうことになるでありましょう。
かくてこの章も、「徳は本なり。財は末なり」を説明したものであります。
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『論語』(第336)
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子曰はく、士にして居を懐(おも)ふは、以て士と為すに足らざるなり。
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孔子がいうには、「いやしくも士たる者は、道を以て天下を経営する志がなくてはならな。家庭の安逸を懐かしみ恋しがるようでは、まだまだ士と謂うにはほど遠い。」
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解説を紹介して思うには、士たる第一人者は私の詩吟道師匠・竹下一雄先生その人でした。天下国家を論じ、自分の内のことはそっちのけでした。その次は西郷南洲顕彰館初代館長・児玉正志先生でありました。
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荘内では長谷川信夫先生なのでしょうね。現代では。高木先生。
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『農士道』(第215回)
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士とは所謂義理を行ふもの、道徳的行為の主体たるものを指すのである。換言すれば物の奴隷たらず、情慾の馬猿たらざる、真に自律自由なる人格者の謂に外ならない。外物(食色、名利、位祿等王陽明の所謂躯骸上の欲念)によって、池表の萍の如く、東より風吹けば西に流れ、西より風吹けば東に流るるやうな自律なきものにならぬことである。この人格の自由無碍の活動については少しく深く内省して見たいと思う。
抑も人間には皆與えられた「境遇」といふものがある。
汝は何故に牛馬として生まれないで、人間として生まれたか。
汝は何故に外国人として生れないで、日本人として生まれたか。
汝は何故に他家に生れないで、汝の家に生れたか。
汝は何故に他の父母を父母とせず、汝の父母を父母として生まれたか。
汝は何故に男子(若しくは女子)として生まれたか。
汝は何故に長男(若しくは二三男)として生まれたか。
私は上の関係を概括して「境遇」といふが、何人か果してこの與えられた境遇の「何故に?」に、所謂科学的に明確な解答をなし得るものぞ。
更に吾々は天稟の゛性質」てふ不可思議のものがある。
汝は何故に斯くの如き体質を有して生れたか。
汝は何故に斯くの如き性質を有って生まれたか。
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