味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

其の過ちを告げざるは忠に非ず。

2015-07-22 09:48:33 | ブログ
第2397号 27.07.22(水)
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其の過ちを告げざるは忠に非ず。『近思録』 
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 相手に間違いがあった場合、それを忠告しないのは、こちらのまごころがないことである。(程明道のことば)301
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 【コメント】人の間違いをただす場合、ストレートに言ってよい場合もあるし、婉曲に傷つかないように言った方がよい場合もあるし、その時と、相手の人物にもよると思います。
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 昨日の『大学味講』の所でも書きましたが、〈志の不渡り手形であったり、立志の遊戯〉と見られるような言動では駄目だと思います。後々、筋がとおっていた、言動に清々しさがあった、心に清明さが残るようでありたいものです。

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『大学味講』(第234回)
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 (二) ですから、それは「売り言葉に買い言葉」という諺があるように、----たとえば、こちらが「馬鹿野郎」といえば、相手も「なに、この畜生」といってくるように----道に反した言葉をこちらの口から出せば、相手もそれに応じて、道に反した言葉を以て応じてくるので、それがこちらの耳に入るように、財貨もまた同様に道に反したことをして入ってきたものは、道に反したことによって出ていくものであります。
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 (三) これは国のことなので、一般の人達にはちょっと分りにくいでありましょうから、民間のことで考えてみましょう。ある商店で誇大広告を出して宣伝して、インチキ商品を売って莫大の利益を得たとする。しかしそれがバレるとだまされた客が承知しない。そこで怒ってどなりこんだり、訴訟をしたりして、捧腹するので、一時はだまかして入ってきた金も、「亦悖って出づ」で、なくなってしまうものだ、ということ----つまり「悪銭身につかず」ということ----と解してよいでありましょう。

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『論語』(第334)
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 憲恥を問ふ。子曰はく、邦道あるに穀し、邦道なきに穀するは、恥なり。〔憲問第十四〕
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 原憲(げんけん)が何が恥ずべきことであるかを孔子に問うた。孔子「君子は固い節操のあることを貴ぶが、最も事を行う才のあることを貴ぶ。国に道の行われている時は俸禄を受けるのは恥ではないが、邦に道の行われていない場合に、いさぎよく退くことが出来ないで、むなしく祿をはんでいるのは恥ずべきことである。」
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『農士道』(第213回)
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 孔子は「學に志した」その志のために、彼の一生を惜しげもなく提供して、甘んじて「粗食を飯ひ水を飲み肱を曲げて之を枕とする」生涯の中に樂んでゐるではないか。三十にして我立てりとか、四十にして惑わずとかいってみるが、人生実際の険岨につき當ると、未だ「志」すらも立っていなかったことに自ら狼狽し転倒することのあるを見ても、真個の「立志」といふことが如何に真剣なるべきもの、命がけのものたるべきかを知り得るであろう。
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 「立志」は実に人生の開眼である。これあるが故に人間が人格(格は「ただす」である。私共が「志」によって個々の欲求群の是非を格して判断選擇して行く力が即ち「人格」である。)として生き得るのである。「志」は人生に斯くも切要である。而して志とは前述の如く「士たる心」である。かるが故に私共が人生観を確立せんとするにはどうしても先づこの「土」とは何ぞやの問題につきて慎思し、明弁する處が無ければならぬ。
 
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