味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

克くせずと曰うこと罔れ。

2015-07-03 13:49:10 | ブログ
第2378号 27.07.03(金)
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(よ)くせずと曰うこと罔(なか)れ。『書経』
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 「自分にはこれはできない」などといってはいけない。みずから棄ててはいけない。常に真心をこめてやることだ。(康王のことば)218
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 【コメント】3日、只今午後2時です。天候不順でしたが、枕崎まで、お墓参りに行ってきました。
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 私は何も出来ないのですが、兎に角やってみようということで、実践しています。昨夜の空手道指導の時、子どもたちに、今の成績が劣ってもやり続けなさい、その内に相手がくたばるのです。その時、相手がくたばってもそれを喜んではいけません。お気の毒にという気持ちは抱いてくださいとお話しました。
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 私は先ず自分からは棄てないし、何時も真心をこめて一所懸命やっています。だから元気なのだと思います。
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 自宅に帰りついたら、同窓会の通知が届いていました。枕崎へ行く道々家内と帰りついたら、同窓会の通知が届いているだろうなと話しながら行きましたら、感があたりました。長井先生、有り難うございました。

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『大学味講』(第215回)
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   味  講
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 この詩も、ここでは「矩の道」の実証として解すべきでありましょう。国がよく治まり、民も安らかに暮らしているのを見て、いかにも楽しげな君子は、「民の父母」として政を行っているからである。では「民の父母」とは何かというと、それは「民の好む所は之れを好み、民の悪む所は之れを悪む」ことであるというのであります。
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 これは、一見いかにも簡単なことで、そんなことは誰でも知っていることではないか、というでありましょうが、ところが実際になると、この誰にもわかりきっていることが、必ずしもその通りには行われず、妙な力で妙な方に動かされ、時には「民の悪む所を好み、民の好む所を悪む」という方向に走ることもなしとしないことは、世上幾多の事実において見ることではありませんか。
 そこで次の詩が引用されているのであります。

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『論語』(第315)
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 子曰はく、如(も)し王者ありとも、必ず世(せい)にして後に仁とならん。
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 孔子が言うには、『聖人の徳を具え天命を受けて帝王というなる者があっても、必ず三十年かかって始めて教化が天下に行き渡って一人の不仁者もないようになるものである。』
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 平成二十七年の今日、日本の国では何と事件が多いのでしょう。上の『論語』にある「不仁者」が大量に増産されているように思うのですが、これはどういう理由からなのでしょうか。
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 今先、午後三時、北海道で飲酒運転により四人を轢き殺した青年が二十二年の刑を検察が示しましたが、裁判ではどうなるのでしょう。思うに私たちが子どもの頃は勿論車もありませんでしたが、それ相応に躾等が厳しかったように思います。
 ところが現今は、平和・繁栄・反戦にうかれ、したい放題です。もうちょっとどうにか、出来ないものでしょうか。
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 かく申す私は、子どもたちに空手道を教える傍ら「人の道」を教えているのです。特別支援学級の子どもたちも預かっています。だから連日、漢籍の言葉をテーマにしてブログを書いた後は、漢籍を読み、筆写し、と目が廻るほどの忙しさです。お預かりしている子どもたちが、20年後、30年後漢籍と出会ってよかったと言えるように教えています。昨夜も『論語』九番を大声で熱唱しました。『南洲翁遺訓』は勿論です。
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 正常な会話もできなかった青年が16年後の今日、見違えるように素晴らしくなりました。言うことを聴かなかったら、愛情のこもった厳しさもなければならないのてです。大腿部を強く叩くなどして本人にわからせることが大切なのです。
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 上に書いた四人を轢き殺した青年が事件前にふざけた姿で酒を飲む、こういったのも厳しく躾けなくてはならないと思います。マナーが悪かったばかりに、20年の刑務所暮らしを余儀なくされるのです。

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『農士道』(第194回)
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 然し勿論「木鶏」の域まで進むには、矢張り「闘鶏」の段階を経て来ねばならぬのである。木鶏とは闘ふことも出来ぬ弱者の逃避的な獨りよがりの姿では断じてない。私共がよく老農の前に出ると、(近来はかかる老農は甚だ少いが)滔々農村問題や勤労鼓吹の演説聞かなくとも、其の穆穆たる姿容、訥々たる語言に接したのみで、深い反省と毅い発奮と、而してそれよりも、何ともいひ得ぬ心のうれしさとに浸るを覚える。
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 敢えて窒素、燐酸、加里の肥料の三要素の講釈をあけずとも、其の諄々として作物に親しむ姿を見ると、講釈以上の啓示に接する。

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