味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

聖人は、其の身を後にして身先んじ、其の身を外にして身存す。

2015-07-21 10:44:29 | ブログ
第2396号 27.07.21(火)
.
聖人は、其の身を後にして身先んじ、其の身を外にして身存す。『老子』
.
 聖人は自分の身のことはいちばんあとに考える。たとえば、道を行く場合にも人に先を譲る。そのことがかえって人から推されて、自分がいちばん先に立つことになる。
 同様に、聖人は自分の身を度外におき、自分のことは考えない。そのためかえって自分の身を保全することになる。319

.
 【コメント】〈聖人は自分の身を度外におき、自分のことは考えない〉とありますが、自分のことを考えつつも、人様の有利なようにしてあげるということであろうと思います。
.
 私ごとき者は、学歴・能力全くございませんが、出来るだけ出来る親切はしてあげたいと思っています。いがみ合うことをせず、楽しい日々を過ごしたいと念じています。そして出来れば、漢籍の書写をされませんか、とお勧めしています。昨日は、三か月ぶりに道場にきてくれた小学2年、中学2年女児にもお勧めしました。
.
 最初は何がなんだか分かりませんが、年月を重ねるうちに、いろいろ分かって参ります。その時の喜びは金銭には代えられないものです。分けが分らないまま実践してきて、地位も名誉も要らない、ただ倒れるまで漢籍を学びたい、ただそれだけです。
.
 これも『南洲翁遺訓』との出会い、荘内南洲会の先生方との出会いがそういう私を創ってくださいました。小野寺先生方から「あの程度の人間だったか」と思われるのが一番怖いです。
.
 そこで大事なことは、テレビ報道等に翻弄されないことです。土曜日の学問館の際、次の発言がありました。テレビ報道で、「大変深刻なことがあった」として、野球選手のことを報道されたというのです。ずっと観ていて、何も深刻でもなければ、報道するようなことでもなかったと件の人は申していました。
.
 普通の女の子たちがいい加減な気持ちで、番組を作成し報道したとしたら、大変な罪つくりだと思います。

-----------------
『大学味講』(第233回)
.
   味 講 
.
(一) 前節において「徳は本なり。財は末なり。本を外にして、末を内にすれば、民を争わしめて、奪ふことを施す」と結んでいるが、それを受けて「この故に」というのであります。
 即ち、上に立つ者が、「矩の道」に反して、民がいやがるのもかまわず、税を重く取り立てて、財を聚めるようにすれば、民はそれをにくんで、その国を去っていくものであります。
 これに反して、上に立つ者が、災害があれば、その救済のためにとか、交通の不便の所には、道路を開いてやるためにとかと、民の好む所は之を好んで、「矩の道」に随って、民のために財を散じてやれば、民は、その善政を慕って自然に聚まってくるものであります。
.
 これは大変大事なことでありますが、上に立つ者が、人々に恩恵を与えると同時に、子孫に財を遺してはならないのです。西郷南洲翁はそれを実践されたのです。二日前のブログでは、ある政治家の精神的貧困の面も書きました。

--------------
『論語』(第333)
.
 子曰はく、教へざる民を以ひて戦ふ。是れ之を棄つと謂ふ。
.
 孔子が言うには、「十分に教化訓練していない人民を用いて戦争をすれば、必ず敗戦に決まっているから、人民を捨て殺しにするというものである。」
-----------
『農士道』(第212回)
.
 而も此処でいふ「學問」とは、決して現代多くの人々の考へてゐるやうな単なる知識の記憶の意味ではない。陽明の所謂知行合一底の学問たるは勿論である。随って此処で、「学問の道如何」との問い対して与えた「士心を立つるに在り」との答は、實はとりもなおさず「人生とは何ぞや」といふ問に対する答と見るべきものである。単なる學得底の学問としての「志を立つる」といふことならば極めて容易なことである。然し之が一旦見性底の全生命の活事實としての問題となると、そは実に命がけの問題である。
 私共が如何なる志を立つるかといふことは、我が一生に対して兌換券を発行することなのである。一度発行した立志の兌換券の前には、私共は何時でも遇い難きこの人生の一切を提供するだけの覚悟を必要とする。この覚悟無き立志は未だ立志などいふに価すべきものではない。それは志の不渡手形であり、立志の遊戯である。

------------
菅原兵治先生が言う、「志の不渡り手形であり、立志の遊戯」とは何と素晴らしく、かつ厳しい言葉でしょう。然し、これが本当なのです。真剣勝負でなければにならないのです。そこには学問の蓄積がなければならないのです。
.
 学問の蓄積もなく、旧来の陋習である「家風」で子供を育てるからこそ、女性への人権蹂躙とも取れる誓約書を新妻にかかせたりするのです。