味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

天命を楽しみ、命を知る、故に憂えず。

2015-07-13 10:15:12 | ブログ
第2388号 27.07.13(月)
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天命を楽しみ、命を知る、故に憂えず。『易経』 
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 天命を悟ってこれに安んじ、これを楽しむ。その心の構えのできたとき、人に憂いはなくなる。235
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 【コメント】『易経』の上の言葉は大変素晴らしい訓戒だと思います。普通の人よりか、『南洲翁遺訓』、漢籍を繙いていると思っているのですが、易経が訓戒する域に何時到達するのでしょうか。
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 とにかく、厭くことなく、倒れるまで漢籍の世界を逍遥したいと考えています。

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『大学味講』(第225回)
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 (二) しかしこうした声は、実は徳の真義を解しないところから出るのであって、真の徳は必ず財をも生ずるものであります。このことについて大学では次のように説いておるのであります。
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 (1) 「徳有れば此に人有り」---その国を治める君子に立派な徳があれば、必ずその徳を慕って人々が集まってくるものである。即ちその国の君に仁慈の徳があって、よい政治を行って民のためになることをすれば、水が低きに流れるようによい人々がそこに集まってくるものであります。
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 (2) 「人有れば此に土有り」---人々が集まってくると、その人が精出して働くので、自然にそこに耕地も開拓されてくる、というのであるが、これは二千年前の中国の農耕時代のことであり、随ってこれを今日の実情に則していうならば、この「土」は「生産手段」というべきでありましょう。だからこれを工業面でいうならば、よい人が集まってくれば、工場とか、設備とかというものも出来、これを商業面でいうならば、店舗とか、各種の設備とかというものも出来るというふうに、「生産手段」も自然に拡大され、整備されてくるというのであります。そして

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『論語』(第325)
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 子曰はく、「南人言へることあり。曰はく、「人にして恒なくば以て巫医と作るべからず」と。善いかな。」「其の徳を恒にせざれば或ひは之に羞を承む」と。子曰はく、「占はざるのみ。」
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 孔子が曰には、「南国の人の言葉に『人として恒久不変の心がないならば巫となっても誠意が足りないから鬼神に交わることができず、医者となっても術が上手でないから死生を托することができない』と言うのがあるが、誠に善い言葉である。
 南の人がこう言ってるばかりでなく、易にも『人ももしその徳を恒久不変にしないならば、内省しても疚しい事が多く外の侮りも必ず至り、他人がこれに羞を進めるものである』とある。
 恒のない人はこの易の占いの辞(ことば)を玩味しないのである。もし易の占いの辞を玩味するならば必ず恒久不変の心がなければ羞を取ることを知って自ら警(いまし)めるはずだからである。

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 誠に誠に素晴らしい訓戒だと存じます。知的に乏しい私ごとき者であっても、こういう訓戒を身につけるべく実践し、かつまた空手道場で学ぶ門人たちへも奨励することと致します。
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『農士道』(第204回)
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 植木屋のせむし爺や于越の野の老農(次章参照)が、世態や人生に就いて「哲学の煙」をふいてゐるのも無理からぬことであらう。希くは私共は苦修参究の結果この邊までに遊びたいものである。
 以上、諸種の態度に就いて縷縷叙述し批判した。然しこれは畢竟私共が自己修養の鑑にしたいが為に過ぎない。幾つかの態度を列記しては見たものの、実際に当って一人一人の人間を果物の撰別でもするやうに簡単に区分できるものでもなく、又、然かすべきものでもない。
 唯かかる人物鑑識の範疇を以て人を見、己を見て、常に理想とする態度に自己を高めて行くよすがとすれば足りるのである。然らざれば我亦いつしか主知的巧言的態度に堕して、ミイラ取りがミイラになり了るの愚を敢へてたすに至るであらう。

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