味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

天の我れに与えし所以は、豈偶然ならなんや。

2015-07-28 10:20:09 | ブログ
第2403号 27.07.28(火)
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天の我れに与えし所以は、豈偶然ならんや。『文章軌範』
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 天が自分に使命を与えたのは、単なる偶然であろうか。決してそうではない。だから自重してやるべきことをやらなければならない。507
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 【コメント】台風も去り本格的な夏になったようです。台風銀座といわれる枕崎で子供時代を過ごした私ですが、薩摩地方に台風が上陸しなかったからホッとしています。こればかりは人間の力では如何ともしがたいことですが。
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 今日のブログテーマを決めて、今の私に〈天が自分に使命を与えたのは、単なる偶然〉ではないと考えています。文武両道の指導者として空手道と『南洲翁遺訓』を青少年に教え、導きなさいとの天の声があったのです。だから自重しながら実践しているのです。
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 私の所で修行(敢えて修行と書きます)する子供たちに、西郷南洲翁、菅臥牛翁の生き様を少しずつ教え、そして難解な『南洲翁遺訓』も教えているのです。これは道徳教育なのです。
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 ある方が道徳教育推進のためと称してお誘いがありました。どなたが誘っても私は行きません。時間が足りないからです。私は既に40年実践しているのです。3歳児から小学生の子供たちには学校教育現場では教えることが出来ないのです。それは戦後の学校教育の在り方が私たち子供時代からすると大きく変ってきているからなのです。
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 新しくやろうとしている人たちが、先ずは私が子供たちに教え暗記させていると同様のことが出来たら、真剣に考えても見たいです。幾ら著書が多くあろうと、大学教授の経験があろうと、3歳児に『南洲翁遺訓』を暗記させることができますか。その年代に応じた理解をさせることができますか。これには多くのお稽古ごとの経験と3歳児に対峙した時の精神的真摯さがなければならないのです。
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 現代は、その昔、教育勅語を暗記していた時代とは大きく変貌しているのですから。
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 東京調布に小型飛行機が墜落した事件で昨日も終日テレビ報道がなされました。墜落した操縦士・パイロットの人物判断について、元パイロット氏が申し分のない人であったやに証言していましたが、アラッと首を傾げた次第でした。
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 操縦士氏が絶頂期だと思料される頃であろうか、親指を立ててポーズした写真が公開・紹介されました。人格者といわれる人ならこういうポーズはとらないのです。
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 東北地方の県知事さんで自衛隊出身の方がおられます。この方の言動・行動を観察して、流石と私は唸っています。頭のヨシアシではないのです。人間の内面からほとばしる清明・真摯・真諦・勤勉・忠恕等々が自然に湧出し、その人間の代名詞にならなければならないのです。
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 連日、菅原兵治先生の『大学味講』『農士道』等々をご紹介していますが、菅原先生みたいな人をこそお手本にしなければならないのです。私の所で修行する幼児たちは菅原先生の書いたものを筆写しなさいとお願いし、遊びながら楽しみ書いているのです。
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 菅原先生がパイロットだったら、親指を立てるようなポーズは取らないのです。これ以上はここでは言及しません。出来るものなら、天風師に聞いてみたい思いです。多分私と同じ分析をすると思います。

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『大学味講』(第240回)
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 (三) それらのことを頭において本文の「楚国は以て宝となすなし。推善以て宝となす」という一句を読んでみれば、うなずかれるでありましょう。これを砕いていえば「楚の国では、飾り物の玉などは宝としてはおりません。善人こそを宝としております」となるのであります。
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 (四) ですから、これを現代のわが事の上に活用すれば、
「私の家では、家財道具や、家屋敷や、さては田畑山林よりも、父母こそが宝であります」
となり、また父母からいえば、
「よく働く息子や嫁こそが、わが家の宝であります」
となり、また会社ではいえば、
「わが社においては、資本や設備よりも、何の課にはAという者がおり、何の部にBという者があるが、こういう人達こそがわが社の第一の宝です」
となるでありましょう。そういう農家や企業ならば、きっと事業の面においても業績があがるであろうことはいわずもがなでありましょう。

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 こういう日本古来の美徳・美風がなくなったのはどういう方々の所為だと思われますか。戦争の悲惨さがあってはなりませんが、大和の美風・美徳こそは世界に冠たるものだと私は思うのですが。
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『論語』(第340)
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 子曰はく、君子にして不仁なる者はあらんか。未だ小人にして仁なる者有らざるなり。
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 孔子が言うには、「君子は常に仁を志すが、まだ聖人の如く円満具足の域に達してはいないから、時には知らず識らず不仁に陥る者があるかも知れない。しかし小人は元来が仁に志さぬのだから、仁者であり得るはずがない。
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『農士道』(第219回)
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 私は「汝自身を知れ」の格言を此の意味に於て「汝自身独尊の命を知れ」の意に解する。吾々は斯くて我獨有の命を確かに見つめ得た時に、先づ三界孤独の淋しさに襲はれる。けれども亦それと同時に我獨有の道の存するを覚れば、獨往の勇憤に躍る。前を望み後を顧み、右を見左を見て、我と全然同じき道を歩みし者も、又歩む者も一人も無いことを知る時、我は何人もの模倣も追従も出来ぬといふ淋しみと共に、又全く新しき道を拓いて露堂々と進む獨往の悦びに躍り得る。涙と笑いと同存する緊張である。この緊張を以て「命」の上に確立した前方遥かに臨む時、其処に我獨自の彼岸(到達点)がくっきりと現れて来る。この彼岸こそ實に我々の「志」である。實に士たるもの生活の開眼たるべき尊き「志」である。
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