味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

志は満たしむべからず。

2015-07-18 13:06:01 | ブログ
第2393号 27.07.18(土)
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志は満たしむべからず。『礼記』
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 すべてのことについて、完全に満足のいくまで求めるという考えは捨てなければならない。欲望は限りなく進むものだから、限度が必要である。266
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 【コメント】今朝の学問館は三歳児カナコ嬢を含め、6人で学修しました。途中で幼児と小学生に『南洲翁遺訓』第一章を発表して貰いました。もしかしたら荘内まで聞こえたかもしれません。
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 小学2年正田宗一郎君に『論語』六番を発表してくださいと言ったら元気よく発表してくださいました。

 子曰はく、弟子、入りては則ち孝、出てては則ち弟、謹んで信、汎く衆を愛して仁に親づき、行うて餘力あれば則ち以て文を学ぶ。
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 実は木曜日、『南洲翁遺訓』と『論語』を大熱唱したのでした。それにしても素晴らしい記憶力です。老人の私も負けてなるものかと暗記の競争をしているのです。
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 何が楽しいと言って、パチンコよりか何よりか、学問ほど楽しいものはありません。

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 今朝の学問館の教材は、
 1.幻の講話 第三巻 第二十四講 共かせぎの問題
 2.徳富蘇峰のあるいた道
 3.性、相近きなり  習、相遠きなり
 4.新たな地平を拓く
 5.一念、道を拓く----等々でした。
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 「新たな地平を拓く」では、〈成功した企業が衰退していく第一の要因に「成功から生まれる傲慢」を挙げていることである。忘れてはならない教訓である。〉
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 「一念、道を拓く」では、〈病のため両手両足切断された中村久子のことを書いている。〉後年、中村久子は次のように述べている。
「両手両足を切り落とされたこの身体こそが、人間としてどう生きるかを教えてくれた最高最大の先生であった。
  そしてこう断言する。
 「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない。」
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 昨日のブログでママトモの母親たち2人が自殺したと書きました。この母親たちは両手両足ある健全な大人なのです。なんと気の弱い無責任な人たちなのでしょう。私が思うに、自殺したこれが飛び火して次の犠牲者が出なければよいがと思っています。
. この原因について今朝の学問館ではいい加減なテレビ報道に原因があると断言した人がいました。私も同感です。
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『大学味講』(第230回)
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 私はかつて企業経営の「徳利方式」ということを提唱したのであります。「利」はまず「徳」を行うことによって、それに随っておのずからにもたらされるものである、というのでありますが、その根拠はやはり大学のここにあったのであります。
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 (七) ところが、ともすると私どもは、財が本であって、財さえあれば、それで人も集まり、土地も設備も出来るものであると思うのであって、これを「経済至上主義」というのであります。もちろん「財あればここに用あり」で、財によっていろいろのはたらきが出来るのでありますから、右のことも一応はもっとものこととされるのでありましょうが、しかし、その財が一体どこから生ずるのかということを考えると、その本はやはりその人の「徳」によるものであります。このことを忘れて、財さえあれば何でも出来るものである。だから財が一切の「本」であるとし、一切の仕事の目的は金を取ることだとすると、例えば物を売るにしても、ただ高く売りさえすればよいとして、相手をだましても、おどかしても、その場その場で財を取りさえすればよいとなったらどうなるでありましょうか。
 また労働者が働いて労賃を取るにしても----これを経営者側からいえば、労賃を払うにしても-----お互いにただ、その時その時の、自分の利益だけを考えて相手を顧みないとなったら、果たしてどうなるでありましょうか。それは結局「争う」以外に道なしということになるでありましょう。これを大学では「本を外にして、末を内にすれば、民を争はしめて奪うことを施す」といっているのでありますが、このことは現下の諸事実に徴しても、思い半に過ぎるではありませんか。
 私どもは「財」を軽んずるものではありません。いや、財用を重んずるが故にこそ、本----即ち「徳」---を内にして、末---即ち「財」---を外にすることを忘れてはならぬのであります。

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『論語』(第330)
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 子曰はく、剛毅朴訥は仁に近し。
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 孔子が言うには、意志強固な剛というもの、忍耐力が強くて操守の堅固な毅というもの、容貌が質樸で飾りのない木というもの、口を利くことが下手で遅鈍な訥というものがある。これらは仁に近いものである。
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『農士道』(第209回)
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   第四章 士 道 論
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   第一節 立 志
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 農士道を究明せんと欲せば、私共は先づ士道とは何ぞやといふことに就いて深く研究する必要がある。故に本章に於て士道に就いて稍々詳細に論究し、次章農士論研究の素養としたいと思う。
「之を仰げば愈々高く、之を鑚れば愈々堅き孔夫子の大聖としての生涯も、その人格修行の第一歩は「十有五にして學に志し」た時にあったと謂ひ得るであらう。立志以前の人生は無明の溟海である。この溟海に彼岸遥かに邁進の一路を照らす証明が即ち「志」である。山鹿素行も其の著士道に於いて「人既に我が職分を究明するに及んでは、其の職分をつとむるに道なくんばあるべからざれば、ここに於いて道といふものに志出来るべき事なり。

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