第2398号 27.07.23(木)
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之れを聴くに耳を以てするなくして、之れを聴くに心を以てせよ。『荘子』
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物事は、耳で聴かずに心で聴くことだ。(孔子のことばとして引用)
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耳という感覚器官だけで心が働かないならば、音声は受けとめえても、本当の意味内容はわからない。
しかし、心で聴けてもまだ十分ではない。気をもって聴く必要がある。気とは、そのときの空気、そのときのようすであり、心をむなしくした場合にのみ気をもって聴くことができるのである。
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〈参考〉之れを聴くに心を以てするなくして、之れを聴くに気を以てせよ。聴くは耳に止まり、心は符に止まる。気なる者は、虚にして物を持つ者なり。
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【コメント】参考になる訓戒だと思います。〈心をむなしくした場合にのみ気をもって聴く〉ことができても、その受け取り方、判断を常識的に捉え対処・措置しようとするならば、そこに何らかの素地、いわゆる学問により修得したものがなければならないと思います。
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どんな良い提案でも幼児には理解できないのです。日々に精進する姿勢・行動がなければならないのです。
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新婚の新妻が夫婦間のトラブルにより夫に殴られ蹴られした後、「夫を殺します」という悩みを打ち明けてきた場合、あ、そうですか、お好きなように、というわけには行かないのが普通ではないでしょうか。
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ところが夫側の両親は全く危機感がないようなのです。特に世間体が悪いとかいうことで。万一、殺人事件でも発生してからではどうしょうもないのです。
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そういう事象が耳に入ってこなければ、人様のことだから、無関係でもよいのですが。困ったものです。
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連日いろいろなニュースが飛び込んできます。特にオリンピック会場建設問題もそのひとつです。件の責任者は迷惑をしているという言葉を発しましたが、多くの国民は、迷惑以上の心痛を覚えているのではないでしょうか。
菅原兵治先生がご健在であれば、2600億円の費用について何と仰せになるでしょう。
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7月19日のブログで『大学味講』の言葉を取上げ、〈「徳本財末」の真理に帰り〉と書きました。大戦後70年、「財本徳末」の思想がまかりとおり、ギリシャだけに止まらず、大変なことになっています。これも天が描いたシナリオなのでしょうか。
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菅原先生は、「私どもはここに決然として「徳本財末」の真理に帰り、正しい「徳」こそが、正しい「利」をもたらすものであるという、大学の道を明らかにする時ではないでしょうか。」という論に謙虚に耳を傾けなければならないと思います。
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『大学味講』(第235回)
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第七節 惟れ命常においてせず
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康誥に曰く、惟れ命常に干(おい)てせずと。善なれば則ち之れを得、不善なれば則ち之れを失ふを道(い)ふ。
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味 講
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(一) 書経の康誥の篇に「ただ命、常に干てせず」という語があるが、その意味は「天が天子に命を下して万民を治めさせるが、その命は永久不変のものではない。その天子の政治が善であれば、天命を受けていることが出来るが、もしその政治が不善であれば、それを失うものである」というのであります。
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『論語』(第335)
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「克伐怨欲行はれざる。以て仁と為すべし。」子曰はく「以て難しと為すべし、仁は則ち吾知らざるなり。」
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原憲がさらに孔子に尋ねた。「克(他に勝つことを好むこと)伐(自分がすぐれていると誇ること)怨(忿り恨むこと)欲(貪って厭き足りないこと)の四つが心に起ろうとするのを制して行われないようにするのは仁ということができましょうか。」孔子「こういう感情を制することは困難であるが、仁であるかどうだか私は知らない。」
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『農士道』(第214回)
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第二節 士------命、志、道
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「士」----斯くいへば普通一般の人は直ちに「さむらひ」即ち「武士」の事と思ふであらう。然しこは言語の偶像に惑わされてゐるともいふべきものであって、少しく考へを深むれば士と称するものは必ずしも武士のみに限るべきでないことに直ちに気付くであらう。
試みに現代私共の日常「士」と称してゐるものを挙げて見るも、曰く「文士」曰く「学士」曰く「博士」曰く「禅士」曰く「居士」曰く「弁士」曰く「大議士」曰く「弁護士」----。文に属する方面にも随分「士」と称するものがあるではないか。故に用例よりいうも「士」は決して「武士」のみの謂ではないことが明らかであろう。況や東洋古典を味読して「士」とは何ぞやという問題に触れる時など、特にその然るを覚えるであろう。
我邦に於て「士」即「武士」と解するやうになったのは、主として鎌倉時代以後の武家政治時代になってからの事である。私共は「武士」以前に遡って「士」の本質を思弁するの要があるではないか。
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之れを聴くに耳を以てするなくして、之れを聴くに心を以てせよ。『荘子』
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物事は、耳で聴かずに心で聴くことだ。(孔子のことばとして引用)
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耳という感覚器官だけで心が働かないならば、音声は受けとめえても、本当の意味内容はわからない。
しかし、心で聴けてもまだ十分ではない。気をもって聴く必要がある。気とは、そのときの空気、そのときのようすであり、心をむなしくした場合にのみ気をもって聴くことができるのである。
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〈参考〉之れを聴くに心を以てするなくして、之れを聴くに気を以てせよ。聴くは耳に止まり、心は符に止まる。気なる者は、虚にして物を持つ者なり。
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【コメント】参考になる訓戒だと思います。〈心をむなしくした場合にのみ気をもって聴く〉ことができても、その受け取り方、判断を常識的に捉え対処・措置しようとするならば、そこに何らかの素地、いわゆる学問により修得したものがなければならないと思います。
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どんな良い提案でも幼児には理解できないのです。日々に精進する姿勢・行動がなければならないのです。
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新婚の新妻が夫婦間のトラブルにより夫に殴られ蹴られした後、「夫を殺します」という悩みを打ち明けてきた場合、あ、そうですか、お好きなように、というわけには行かないのが普通ではないでしょうか。
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ところが夫側の両親は全く危機感がないようなのです。特に世間体が悪いとかいうことで。万一、殺人事件でも発生してからではどうしょうもないのです。
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そういう事象が耳に入ってこなければ、人様のことだから、無関係でもよいのですが。困ったものです。
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連日いろいろなニュースが飛び込んできます。特にオリンピック会場建設問題もそのひとつです。件の責任者は迷惑をしているという言葉を発しましたが、多くの国民は、迷惑以上の心痛を覚えているのではないでしょうか。
菅原兵治先生がご健在であれば、2600億円の費用について何と仰せになるでしょう。
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7月19日のブログで『大学味講』の言葉を取上げ、〈「徳本財末」の真理に帰り〉と書きました。大戦後70年、「財本徳末」の思想がまかりとおり、ギリシャだけに止まらず、大変なことになっています。これも天が描いたシナリオなのでしょうか。
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菅原先生は、「私どもはここに決然として「徳本財末」の真理に帰り、正しい「徳」こそが、正しい「利」をもたらすものであるという、大学の道を明らかにする時ではないでしょうか。」という論に謙虚に耳を傾けなければならないと思います。
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『大学味講』(第235回)
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第七節 惟れ命常においてせず
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康誥に曰く、惟れ命常に干(おい)てせずと。善なれば則ち之れを得、不善なれば則ち之れを失ふを道(い)ふ。
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味 講
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(一) 書経の康誥の篇に「ただ命、常に干てせず」という語があるが、その意味は「天が天子に命を下して万民を治めさせるが、その命は永久不変のものではない。その天子の政治が善であれば、天命を受けていることが出来るが、もしその政治が不善であれば、それを失うものである」というのであります。
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『論語』(第335)
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「克伐怨欲行はれざる。以て仁と為すべし。」子曰はく「以て難しと為すべし、仁は則ち吾知らざるなり。」
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原憲がさらに孔子に尋ねた。「克(他に勝つことを好むこと)伐(自分がすぐれていると誇ること)怨(忿り恨むこと)欲(貪って厭き足りないこと)の四つが心に起ろうとするのを制して行われないようにするのは仁ということができましょうか。」孔子「こういう感情を制することは困難であるが、仁であるかどうだか私は知らない。」
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『農士道』(第214回)
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第二節 士------命、志、道
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「士」----斯くいへば普通一般の人は直ちに「さむらひ」即ち「武士」の事と思ふであらう。然しこは言語の偶像に惑わされてゐるともいふべきものであって、少しく考へを深むれば士と称するものは必ずしも武士のみに限るべきでないことに直ちに気付くであらう。
試みに現代私共の日常「士」と称してゐるものを挙げて見るも、曰く「文士」曰く「学士」曰く「博士」曰く「禅士」曰く「居士」曰く「弁士」曰く「大議士」曰く「弁護士」----。文に属する方面にも随分「士」と称するものがあるではないか。故に用例よりいうも「士」は決して「武士」のみの謂ではないことが明らかであろう。況や東洋古典を味読して「士」とは何ぞやという問題に触れる時など、特にその然るを覚えるであろう。
我邦に於て「士」即「武士」と解するやうになったのは、主として鎌倉時代以後の武家政治時代になってからの事である。私共は「武士」以前に遡って「士」の本質を思弁するの要があるではないか。
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