味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

聖人の道は、耳に入りて心に存し、

2015-07-27 09:57:27 | ブログ
第2402号 27.0727(月)
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聖人の道は、耳に入りて心に存し、之れを蘊(つ)みて徳行と為り、之れを行ないて事業となる。彼の文辞のみを以てする者は陋(いや)し。『小学』
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 学問によって聖人の道を学ぶが、それは耳に聞いて心にとどまり、それが積み重なっては徳行となり、行動に現われては道となるものである。ゆえに、単に文章のみをもって学問と考えるのは卑しむべきことである。
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 【コメント】ご尊敬申し上げる荘内南洲会前理事長・小野寺時雄先生は『孝経』『小学』が好きだと私に言ったことがございました。私も同様でした。
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 上の言葉はまさしくその通りだと存じますが、ただ、文章、講話を以て道徳だ、道だと説く人もいます。しかし長い年月、冷静に観察していれば、それが誠か否かは分かってくるものです。

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『大学味講』(第239)
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 すると王孫圉は、なかばあきれたような様子で、
「私どもの国では、王などは宝と致しておりません。楚の国で宝とするのは、善人であって、王ではありません。観射父という賢人がおりますが、この人はよく訓言を作り、それに随って諸侯に対しても事を行っておるので、わが君が間違ったことをして、弁解せねばならぬようなことはありません。また左史奇相という者は、よく教訓となる典籍を研究し、万般の事物を調査して、何が善いか、何が失敗の原因となるかを、朝夕にわが君に申上げているので、わが君をして先王の業を忘れさせるようなことはありません。またよく神意に随って、神のにくむようなことをさせないので、神が楚国をにくむようなことはありません。また山林や沢や谷のような所もよく調査して、そこから木材や、金玉や、禽獣や、魚介や、いろいろの資材を開発し、そういうものを宝として、これで民の利を図ることを宝としておりまして、楚国は蛮夷の国といえども、玉を誇って、それを宝とするようなことは致しておりません」
と答えたというのですが、いかにも胸のすくような応酬ではありませんか。

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『論語』(第339)
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 南宮适孔子に問うて曰はく、「羿は射を善くし、奡は舟を盪(お)す、俱に其の死を得ず。禹・稷は躬ら稼して天下を有つ。」夫子答へず南宮适出づ。子曰はく、「君子なる哉若(かなかくのごと)き人。徳を尚ぶ哉若き人。」
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 南宮适が孔子に「昔羿は弓の上手であり、又奡は大船を動かす程の大力だったが、二人共に非業の死を遂げた。しかるに禹は治水に骨折り后稷は自身耕作をして、特に武芸に秀で大力だといふのではなかったが、禹は舜の譲りを受けて天子となり、又稷の後は周の武王に至って天子となった。それはどういうわけでありますか。」と尋ねた所、孔子は答えなかった。南宮适が其場を去って後、孔子がいうには、「君子であるわい、あの人は。力を重んぜずして徳を尊ぶかな、あの人は。」
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『農士道』(第218回)
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 斯の意味に於いて其の誕生に当って「天上天下唯我独尊」と叫び得る者、必ずしも釈尊に限るべきではない。一切衆生すべて是れ「天上天下唯我独尊」である。然りこの命は、我を主として見れば他の何ものと雖も、決して我たり得ざる最勝のものであり、同時に若し他を主として見れば、我如何に憔慮し、如何に号泣するも、決して彼たり得ざる天上天下唯我独尊のものかも知れぬ。景勝と見るか、最卑と見るかは暫く措く。唯我が「命」はこの全宇宙に唯一無二の「命」なるが故に之れを「尊」といふ。 
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