味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

辞を吐けば経と為り、足を挙ぐれば法と為る。

2015-07-19 10:27:39 | ブログ
第2394号 27.07.19(日)
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辞を吐けば経と為り、足を挙ぐれば法と為る。『文章軌範』
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 ひとたびその口から出たことばは、そのまま経書のことばのように立派なものになり、ひとたび動作をすれば、その行動はそのまま人間の法則となる。(韓文公「進学解」)
 孟子と荀子をたたえたことば。519

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 【コメント】漢籍の言葉を主体として取り上げ、ブログに綴っていますが、知らないことだらけで、勉強不足を痛感しています。一日一日が瞬く間に過ぎて、少しは世の人々のお役に立っているのか自問自答しています。
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 昨夜のおけいこの終盤に子供たち四人に空手の舞をしてもらいました。みなさん前向きに取り組んでくれるので有難いです。いつものことながら、いじめはしない、いじめにくじけない自分づくりをモットーに実践しています。
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 午前中の学問館にはじまり、空手道の稽古、夕方の稽古と日程が詰まっているから、それを責任を持って果たさなければならないから、却って元気なのかも知れません。
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 多忙ですけど、漢籍を繙くことで新たなエネルギーを戴いていることに満腔の幸せを感じています。

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『大学味講』(第231回)
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 (八) 現下の事実を見るに、あらゆる面において「闘争」「闘争」また「闘争」、何と「争う」ことの多きことよ。問題解決の唯一の道は「闘争」に在りともいわれる時ではないのか。しかもそれを、憲法で保証された国民の権利であるといい、それが正しい道であるとしているではないのか。その結果は果たしてどうなってきたであろうか。そして今や国民すべてが、その闘争の効果に疑問をもち、その弊害に苦しめられつつあるではないのか。
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 これは要するに「財本徳末」の経済至上主義の致す所ではないのか。私どもはここに決然として「徳本財末」の真理に帰り、正しい「徳」こそが、正しい「利」をもたらすものであるという、大学の道を明らかにする時ではないでしょうか。頁151

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電電に入社した頃、反戦・平和をいいながら、「闘争」「闘争」という言葉に大変な違和感を覚えたものです。労働組合員の代表が徳を備えた人格者ならまだしも、仕事はしない、人望はない、酒癖は悪いときたら、誰を信じたらいいのでしょう。

 だから私は、空手道の稽古を始めたのでした。そして学問も。当時、大宅壮一著『炎は流れる』全四巻を購入し読んで書写しを繰り返したものでした。
 爾後、『南洲翁遺訓』と出会ってから漢籍100巻を求め分けが分らないまま、繙いているのが実情です。『論語』『大学』も読んできましたが、どうにもパッとしなかった處、菅原兵治先生のご著書で真の理解ができたように思います。それを勧めてくれたのが小野寺時雄先生だったのです。

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『論語』(第331)
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 子路問うて曰はく、「如何なる斯れ之を士と謂ふべき。」子曰はく、「切切偲偲、怡怡如たる、士と謂ふべし。朋友には切切偲偲し、兄弟には怡怡す。」
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 子路が問うて曰うには、「いかなる行いを致せば士と申されましょうか。」孔子「他人に交わるに当って誠意を尽くし、詳らかに告げて勉励させ、顔色を和らげ悦ばしくするならば、恩義を兼ね尽くし、徳性が偏らないから、士と謂ってさしつかえない。ただし、この三事を人に施す場合には混雑してはならない。
 朋友に対しては切切(懇ろに行き届く)、偲偲(詳らかに勉めます)でないとだめだ。兄弟には怡怡(和らぎ悦ぶ)でないとだめだ。」

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『農士道』(第210)
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 たとえば京へ行くべきと思うに及んでは、其の道を知らざれば能く行くべからず。知らずしてしひて行かば皆邪路に入るべきなり」と述べてゐるが、實に立志は人生の開眼である。これなかりせば人生は要するに一団の肉塊の盲轉であり、随って無明の欲念の妄動に過ぎない。
 然らば「志」とは何か。斎藤正謙(拙堂と号す。津藩の人)は士道要論の中に次の解説を與へてゐる。
 「志の字はもと「士」、「心」の二字を合せたる文字なれば、士たる者の心には、志なくてはかなわぬものなり。また志といへば道に志す外なし。」

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