第2385号 27.07.10(金)
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虐に代うるに寛を以てし、兆民充(まこと)に懐く。『書経』
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前代の虐政に代わって寛大な政治をしたため、全人民ことごとく心から徳になついた。202
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【コメント】虐政よりか徳のある政治の方がはるかにいいと思います。そこで大事なのは、善政を望む人々が、善政に甘えず、一所懸命に仕事に精励すると同時に、倹約に努め、出来れば勤勉性も培うことが出来れば、よいのではないでしょうか。
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人間、ややもすると怠けの方に流れやすいものです。私が勉めていた会社では、怠けの奨めをしていたものです。
私自身、昼は自分の本職として五時まで働き、夜十時から翌朝七時まで父の名義で深夜の電報配達をしてきました。とにかく働かなければ金は入ってこないのです。怠けている暇もないのです。
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子どもたちが連日自殺をし、テレビ局では報道合戦をしていますが、もう少し教育性のある番組・物語、歴史上参考となるようなものを報道して欲しいものです。今のテレビはただ面白おかしくしているだけだと思えて仕方がないのです。
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ある作家が「木の上の軍隊」という小説を書くことが出来なかったと述懐したことがありました。戦争は絶対してはなりませんが、人間が直向きに生き抜く、仕事と格闘する意義を教える、一寸した暴力にも耐え忍ぶことを教えたら、子どもたちも自らと戦う心境になるのではないかと思います。おんぶにだっこでは子どもは強くならないのです。私の難儀苦労は、討たれて、踏まれて、叩かれて、罵倒されてという侵害以上のものでした。
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昨夜の空手道教室では、人が何を言おうが、罵倒されようが、討たれようが、絶対自殺をしてはいけませんと話しました。私が指導した子どもたちは、強く逞しく生き抜いて行くと思います。ただ一つ例外は、家庭で旧来の陋習で酒浸りの父親が邪な親父風を吹かせないことだと思います。
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連日菅原兵治先生の『大学味講』『農士道』をご紹介しているのも、先生方みたいに強く聡明に生きて欲しいと思ってご紹介しているのです。
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『大学味講』(第222回)
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ただここで一つ注意せねばならぬことがあります。それは何かというと「衆を得れば、則ち国を得、衆を失へば則ち国を失ふ」ということについてであります。
私共は最近の大きい出来事、例えば成田空港問題とか、日中交渉の在り方とかというものについて、「国民の要望」とか「国民の意志」とかいう場合の「国民」----即ち「衆」---とは何を指しているのか。同じ「国民」という言葉でも、その内容の実体は、保守系と、共産党や社会党の革新系とにおいては、同じではないのか。とすると、「衆」とは果たして何をさしていうのか。「民」とは果たして何をいうのか。そして更にそれは「数」だけで決めてよいものかどうか。考えれば幾多の根本的の問題があるのであるが、それらの事を十分に究明せずに、ただ自分達の党派的名利のために「民」や「衆」の名を振り廻すことは、決して大学の道とはいわれぬでありましょう。
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『論語』(第322)
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樊遅仁を問ふ。子曰はく、居処恭に、事を執ること敬に、人と忠なりは、夷狄に之くと雖も、棄つべからざるなり
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樊遅が仁を求める道を問うた。孔子が曰われるには、「仁は人心であってどんな時どんな処でもないことはないのである。何もしないでいる時には容貌を荘重にして放肆に流れないこと、仕事をする時には心をその事に専らにして敬み謹んで怠り忽せにしないこと、人と交際する時には忠誠を尽くして欺き偽らないこと、この三つは夷狄のような礼儀道徳の低い処へ行っても棄ててこれを失ってはならないのである。
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『農士道』(第201回)
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根は拳(かが)まり、士は易り、之を培ふにも過不及がある。そうでなくても可愛がり過ぎたり、心配し過ぎたり、旦に視て暮に撫で、去くかと思へば又顧み、甚しい者になると、その虜に爪を入れて生枯を験したり、根本を動かして疎密を視たりするものであるから、木の性は日に離れるのである。愛するというが実は害ふて居るのであり、心配するといふが、実は讐して居る。だから私に及ばぬのであって、私が何を能くしようか。
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虐に代うるに寛を以てし、兆民充(まこと)に懐く。『書経』
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前代の虐政に代わって寛大な政治をしたため、全人民ことごとく心から徳になついた。202
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【コメント】虐政よりか徳のある政治の方がはるかにいいと思います。そこで大事なのは、善政を望む人々が、善政に甘えず、一所懸命に仕事に精励すると同時に、倹約に努め、出来れば勤勉性も培うことが出来れば、よいのではないでしょうか。
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人間、ややもすると怠けの方に流れやすいものです。私が勉めていた会社では、怠けの奨めをしていたものです。
私自身、昼は自分の本職として五時まで働き、夜十時から翌朝七時まで父の名義で深夜の電報配達をしてきました。とにかく働かなければ金は入ってこないのです。怠けている暇もないのです。
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子どもたちが連日自殺をし、テレビ局では報道合戦をしていますが、もう少し教育性のある番組・物語、歴史上参考となるようなものを報道して欲しいものです。今のテレビはただ面白おかしくしているだけだと思えて仕方がないのです。
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ある作家が「木の上の軍隊」という小説を書くことが出来なかったと述懐したことがありました。戦争は絶対してはなりませんが、人間が直向きに生き抜く、仕事と格闘する意義を教える、一寸した暴力にも耐え忍ぶことを教えたら、子どもたちも自らと戦う心境になるのではないかと思います。おんぶにだっこでは子どもは強くならないのです。私の難儀苦労は、討たれて、踏まれて、叩かれて、罵倒されてという侵害以上のものでした。
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昨夜の空手道教室では、人が何を言おうが、罵倒されようが、討たれようが、絶対自殺をしてはいけませんと話しました。私が指導した子どもたちは、強く逞しく生き抜いて行くと思います。ただ一つ例外は、家庭で旧来の陋習で酒浸りの父親が邪な親父風を吹かせないことだと思います。
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連日菅原兵治先生の『大学味講』『農士道』をご紹介しているのも、先生方みたいに強く聡明に生きて欲しいと思ってご紹介しているのです。
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『大学味講』(第222回)
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ただここで一つ注意せねばならぬことがあります。それは何かというと「衆を得れば、則ち国を得、衆を失へば則ち国を失ふ」ということについてであります。
私共は最近の大きい出来事、例えば成田空港問題とか、日中交渉の在り方とかというものについて、「国民の要望」とか「国民の意志」とかいう場合の「国民」----即ち「衆」---とは何を指しているのか。同じ「国民」という言葉でも、その内容の実体は、保守系と、共産党や社会党の革新系とにおいては、同じではないのか。とすると、「衆」とは果たして何をさしていうのか。「民」とは果たして何をいうのか。そして更にそれは「数」だけで決めてよいものかどうか。考えれば幾多の根本的の問題があるのであるが、それらの事を十分に究明せずに、ただ自分達の党派的名利のために「民」や「衆」の名を振り廻すことは、決して大学の道とはいわれぬでありましょう。
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『論語』(第322)
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樊遅仁を問ふ。子曰はく、居処恭に、事を執ること敬に、人と忠なりは、夷狄に之くと雖も、棄つべからざるなり
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樊遅が仁を求める道を問うた。孔子が曰われるには、「仁は人心であってどんな時どんな処でもないことはないのである。何もしないでいる時には容貌を荘重にして放肆に流れないこと、仕事をする時には心をその事に専らにして敬み謹んで怠り忽せにしないこと、人と交際する時には忠誠を尽くして欺き偽らないこと、この三つは夷狄のような礼儀道徳の低い処へ行っても棄ててこれを失ってはならないのである。
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『農士道』(第201回)
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根は拳(かが)まり、士は易り、之を培ふにも過不及がある。そうでなくても可愛がり過ぎたり、心配し過ぎたり、旦に視て暮に撫で、去くかと思へば又顧み、甚しい者になると、その虜に爪を入れて生枯を験したり、根本を動かして疎密を視たりするものであるから、木の性は日に離れるのである。愛するというが実は害ふて居るのであり、心配するといふが、実は讐して居る。だから私に及ばぬのであって、私が何を能くしようか。
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