JAZZを聴きながら ふたたび

恥も顧みないで再々開、よろしければお付き合いを

『黒い情念』が逝く

2007年04月22日 | g-i

統一地方選後半戦、皆さんは投票に行かれましたか?
私は雨が降り出す前にと、午後一番で近くの小学校へ行ってきました。たかが一票、されど一票であります。

今日、KOJIさんより「Andrew Hill がつい20日、75歳で亡くなりました。」とのコメントをいただき、アンドリュー・ヒルの訃報を知りました。死因は肺ガンであったそうですが、ご冥福を祈りましょう。

1937年6月30日、ハイチのポルトープリンスでヒルは生まれました(じつはシカゴ生まれたという説が正しいともいわれます。)。1941年、家族と共にシカゴに移り住み、1943年頃には、シカゴ周辺でアコーディオン、タップ・ダンス、歌を器用にこなし、披露していたそうです。

1950年にバリトン奏者ピット・パリックからジャズの手ほどきを受け、1953年からポール・ウイリアムスのR&Bバンドでプロ活動をスタートしました。この頃、バリー・ハリスと出会い、パド・パウエルついて教えられ、その後、ジーン・アモンズ、サージ・チャロフ、ロイ・エルドリッジらと付き合い、御存じダイナ・ワシントンの伴奏コンボのメンバーとしてニューヨークへ、ジョニー・ハートマンの伴奏を務めた後、ロサンゼルスに移り、クラブ『ライトハウス』で活躍しました。

オルガン奏者、ラバーン・ジレットと結婚後、1963年ふたたびニューヨークへ、ブルーノートのアルフレッド・ライオンの目に止まったヒルは、新世代ジャズ・メンとの興味深い録音を数多く残しました。1970年からはコルゲート大学の嘱託教師となり、1971年に自己バンドを結成、活動を続けるものの仕事は少なかったようです。
1974年に5年ぶりのレコーディングを行い、一線にカンバックしました。昨年もブルーノートより新作を出しておりましたが、ここに帰らぬ人となったわけです。

思えば、ライオンが最後に力を入れたミュージシャンが、アンドリュー・ヒルであったと言ってよいのではないでしょうか。
『黒い情念』、『特異で難解』とも言われたヒルのピアノ、何処をライオンは気に入っていたのでしょうか?
それは、まったく売れもしないのに、モンクに入れ上げたときのように、その才能に惚れ込んでいたということなのか、もしくは、当時のブルーノートには、こういった新しい風が、あえて必要だと思ったのかもしれません。
ヒルは玄人受けするピアニストで、当時のジャズ雑誌の評は常に満点、ただ、人気上々とは行かず、売れ行きは燦々たるものだったようです。(モンクは評論家にも不評でしたけどね)
それでも、ライオンは60年代を通して彼の録音を続けたのです。

さて、今日の一枚は、もちろんブルーノートのアンドリュー・ヒルです。
サン・ラ・オーケストラの異色テナー、ジョン・ギルモアを招き、クールなボビー・ハッチャーソン、そしてもちろん、ヒルのユニークなリズム、それら三者三様の個性が主張しながらも協調し合う、不思議な感覚があるアルバムだと思います。

ANDREW !!! / ANDREW HILL
1964年6月25日録音
ANDREW HILL(p) JOHN GILMORE(ts) BOBBY HUTCHERSON(vib) RICHARD DAVIS(b) JOE CHAMBERS(ds)
1.THE GROITS
2.BLACK MONDAY
3.DUPLICITY
4.LE SERPENT QUI DANSE
5.NO DOUBT
6.SYMMETRY

おまけ、
『料理当番、今日の一品』

今日はやっとこのあたりでも港に顔を出してきた『初鰹』です。
それがねぇ、味は良かったんですが、盛りつけに失敗しまして・・・・・
いちおう、鯵のたたきも添えて、ツマも自分で刻んだんですけどね・・・・・

 

あとは手を抜いて、『ポテサラ』と『大根煎り』でした。