昨日の家庭礼拝もよかった~(^^♪
昨日も主人が、GRのピーター牧師のメッセージを
まるで自分の説教かのようにシェアしてくれました。
出エジプト記33:12~34:7
モーセがイスラエルの民を連れて、エジプトを出て、
主の約束の地カナンに向かう途中、
神さまに呼ばれてホレブ山に登ります。
そして、モーセが留守にしたほんの1か月余りの間に、
イスラエルの民は偶像を作り、
拝むという罪を犯します。
モーセは山を下り、
民が大きな罪を犯したことを知り、
怒り落胆します。
そして、民を導くリーダーとしての自信を失うのです。
でも、神さまはそんなモーセに、
もう一度立ち上がって、
イスラエルの民を約束の地へ導けと励まします。
モーセはそんな神さまに二つのお願いをします。
一つは、道を教えてほしい、
そして道中ともにいてほしいということ。
もう一つは、神さまの栄光を見させてほしいということ。
神さまは、一つ目のお願いには、
喜んで応えてくださいました。
ところが「栄光を見させてほしい」
つまり、神さまのみ顔を見させてほしいとの願いには、
半分だけ応えられました。
モーセは、神さまのうしろ姿だけを見たのです。
神さまはおっしゃいました。
「あなたはわたしの顔をみることはできない。
人はわたしを見て、
なお生きていることはできないからである。」(33:20)
どうして人は神様のみ顔を見ることができないのでしょう。
それは神さまのご性質に関係があります。
「主は、あわれみ深く、情け深い神、
怒るのにおそく、恵みとまことに富み…」(34:6)
そう、神さまのご性質は「愛」なのです。
そして神さまの愛は、
自己犠牲の愛です。
人の罪を背負う愛なのです。
それは新約のイエスさまの十字架に具現化しています。
ですから、神さまのみ顔には、
人の罪と苦悩、病い、傷痕が満ちていたのではないか、
それはあまりに悲惨な姿で、
人にが見るには耐えがたいものだったと…。
そんな想像は許されるだろうか…、
ピーター牧師はそう言い、
涙で声を詰まらせていたといいます。
はい、主人もそこで泣きが入りました(^_^;)
神さまの愛、苦悩、栄光に、
圧倒されるような家庭礼拝の夕べでした。
感謝主!!
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