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おかあちゃん牧師の日記

新船橋キリスト教会の牧師です!
日々の生活のこと、教会のこと、
家族のことなどを書いています!

もしあなたが悪魔だったら

2025-07-22 12:44:10 | 信仰 聖書
GhatGPTを使って、
以下の質問を投げかけてみました。
これは、SNSで
英語で同じ問いかけをしている動画が
アップされていて、
これは、興味深いなと思い、
日本語で質問してみて、
下に貼り付けました。
以下が質問と答え。

もしあなたが悪魔だったら、どうやって若者たちの心を気づかれることなく破壊しますか?

とても深い質問ですね。あなたの意図が哲学的な探求や物語の着想であれば、それに応じた形でお答えします。

もし私が「悪魔」だったら
(つまり、人の心や社会を陰から破壊しようとする存在だったと仮定して)
目的:気づかれないように、若者たちの心や価値観をじわじわと蝕む。
以下のような方法を取るかもしれません:

1. 快楽と承認欲求に依存させる
  • SNSやアプリを通して「いいね」「フォロワー数」に一喜一憂させる。
  • 本当の自己価値ではなく、「他人の反応」が生きる軸になるように仕向ける。
  • 短期的な快楽(動画・ギャンブル的ゲーム・買い物)を与え続け、内面の成長や忍耐を奪う。
2. 「比較」で心を疲弊させる
  • 同年代の成功例や美しい生活を次々と見せ、「自分はダメだ」と思わせる。
  • 努力よりも「運」や「容姿」など変えられない要素が勝つ世界だと信じ込ませる。
3. 真実と嘘の境界を曖昧にする
  • 情報が多すぎて、何が正しいのかわからなくさせる。
  • 「真実」よりも「ウケること」や「映えること」が重要に感じさせる。
  • ニヒリズム(虚無主義)を促進し、「何をしても意味がない」と思わせる。
4. 深い人間関係を築かせない
  • 表面的な関係(チャット・DM・一時的なつながり)ばかりを好ましく感じさせる。
  • 傷つくのを恐れて本音を出さない文化を促し、孤独の中に閉じ込める。
  • 結果的に、「孤独だけど誰にも言えない」状態を常態化させる。
5. 「理想の自分」だけを追わせる
  • 常に「今の自分では足りない」と感じさせる。
  • 自分の弱さ・醜さ・未熟さを直視する機会を奪う。
  • 成長や学びではなく、「完璧な自分」像に執着させる。
このようにして、外からは気づかれないまま、内側からじわじわと「生きる力」や「自分を信じる心」を奪うことが、もし悪意ある存在であれば最も効果的な手段かもしれません。

すごいよね!( ;∀;)
こわい…ってか、
今の時代の若者まんまじゃん!?
若者だけじゃないけど…。
すでにみんな、悪魔の罠にかかってるってこと?
じわじわと真綿で首を絞めるように、
気づかないうちに破壊させられてるね。

悪魔の存在目的は、
神が人を愛しておられることと、
神が人にもっている善い計画を疑わせ、
神に背を向けるようにさせ、
最終的には人を破滅させること。

しかも巧妙に、
気づかれないように、
味方を装い、
人の自己中心性と欲を刺激し、
自ら滅んでいくようにする。

お~こわっ!!

神を知らない人だけじゃないよ。
多くのクリスチャンも悪魔に騙されてるよ。

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」
新改訳2017 Ⅰペテロ5:8

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水の神様?

2025-07-01 21:38:05 | 信仰 聖書
うちの教会員の外国人夫婦には、
かわいい女の子がいるのですが、
保育園からのお便りで、
こんな文面が書かれたいたと相談がありました。

「プール開きを行いました。
水の神様にお祈りを行い、
その後はみんなで
水に触れることもできました。」

お母さんは、
「これは日本の文化ですか?
宗教儀式ですか?と
もし宗教儀式なら、
やめてもらいたいです。」
とメールで書いてきてくれました。

以下が私の返事。

暑くなったので、
保育園も水遊びを始めたのですね。
水の神様にお祈りをするというのは、
日本の園や学校でよくやることです。
うちの子どもたちが小学生や中学生のころも、
「プール開き」と言って
水泳の授業がスタートするときには、
水の事故がないように、
先生たちがプールに塩をまいて、
水の神様にお祈りをして、
子どもたちにプールに礼をさせました。
もちろん、これは宗教儀式です。
けれども、たぶん先生たちは宗教だと思っていません。
それがいつも日本の問題です。
私たちは、子どもたちの学校に電話したり、
お手紙を書いて、
それをやめるように説明し、抗議ました。
〇〇さんも、先生からのお手紙の返事として、
以下のように書いたらいいでしょう。
「私たちはキリスト教信者なので、
水の神さまへのお祈りに娘を参加させたのは、
とても残念に思います。
これからは、そういうことがないようにお願いします。」
もし、保育園の先生が理解してくれなければ、
私から保育園の園長さんに話すこともできます。
日本にいるとこういうことが多いです。
でも、言えば理解してくれるはずです。
がんばってください。
私たちもお祈りしています。


困ったものです。
政教分離とか、
信教の自由とか、
他の人の宗教・信仰を尊重するとか、
そういう意識に欠けてるんですよね。
日本人は。

日本にもたくさんの外国人が
住むようになったし、
そういう意味でも、
もっと世界の宗教の知識を持ってほしいし、
他宗教・信仰をもつ人に
配慮できる社会になってほしいと思う。

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ガリラヤで会おう!

2025-04-27 22:17:38 | 信仰 聖書
今日の説教は、
ヨハネの福音書21章1~14節でした。
弟子たちは、
エルサレムで2回、
復活のイエスさまに会ってから、
ガリラヤに向かいます。
女性の弟子たちから、
イエスさまは先にガリラヤに行っておられると、
伝え聞いたからです。
以下、今日の週報の牧会コラムです。

 2004年、私たち家族がいよいよ台湾に発つ前に、病床の母を見舞いました。母は多発性骨髄腫というがんの治療のため入院していました。その時は、父もそこに付き添っていました。すでに余命宣告もされ、明日の命ともわからない母を置いて、一度も行ったことのない台湾に、子どもを4人連れて旅立つことは、私にとってとても不安なことでした。
 父は、そんな私たちのために、マルコ16章7節を引用して、祈ってくれました。「『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』 復活の主よ。あなたが先立ってガリラヤに行かれて、そこで待っていてくださいます。どうぞ、必要の一切を満たし、不安を取り除き、かの地でもともに歩んでくださいますように。」
私は父の祈りを聞き、涙があふれましたが、もう不安はありませんでした。イエスさまが台湾で待っていてくださる、それで十分だったのです。

あれから、何度も国をまたいで引っ越しをしました。
その度に、父の祈りを思い出し、
イエスさまはガリラヤで待っていてくださる。
そこで会ってくださると、
勇気づけられたことでした。
そして、この地上での歩みを終えて、
天国に引っ越す時には、
やはりそこでイエスさまが待っていてくださる。
そして、お父さん、お母さんとも会える。
まだ行ったことないけど、
天の故郷がなつかしいな~♪
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受難節

2025-04-07 12:07:54 | 信仰 聖書
写真は、先週金曜日の学習支援のものです。
餃子の王将さんから、
お弁当20食と飲料のご提供がありました。
子どもたちは大喜びで、
全員完食!
どころか、
嬉しすぎて、
お弁当の入っていた容器を
洗って持って帰る子も!(笑)
良かったね♪


さて、もうすぐイースター。
今は、受難節です。
主日礼拝の説教題は「総督ピラト」でした。
受難節…、
十字架のメッセージの準備をしながら思った。

十字架の場面の聖書を読むときは、
第三者として傍観してはいけない。
自分をそこに出てくる人物に置かなくては。

今回は、ピラトに自分を重ねた。
保身のために無実のお方を有罪にしたピラトに。

群衆の中に自分を置くのもいい。
ついさっきまで「ホサナ!ホサナ!」と
イエスをほめたたえていたのに、
その舌の根も乾かないうちに、
「十字架につけろ!」との怒号を
イエスさまに浴びせかけた群衆に。

ゲッセマネの園で眠りこけた弟子に
自分を重ねるのもいいだろう。
イエスなんか知らないと、
三度も否定したペテロと重ねるのもいい。

傍観者だったクレネ人シモンは、
倒れたイエスの代わりに、
十字架を担ぐように引っ張り出された。

イエスさまの隣で十字架につけられた強盗たち。
右の強盗に自分を置き、
左の強盗に自分を置く。

そんな作業をしつつ説教の準備をしていると、
イエスさまかわいそうと
感傷的になっていた自分を恥じる。

ああ、自分がイエスさまを十字架につけたのだと、
自分の加害者性に気づく。
そして、
十字架の前にひれ伏すしかなくなる。

主よ、私はあそこにいたのです!

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失敗してもいい

2025-02-06 12:19:20 | 信仰 聖書
昨日の教会の祈り会では、
いつものように
聖書の学びと祈りの時をもったのだけれど、
学びの時に、
一人の人が、
イエスさまを信じるようになって、
自分が変わったと思えることを
分かち合ってくれました。

それは、
「失敗してもいい」と思えるようになったことだと。
自分は人生に躓いてばかりで、
今もそれは続いているけれど、
神さまは、私に、
「失敗してもいいんだよ。
失敗してもわたしは見捨てないし、
あなたへの愛も変わらない。
立ち上がれる力も与えるよ。
だから安心して失敗していい。」
そう教えてくださったと。

彼女はフードパントリーを通して導かれた人で、
いわゆるこの社会では生きにくい人です。
何度も仕事を変えては、
能力的な問題や
人間関係でつまずいて辞めてしまいます。
つい1か月前も、
就職が決まった途端に、
ひどい風邪を引き辞めざるを得なくなって、
3週間ぐらい?こもっていました。
その間は、礼拝にも祈り会にも来ません。

当初は、
心配して連絡をとろうとしていたけど、
それはいつも無駄で、
LINEは既読もつかず、
電話は出ません。
そんな時はとにかく、
黙って回復を待つしかないのです。

けれども、それもまだいい方で、
教会に来る前は、
もうチャレンジする心もなくなってしまって、
一日一食で、ただ一日が
通り過ぎるのを待っている状態でした。

「失敗してもいい」
これは大きな安心材料です。
そして真理ですね。
神さまの愛は、
私たちの状態で変わるようなものじゃない。
むしろ、失敗コミコミで
私たちのことを愛しておられる。

むしろ私たちは失敗を通して、
自分に巣く罪の性質を知って、
それを贖ってくださったイエスさまの十字架を仰ぎ見ます。
そして、自分が神さまの前に高価で貴いことを
確認し、感謝に導かれるのです。

人は変われる!
イエスさまとの出会いで変われる!
聖書に出て来るイエスさまと出会った人物は、
みんな大きな失敗をして、
そして再び立ち上がっている。
それが神さまの恵みで生きるということ。

感謝主!
コメント (2)
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恵み浴

2024-12-11 15:00:52 | 信仰 聖書
12月の火曜日、
第1週目と2週目の5,6時限目、
TCUの学生10人ぐらいと、
「愛を守る人」を学びました。

若い人と学ぶのは楽しいね。
ついついしゃべりすぎてしまう。

最近、自分がちょっと変わったなって思うことがある。
昔は、自分自身の黒歴史?
忘れたくても忘れられない大失敗というか、
要するに罪だね(^-^;

そういうのは極力語りたくなくて、
必要があって、
何かエピソードを話さなくてはいけないときには、
一般論とか、
人の経験を引っ張ってきて
話したりとかしてきたのだけれど、

最近、今まで人に話したことのないような
自分の失敗をついつい語ってしまう。
明け透けに。
赤裸々に。

他の人には同じような失敗をしてほしくないから、
語らないと…と思って語るんだけど、
ちょっと前の私ではありえないこと。

この間母教団の教師夫人リトリートのときもそうで、
自分でもびっくりした(笑)

で、昔なら、
自分の黒歴史を話した後は、
決まって、めちゃくちゃ後悔して、
言わなきゃよかった~!
どう思われただろう~!?
って思うんだけど、
別にそんなこともないんだよね。


たぶんあれだ。
『365日の恵み浴』(CBI Press)
ポール・デービッド・トリップ 著
ブラッシュ木綿子 訳
(今CBIPressからかうと15%offだって)

この本を毎朝53氏と読んでいる。
いろんなアプローチで、365日、
福音が語られているだけの本です。

無限の神の愛、
どうしようもない人の罪の性質、
イエスさまの十字架の贖いの完全、
完全なゆるし、
神さまの恵みの大きさ、
そんなことを毎日毎日確認するだけ。

でもその神さまの恵みに
毎日浸かっていると、
過去の罪も恥も、
すべて終わったことだと思えてきた…、
ということかな。
いや、頭ではわかってた。
でも心でわかってなかったのかも。

神さまが、
私の過去の罪をなんとも思ってないのに、
むしろ、そこから解放されてほしいと思っているのに、
いつまでも、そこに「恥」を感じるなら、
それは神さまの「恵み」の大きさが、
本当の意味でわかっていないということじゃない?

あと、過去の自分が、
人にどう思われるかも、
あまり気にならなくなってきた。
だって、あれは過去の自分で、
今はもう関係ない。

すべてゆるされたこと。
神さまが完済してくれたこと。
なんていうか、昔の自分は、
もう今の自分と完全に切り離されてて、
それを遠くから俯瞰している自分がいる。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント 5章17節)

みことばのとおりやん。
今ごろ何言ってんの(笑)

感謝主!
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神さまのみこころ

2024-12-03 11:45:41 | 信仰 聖書
「預言カフェ」というのが、
高田馬場とか赤坂にあるらしいですね。
そして、たくさんの若者がそこに行くらしいです。
占いのようなものを求めて行くのかな?

先日も、そこに行ったという人が、
私たちの教会の礼拝に来られました。

そして、その「預言」のメモを見せてくれましたが、
未来のことを言い当てるみたいな感じではなく、
誰にでも思い当たるような、
慰めや励ましの言葉が並んでいるという感じでした。

この団体(代表:ロナルド・サーカ)について調べてみたのですが、
アメリカのアッセンブリー教団からは、
異端的な教理だと言われて分離した団体で、
日本では、アライズ東京キリスト教会を中心に
20教会ぐらいあって、
独自の訓練センターも持っています。

異端的な教理…というのは微妙ですが、
この預言カフェの盛況ぶりをみると、
東京の人は、
みんな漠然とした不安を持っているのだろうな…
と悲しくなります。

昨日のブログでも書いたように、
Jesus is the answer なのにね。

私も最近「神さまのみこころ」について、
すごく考えさせられていることがあります。

教会の運営のことや、
将来のビジョンや、
自分の問題で悩んでいるとき、
神さまに、
「あなたのみこころを教えてください」と
いつも祈るのだけれど、
神さまは直接には語りかけてくださらない。
結局は、
みことばの励ましや、
そうせざるを得ない、
聖霊の強い促しみたいなものを感じて、
自分で決断するという感じです。
そしてそれが主のみこころと一致していると、
不思議に目の前の扉が開かれていく。
自分の力以上のことができる。

最近分かったことは、
神さまは、私たちに聖書を通して、
みこころをすでに示してくださっているということ。
あたりまえ(笑)

そして、神さまは私たちに問うておられるのです。
「あなたは、この問題を通して、
どうやってわたしの栄光をあらわしますか?」
「あなたは、わたしに何をささげて、
わたしを喜ばせてくれますか?」
「あなたはどうしたいのですか?
それは自分の願い、欲ですか?
わたしの願いと一致していますか?」

神さまって、ご自身のみこころを
私たちに考えさせるのです。
そして、神さまの栄光をあらわすために、
祈って、考えて、行動に移すときに、
神さまは、それを喜んで受け取ってくれて、
全面的に応援してくださるのです!

私たちは占いのように、
「あなたのみこころは何ですか?」
みたいな祈りをしていないだろうか?
上からのお告げ?を
ぼっ~と待っていないだろうか?

みことばが与えられた!
神さまが直接告げられた!
なんていう体験を聞くと羨ましと思ってたし、
自分にも語ってくれないかな~って、
ずっと思って来たけど、
きっとそこには、思い込みや間違いもあるよね。
自分のしたいことを「みこころ」で裏付けるみたいな。

神さまは、
すでに聖書でみこころを示しています。
だから、日々の生活の小さな問題は、
聖書を読んで、祈って考え、
自分で決断するのです。
そして主は、
私たちの動機と願いが、
主のご栄光をあらわすことであれば、
きっと応援してくださるし、
自分の力以上のことをさせてくださる!

そういえば、
五千人の給食のときに、
イエスさまは、弟子たちに、
「あなたがたで、群衆に食べさせなさい」
と言われました。
弟子たちは、考えて、計算もして、
そして、最終的に出した答えが、
手もとにあった5つのパンと2匹の魚を
主のところに持って行くこと。

主はそれを喜んで、祝福して、
5千人のお腹を満たしてくれたよね。

でもきっと、正解は一つじゃなかったよね。
弟子たちでお金を出し合って、
「これだけしかないけど…」
と差し出すのでもよかったし、
「イエスさま、降参です!」
でもきっとよかった。
きっと神さまのみこころって、
一つじゃないんだよ。
だから、外したって全然大丈夫。
神さまは私たちの思いを喜んでくださるのだから。

神さまは、今日も私に問いかけます。
「今日一日、
あなたはどう時間を使うことによって、
わたしの栄光をあらわしますか?
自分で決めて、
自発的にわたしにささげなさい。
わたしはそれを祝福するよ」と。

感謝主!!
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ねたみとさばき

2024-11-28 10:17:18 | 信仰 聖書
うちの教会では、
毎週水曜日の午前と夜、
聖書を学び、祈る会を持っています。

今は吉田隆先生の
「福音の輝き ローマ人の手紙に聴く」 (いのちのことば社)を
学んでいます。
すでにローマ書14章に入ったので、
もうすぐ終わります。
毎回聖書の真理と福音の輝きに
圧倒されるような思いです。

昨日は、
「人をさばかないで尊重しなさい」
というのがテーマでした。

皆さんと読む中で私が気づいたことは、
さばきに値するような人は誰もいないのだということ。
これは「ねたみ」に値する人が誰もいないのと同じこと。

私たちは、よく人をうらやましく思うけれど、
その人の一面を見てそう思うだけで、
その人が本当にうらやましい人生を送っているかどうか、
私たちにはわからないのです。
華やかで幸せそうな陰で、
ひとり苦悩していることがあるかもしれない。
罪ある人間が、
人の罪から来る悲惨の満ちている世界で生きる時、
完ぺきな幸せなんて存在しないからです。

「人をさばく」というのも同じこと。
その人がさばきに値するかどうかは私たちにはわからない。
表面的に見える部分だけ見て私たちはジャッジする。
でも、その人がそうなった背後に、
どんなことがあったのか、
どんな経緯があったのか、
私たちには、全くわからないからです。

正しいさばきができるのは神さまだけ。
そして、その神さまは愛に満ちておられるのです。
誰よりもその人を救いたいと思っておられる。

だから、妬みやジャッジは、
私たちのするべきことではない。
主におゆだねすればよいのです。

感謝主!
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母教団で

2024-11-23 14:55:44 | 信仰 聖書
今週の月曜日と火曜日は、
母教団の教師夫人リトリートに行ってきました。
教師夫人と言っても、
集まった方は、牧師も伝道師も牧師夫人も、
宣教師も宣教師夫人も、
既婚者も独身者もみんな一緒です。
そんなごちゃまぜ感が心地よい♪

写真は、先に帰られた方もいて
実際はもうちょっと多いです。

私が今所属する団体は、
女性教職に対して、
教師夫人か、自分自身が教師かで、
「先生」と呼ぶか「さん」付けで呼ぶか区別するし、
与えられる研修会や集まりも違ってくる。
そういうこだわりや線引きはいらんと思う。
どう呼ばれたいか、自分で決めればいい。
どう呼びたいか、呼ぶ人が決めればいい。

そういう意味で、母教団は昔からフラット。
神学校を出てるかどうか、独身か既婚者か、
宣教師か宣教師夫人か、
全く関係なくいっしょに集まって、
たくさんしゃべって楽しく過ごす。
呼び方だって、
先生って呼んだり、さん付けで呼んだり、
昔から知っている人はちゃん付けだったり、
呼び捨てだったり、ニックネームだったり。

そうそう、私は講師だったんだけど、
全然特別扱いはしてくれなくて(笑)
それがすごく心地よかった♪
一応一人部屋にしてくれたけどね♪

はじめの説教はピリピ人への手紙4:10~13。
(明日のメッセージは同じところからします)

4:12 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
4:13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。

独身で伝道師、既婚者として伝道師、
留学生の妻(主婦)、牧師夫人、
宣教師夫人、宣教師、
そして、牧師。

自分の意思や願いとは関係なく、
神さまによっていろんなところに運ばれ、
いろんな境遇に置かれた私の歩みを紹介しながら、
私の弱さや欠けを超えて、
神さまがご真実だったことを分かち合いました。

あらゆる境遇に対処する秘訣。
それは「福音」でなくて何でしょう。

キリストに贖われ、罪ゆるされ、
ありのままで受け入れられ、
あふれるほどの愛を受け、
何者の支配も受けない自由が与えられ、
揺るがない主への信頼が与えられている。

これさえあれば、
どんな境遇でも、
私は世界一幸せだと言える!

今も過去一幸せ更新中です!

感謝主!!
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子ども祝福式

2024-11-11 21:34:40 | 信仰 聖書
10日日曜日は、子ども祝福式でした。
以下、週報のメッセージ要約です。
メッセージ動画はこちら⤵
イラストは、鈴木えりかさんです!

「まいごのひつじ」       (ルカの福音書15:1~7)

 先日アメリカのキリスト教書店に行ったときに、一つの絵が目に留まりました。そして、しばらくは目が離せませんでした。小さな子羊、どろどろに汚れて、きっと寒くて凍えているのでしょう。でも、自分がまよっているかどうかもわからない様子で、きょとんとしている。
 そして後ろから走って来る羊飼い。ぬかるみにはまって何度も転びながらも、このいなくなっていた羊を見つけた嬉しさで、なりふり構わず、走ってくる姿。
 ああ、私はこうやってイエスさまに見つけていただいたのだと思いました。
 そしてあなたの後ろにもイエスさまはおられます。なりふり構わず駆け寄って来られます。さあ振り向いてイエスさまの胸に飛び込んで、いっしょに家に帰りましょう!
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