おかあちゃん牧師の日記

新船橋キリスト教会の牧師です!
日々の生活のこと、教会のこと、
家族のことなどを書いています!

2024-07-05 10:24:26 | 信仰 聖書
アダムが神さまの言いつけを守らず、
善悪の知識の木の実を食べた時に、
人に罪が入った。
そして人は、
自分が裸なのを知り、
木の葉っぱで隠した。
また、神からも身を隠した。
こうして人に「恥」が入ったと言われる。

最近、この「恥」というワードが、
アメリカをはじめとするキリスト教界で、
ちょっとしたブームなのだろうか。
よく「恥」という言葉を聞く。

だけど、私はずっと、
日本語の「恥」と、
訳本の信仰書などで見られる「恥」とが
一致しない気がして、もやもや。

でも、昨日TCUで、
ケン・シゲマツさんの講演会があって、
ご自身の著書『もう、自分を隠さない』
 ~恥を癒すおおいなる恵み~
の内容を紹介してくださいました。

その講演会で、最初に、
「恥とは、自分は十分ではない、
足りていない、
ふさわしくないという恐れです」
と説明をしてくださって、
ああそういうことかと、
ストンと落ちました。

人は恥を持っていると、
不安になり、落ち込み、
時にオーバーワークになる。
オーバーワークは、
何とか、自分のことを評価してもらおうと、
自分の限界以上のことをしようとすること。
また、極端にいい人になろうとする。
これも恥から出ていることらしい。

要するに、
ありのままの自分を恥じており、
自分を等身大に受け入れられない。
自分を過小評価したり、
過大評価するするということ。

恥から解放されるために必要なことはひとつ。
それは、神の愛で満たされること。
神の愛はいつも変わらずにあるのだけれど、
私たちの罪の性質は、
それを十分理解できず、
受け止められない。

神さまは、
マスクをし、着飾り、武装した私たちではなく、
どんなに欠けだらけでも、
弱さを持っていても、
どうしようもなく罪に傾く性質を持っていても、
ありのままの私たちをを愛している。

私たちの罪の性質は、
簡単にはこれを受け入れられないので、
習慣的に自分に語りかけることが大事。
ケン先生は毎朝、
「これは私の愛する子、
私はこれを喜ぶ」と、
3回自分に語りかけるのだと。

人は自分の力で、
恥を取り除こうとしても無理。
神の愛でいっぱいになるときに、
恥は自然に居場所を失っていく。

はい、そんな内容でした。
だいぶ脚色あります。
本も買ったので、
あとでじっくり読みます!
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主とともに歩む

2024-06-30 23:16:14 | 信仰 聖書
6月30日、今日の説教のテキストは、
創世記5章全体。
今日の説教から一部を抜粋します。


 私たちの教団の北海道苫小牧で伝道、牧会しておられる水草修治先生という方がおられます。先生は『失われた歴史から』という著書の中で、エノクが取り上げられた時のことを美しく描いていたので、皆さんに紹介しましょう。

「ある日、エノクさんが野を散歩していました。いつものように神とともに語らいながら行く道はなんと楽しいことでしょうか。時がたつのも忘れて語らううち、気がつくともう夕日が西の山の端に近づいています。神がおっしゃいました。『エノク。今日はずいぶん遠くまで歩いてしまったようだ。少し早いが、家に来ますか。』エノクは『そうですねえ。そうさせていただきましょうか。』こうして、神がエノクを取られたので、彼はいなくなったのでした。」

 神とともに歩む人生は、この世界で生きることと、御国で生きることの境をなくします。人がこの地上で生きる時、生活の苦労、学業の苦労、人間関係の苦労、子育てや老後の衰えの苦労、病気…、多くの苦労があります。けれども、神さまと共に歩む楽しみと喜びとは、それらの苦労を忘れさせ、苦労を上回る喜び中を生きることができるのです。それを体験したエノクにとっては、地上と御国の境はもはやなかったのでしょう。聖歌467番に「みくにのここちす」という賛美がありますが、こんな歌詞です。

悲しみ尽きざる 浮世にありても 日々主と歩めば 御国の心地す
ハレルヤ! 罪 咎消されしわが身は いずくにありても 御国の心地す

 イエスさまの十字架によって罪ゆるされた私たちは、聖霊によって、この地上にあっても、いつも主と共に歩むことができます。そして地上の生涯が終わるときに、私たちはエノクのように、主によって、そっと御国に移されて、主と共に永遠に生きるのです。ある人が、死ぬことは「お引越しだ」と言いました。この世から御国への引っ越しです。それにしても、御国の方がだんだんにぎやかになって来ました。私たちもお引越しの準備をする必要がありますね。それは今日も主と共に生きることです。

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神とのコミュニケーション?

2024-04-23 14:36:31 | 信仰 聖書
お野菜?
はい、金曜日の朝も、
飛び込みで、
別の農家さんにお願いして、
規格外のキャベツ16玉、
ご提供いただきました!
本当に、世の中捨てたものではないです。
日曜日の「フードシェアしんふな」も祝福され、
たくさんの方に食料をご提供できました。

話しは変わって…、
日曜日の礼拝では、
創世記の3章からのメッセージでした。
人類に罪が入ったところです。

罪というのは、
「行動」ではなく「状態」。
私たちは、神に向き合って生きるように造られたのに、
神を退け、無視し、反抗し、
神を神として認めない。
それは、神に背を向けている状態。

ハイデルベルグ信仰問答によると、
「この根源的な腐敗のゆえに、
人間は善に対して全く無能となり、
あらゆる種類の罪を生ぜしめるように、
悪に傾いている

罪に対して、
何もできない私たちは、
何もできなことを認めて、
そのまま、罪あるままの状態で、
神にもう一度向き合うことが
求められている。

そうすれば、
イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、
罪ある存在がまるごと受け入れられ、
義の衣で覆われ、
罪のないものと見なされる
それだけではなく、
神の子どもとしての身分が与えられる。
つまりそれは、
神とのいのちのつながりができるということ。
ハレルヤ!!

これは何度もすることじゃない。
1回の決心で、すべてのことは起こる。
昨日は神の子どもで、
今日は違うということはない。

けれども人は罪を犯し続ける。
善に対して無能で、
いつも悪に傾くのは変わらない。
義で覆われただけの罪人だから。

だから、罪を犯すたびに、
はやり主の御前に出る。
それは何も、
分割払いのように、
罪という借金を返していくことを意味しない。
私たちの罪は、
イエスさまによってすでに全額返済済み。
一括払い。

ではなぜ、
私たちは自分の罪を自覚し、
神さまに告白し続ける必要があるのか。

それは…、
53師いわく、
「神とのコミュニケーション」だって。

神さまがお嫌いになる罪を持っているときに、
人は神から隠れる。
恥とやましさを感じ神に向き合えない。
せっかく神の子どもとされても、
神との愛の交わりをエンジョイできない。

だから、私たちは今日も主の御前に出る。
「神さま、またやっちゃった、ごめんなさい」
「大丈夫、大丈夫、
あなたの罪はもうゆるされているからね。
安心していいんだよ。
よく告白できたね。」

こうして私たちは、
いつも両手を広げて、
私たちを待っていてくれる神を信じて、
その胸に飛び込んでいける。
神のふところで憩うことができる。
そして心は晴れやかで明るくいられる!

そして、この繰り返しで、
私たちはますます神の愛がわかり、
いつでも受け入れてくださる神さま、
いつも私を喜んでくださる神さまを体験し、
安心して、
喜んで、
生きることができる。

だから日々の悔い改めは、
神との信頼関係を深めるための
コミュニケーション!

感謝主!
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キャンプ奉仕終了

2024-03-31 21:26:54 | 信仰 聖書
今日の牧会コラムから

 皆さんにお祈りに支えられて、松原湖バイブルキャンプの小学生キャンプの講師として奉仕してきました。
改めて思わされたことは、子どもの信仰の成長のために、キャンプは欠かせないということです。
例えば、子どもたちが教会学校に毎週欠かさずに来たとしても、うちの教会学校は一回30分なので、1年でもせいぜい26.5時間に過ぎません。ところがキャンプは、この1年分をはるかに上回る時間を霊的養いのために費やします。
 また、子どもたちは、同年代の子どもたちと寝食を共にし、大好きな賛美を思い切り、心行くまで賛美し、子どもの年齢に合ったみことばの解き明かしを聞き、多くのチャレンジを受けます。そして、同年代の友だちや同じような環境にいる友だちと悩みや課題を分かち合い、お部屋のカウンセラーと一対一で、丁寧なカウンセリングを受け、祈りを導いてもらいます。こうして、子どもたちの心は神さまに触れられて、大きな信仰のステップアップを遂げるのです。
 特に今回私が奉仕した小学生キャンプでは、聖霊が力強く働いてくださいました。子どもたちは最後の晩、涙を流して主の前に進み出て、それぞれの信仰の決心をました。また、約40名の参加者が一つになって、肩を組んで賛美し、感動を抑えられずに、お互いハグし合う姿に、聖霊による強い一体感を感じました。
 しかしながら、キャンプは子どもたちにとってクライマックス。それぞれの教会での地道な信仰教育と牧会があってのクライマックスです。これからも地道な教会学校の活動を続けていきたいとも思わされたことでした。

今日のイースターファミリー礼拝の説教は、
子ども向けのお話しだったので、
私がキャンプでしたお話を
コンパクトにまとめて話しました。
よろしかったらどうぞ♪


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宿題

2024-01-30 12:47:16 | 信仰 聖書
昨日は、オンラインで部会だったんだけど、
あっ、部会ってテニス部とかバレー部とかの部じゃないよ。
教団の局の下にある部ってこと。

会議は別に楽しくもないんだけど、
4時間ぐらいの会議だったかな?

オンライン会議でミュート外しておくと、
しゃべりすぎるからあかんね。
私の場合。
今どき、会議でべらべらしゃべる人おらんからね。
後で後悔…。
これもいつものことだけどね。
今度はちゃんとミュートして、
しゃべるときにはミュートを外すという
ひと手間を入れることにしよう。

それはどうでもいいんだけど、
会議の後に、
局長の聖書のおすすめがあり、
それがとてもよかったのでシェア。

聖書箇所は、ネヘミヤ記4:16~21
その日以来、私の配下の若い者の半分は工事を続け、もう半分は、槍、盾、弓、よろいで身を固めていた。隊長たちがユダの全家を守った。城壁を築く者たち、荷を担いで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を握っていた。築く者はそれぞれ剣を腰にして築き、角笛を吹き鳴らす者は私のそばにいた。私は有力者たち、代表者たち、およびそのほかの人々に言った。「この工事は大きく、また範囲は広い。私たちは城壁の上で互いに遠く離れ離れになっている。どこででも、角笛が鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」 こうして私たちはこの工事を進めたが、その半分の者は、夜明けから星が現れるまで槍を手にしていた。

城壁再建にいそしむイスラエルの人たち、
だけど敵がいつせめて来るからわからないから、
片手に槍を握り、片手で作業を続けた。
やりにくいし、効率は悪いし、大変。

それは人生における神さまの「宿題」のよう。
人生、スムーズにいかないことばかり、
どうして自分の身にこんなことが降りかかるのかと
思うことが多い。

だけどそれは神さまからの宿題。
この困難な状況の中で、
あなたはどうやって、
神さまのみこころの道を歩みますか?
この人生の障壁を前に、
どうやって神の栄光をあらわしますか?
神さまは、
私たちに宿題を与える。

そう、五千人の給食の時に、
神さまは弟子たちに、
「あなたがたが、
あの人たちに食べる物をあげなさい。」
と言われたイエスさま。
これは弟子たちに与えた宿題。

弟子たちは考える、
話し合う、
計算する、
周りを見渡す。
あるものに目を留める。
あるものをイエスさまに持っていく。

あるものをイエスさまに持って行く。
それが宿題の答えだったのかな?

私たちも試練のときに、
それを神さまからの宿題と思いなさいと。

宿題は大事。
私たちは繰り返しドリルをやって、
漢字を覚え、
計算問題をして、
学力をつけていった。

同じように、
神さまからの宿題をする中で、
私たちの信仰は成長する。

どうやったら、
この状況で、
神のみこころに沿った
よい生き方ができるか。

どうやったら、
この試練の中で、
最大限に神の栄光をあらわすことができるか。

私たちは、
今日も神さまの宿題に取り組む。

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キャンドルライトサービス

2024-01-03 14:42:32 | 信仰 聖書
キャンドルライトサービスは、
神山みささんのコンサートからヒントを得て、
「戦争をやめた人たち」という絵本の朗読を入れました。
今年のクリスマスは、
どうしても「平和」を扱わなくてはいけないと思ったから。

メッセージの最後に、
アッジシのフランチェスコの祈りを
共に祈りました。

「主よ、わたしを平和の器とならせてください。
  憎しみがあるところに愛を、
  争いがあるところに赦しを、
  分裂があるところに一致を、
  疑いのあるところに信仰を、
  誤りがあるところに真理を、
  絶望があるところに希望を、
  闇あるところに光を、
  悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
  理解されるよりも理解する者に、
  愛されるよりも愛する者に。
  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
  許すことによって赦され、
  自分のからだをささげて死ぬことによって
  とこしえの命を得ることができるからです。」 
アーメン

「地の上に平和が、みこころにかなう人にあるように」(聖書)
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聞くドラマ聖書

2023-12-15 12:52:38 | 信仰 聖書
俳優の大浦龍宇一がクリスチャンになったきっかけ

「聞くドラマ聖書」のルカの福音書の
ナレーションをしていた大浦龍宇一さんが
クリスチャンになっていた!

私の車通勤の友「聞くドラマ聖書」。
聖書が単なるストーリーでも歴史書、宗教書でもなく、
魂を救う力があるなら、
この声を演じている俳優さんたちが
救われなかきゃうそだなって思ってた。
そしたら、やっぱり
救われた人がいたのね!
感動です!
ハレルヤ!
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水野源三さん

2023-12-07 22:02:08 | 信仰 聖書
悲しみよ ありがとう

今日は、
バイブルクラスと祈り会の合同クリスマス会でした。
上の動画をみんなで見て、
その後で水野源三さんのクリスマスの詩を
味わいました。


「救いの御子の降誕を」

一度も高らかに
クリスマスを喜ぶ賛美歌を歌ったことがない
一度も声を出して
クリスマスを祝うあいさつをしたことがない
一度もカードに
メリークリスマスと書いたことがない
だけどだけど
雪と風がたたく部屋で
心の中で歌い
自分自身にあいさつをし
まぶたのうらに書き
救いの御子の降誕を
御神に感謝し喜び祝う

(水野源三著 「こんな美しい朝に」より)


 「瞬きの詩人」と言われた水野源三さん(1937年-1984年)は、9歳の時に赤痢による高熱が原因で脳性麻痺になり、目と耳以外のすべての機能を失いました。意思表示の手段は瞬きをすることだけでした。
 源三さんのお母さんはパン作りを覚えて、パン屋をします。そして時々そこに町の牧師さんが買いにくるようになり、家の奥に気配を感じた牧師は、誰がいるのかを訪ね、源三さんに出会うのです。源三さんは、牧師の訪問を受けるようになり、もらった聖書を読むようになりました。また、ラジオのキリスト教放送を聴き、また通信教育も受けて、やがてイエス様を信じるようになりました。
 そして、47歳で召天するまで、その純粋な心から溢れ出る思いを、美しい詩や短歌、俳句などに表しました。最初はお母さんが、お母さん亡きあとは、弟のお嫁さんが、「あいうえお」の表を指差し、その文字に来た時に源三さんが瞬きして合図するという方法で、一つ一つの作品を作っていきました。

源三さんの死の中に
「生きる」っていうのがある。

神様の
大きな御手の中で
かたつむりはかたつむりらしく歩み
蛍草は
蛍草らしく咲き
雨蛙は雨蛙らしく鳴き
神様の
大きな御手の中で
私は
私らしく
生きる

瞬きしかできない源三さんが、
「私らしく生きる」って言えるって、
すごいことだと思う。
生きることへの意欲が半端ない!

誰でも、
その人らしく創られている。
神さまとの関係が正常化すると、
その人のその人らしさがが輝く。

そして、その人らしさを
神さまは愛してくださっている。

人と比べなくていい。
何にもできないと自己卑下する必要もない。

私は私らしく。
神さまは私らしさを
全肯定しておられるから。
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罪は人を傷つける

2023-12-04 20:49:47 | 信仰 聖書
テンプレートを変えてみた。
天使はなぞだけど、
教会とステンドグラスがいいかな?

最近の私のテーマ。
「罪は人を傷つける」
罪は人も傷つけるし、
自分も傷つく。

神さまはなぜ罪がお嫌いか。
それはもちろん、
神さまの義なるご性質反しているからなんだけど、
罪が神が愛する人々を傷つけるからかもしれないなと。

罪というのは、
神さまを認めない、
無視する生き方だとよく言われる。

それも本当にそうで、
神さまに背を向けて生きるとき、
人は暗闇の中に生き、
暗闇の行いにふける。
抜け出したくても
自分の力ではどうしようもない
泥沼に落ち込んでいく。
そして自分を傷つける。
行き着くところは破滅。

罪っていうのは、
これをした、
あれをしたということ以上に、
神さまから離れている状態のことを言う。

罪の中にある幸せや満足は、
全部見せかけで、偽物、一時的なもの。
最後に残るのはむなしさと孤独と
深い落ち込み。

人は神さまとの交わりの中に生きるときに、
本当の幸せと満足を得る。
そのように創られているから。

神さまの愛を受けとって、
神さまの愛に憩う時に、
人は本来の人間性を取り戻す。
その人の個性が豊かに現れる。

だけどこの罪は、
人間の力ではどうにもできない。
どんなに封じ込めようとしても無理。
一人で戦ってもいつも完敗。
一時的に勝つことはあっても、
気が付けば元の木阿弥…。

だから神さまは、
イエス・キリストを私たちに送ってくれた。
人間の罪をその身に負って、
罪の代価を支払ってくださった。
最近「十字架の贖罪」を
言わない「キリスト教」が、あるらしい。
そんなキリスト教いらんわ。

そして死んでよみがえられたイエスさまは、
完全に私の味方になった。
そしていっしょに罪と戦ってくれる。
罪は私とイエスさまの共通の敵。
罪は人を傷つける。
イエスさまは傷く私を見たくない。
だから、いっしょに戦ってくれる。

イエスさまがいっしょなら、
絶対に負けない。
どんな罪も克服できる。

問題は、
イエスさまを受け取ったのに、
まだ一人で罪と戦っていること。
イエスさまの手を借りないで
自分で何とか克服しようとしていること。

それと、
自分がまだ罪の側にいるって思っていること。
神さまは罪ある自分に苛立っている、
罪ある自分を拒絶していて、
怒っていると思っていること。

違う。
神さまは、
イエスさまは、
私の味方。
罪はあっち側。

罪に引き込まれそうになったときには、
すぐに、
すぐにイエスさまを呼ぶこと。
いっしょに戦って~!って、

そしたら、
イエスさまが私の前に立ってくれて、
罪と戦ってくれる。
本当に。

やってみて、ね♪
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成功の追求 「違った生き方!」

2023-06-27 20:31:58 | 信仰 聖書
成功の追求 「違った生き方!」

イエス様を信じると決めた時に、
新しい人生が始まったと思いました。
全く新しい人生。
もう自分の幸せのために、
自分の満足のために生きるというのではなくて、
神様が与えてくれた人生を
イエス様の力とともに
イエス様の福音といっしょに生きていって、
神様さまのためにその人生を
生きていくっていうふうに変わったと思いました。

私の今までの生き方は、
自分のやったことに関して
そこにアイデンティティを持っていました。
 だから、その自分のしたことが
他の人から評価されること、
他の人から価値をもらうことが、
私の今までの人生の生き方でした。
でも、福音を信じてから、
イエス・キリストの福音を信じてから、
 私がすることではなくて、
イエス様がもうすでに
十字架の上でしてくださったことが、
私のアイデンティティになりました。

だから、イエス様が、私を通して
成し遂げてくださったこと、
私のために罪をゆるしてくれて、
復活を通して私にいのちを与えてくださったこと、
それが私の生きる意味となりました。

だから、神様が私をどう見てくださっているか、
神様がどれだけ私を愛してくれているかということが、
私のアイデンティティになったので、
もうそんなに、必死に、無理をして
がんばる必要がなくなりました。

今はすごく、
どんなことをやっていても本当に、
自分のためにがんばるのではなく、
他の人のためとか、
神様のためにがんばることができるので、
神様の栄光のためにがんばることができるので、
もう、その辛さとか、
苦しさというものはなっくなったと思います。
平安があります。


あんまりよかったので、
思わず、文字起こしをしてしまった。

クリスチャンが、
「福音に生きる」というのは、
どういうことなのか…というのが
私のテーマだし、
うちの教会のテーマなので、
うんうん、そういうことだよねと、
感動をもって、
心から同意します!!

感謝主!!

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