おかあちゃん牧師の日記

新船橋キリスト教会の牧師です!
日々の生活のこと、教会のこと、
家族のことなどを書いています!

アイデンティティ

2024-09-24 20:59:52 | 信仰 聖書
アイデンティティは、
「自分らしさ」や「自己同一性」を
意味する言葉です。
アイデンティティを確立するということは、
「自分は何者か」
「自分は何のために存在しているのか」
などの質問に、
答えられるということかな?

聖書のガラテヤ書2章19~20節にはこうある。
「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」

「もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです」
この意味が、私は長くわからなかったけれど、
最近になってやっとちょっとわかってきた気がする。

これはつまり、
私のアイデンティティが、
自分ではなく、
キリストにあるということ。

例えば、
誰かから拒絶されたり、
否定されたり、
傷つけられたとき、
その痛みを
自分ではなく、
実はキリストが、
全部引き受けてくださっているということ。
だから私は傷つかなくていい。
だから人間関係が大胆になれる。
体当たりできる。

目の前の、
自分では乗り越えられないような壁があるとき、
自分でそれを乗り越えることは、
絶対不可能だけど、
私の内に住むキリストには、
できないことはないから、
God can do anythingだから、
きっと乗り越えさせてくださると信じていい。
だから何事もチャレンジできる。

恐れと不安、孤独の中にあるとき、
私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、
神の御子が、私の中で生きていることを思うと、
私は何も恐れることはないし、
不安がる必要もない。

この間、
とても孤独を感じたことがあって、
結局人はひとりぼっちなんだなって思いが、
わーっと襲ってきた。
でも、その時も、
「わたしがいるじゃないか」と、
イエスさまの語りかけを聞いたよ。
私は、絶対一人ぼっちになることはない。
永遠に。

こうやって言っていても、
いつも古い自分がゾンビのように出てきて、
(ゾンビは実は死んでいる)
一人で痛みを受け止めたり、
一人で戦ったり、
一人で壁を乗り越えようとしたり、
孤独を感じたりしてしまうから、
何度でも、
ここに帰ってこないといけない。
私のアイデンティティはイエスさまにある。

「もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
今私が肉において生きているいのちは、
私を愛し、
私のためにご自分を与えてくださった、
神の御子に対する信仰によるのです。」

アーメン

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神さまの摂理

2024-08-28 10:17:27 | 信仰 聖書

青森で宣教活動をしている
OMF宣教師の記事です。
どうぞ、
Google翻訳でもDeepleでも使って、
お読みください。

娘のS子がICUに在学中に
信仰に導いたHARUNAが、
青森の片田舎の教会で、
大きな励ましと希望になっている。

宣教師は、HARUNAを導いた
S子の信仰のルーツをたどり、
ステファン・メティカフ師、
そして彼に大きな影響を与えた
エリックリデル師までたどる。

文章に出て来るa young bookstore clerk は、
父の事。

本当に神さまの壮大なご計画、摂理を見る思いです。

生きていると、
どうして神さまは私の人生に
こんなことが起こることを許すのか…、
そう思うことがあるけれど、
神さまは、
なが~いスパンで見ていて、
最後に答え合わせをされる。
そして、その答えはいつも善いもの。

今はわからなくても、従おう。
神さまに従う生き方は安心。
もう、神さまにゆだねてしまおう。
先のことはわからないけど、
神さまのご計画に乗っかってしまおう。

そんな風に思えた記事でした。

感謝主!
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相手にないものを求めない

2024-07-25 22:32:57 | 信仰 聖書
私たちが傷ついたとか、
ゆるせないと言うとき、
相手にないものを求めて、
それが与えられないから、
満たしてもらえないから、
傷ついたり、
ゆるせなくなるのだと聞いた。
確かにそうだと思う。

私は、
情けないことに、
私が教会で関わっている子どもたちの
ことばや態度で傷つく。
子どもの言うことだと
聞き流せることもあるが、
堪えることもある。

どんなに与えても、
尽くしても、
応えてもらえないのはつらい。
どんなに良くしても、
文句や責める言葉しか出てこないと、
気持ちが萎える。

私は彼らに何を求めているのかな。
愛の応答、リスペクト、信頼、心の交流…。

リンゴの木からミカンは穫れない。
ということ。

そっか、
自分は相手にないものを求めていたのか。
確かに、
誰が彼らに愛されること、
満たされることを教えたか。
お世話されることの喜びを教えたか。
守られ、保護されることの安心感を教えたか。

愛着欲求…というのかな?
誰も彼らの愛着欲求を満たしてこなかった。
愛されていないと、
愛への答え方がわからない。
あたりまえ。

良くしてもらったり、
親切にされて嬉しかったことの積み重ねで、
はじめて心からの「ありがとう」が言える。

もし彼らが「ありがとう」が言えるようになったら、
それは心からの「ありがとう」なのだと思う。
礼儀でも、
人間関係のテクニックでもなく、
本当の「ありがとう」なんだろう。

私は彼らにないものねだりはすまい。
彼らにないのは、彼らのせいではない。

彼らがイエスさまに出会い、
イエスさまの愛に満たされて、
いつか心からの「ありがとう」が言えますように。

そして私の満たされない分は、
主に満たしていただこう。
父の愛、
友なるイエスさまに、
慰め主聖霊に、
満たしていただこう。

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2024-07-05 10:24:26 | 信仰 聖書
アダムが神さまの言いつけを守らず、
善悪の知識の木の実を食べた時に、
人に罪が入った。
そして人は、
自分が裸なのを知り、
木の葉っぱで隠した。
また、神からも身を隠した。
こうして人に「恥」が入ったと言われる。

最近、この「恥」というワードが、
アメリカをはじめとするキリスト教界で、
ちょっとしたブームなのだろうか。
よく「恥」という言葉を聞く。

だけど、私はずっと、
日本語の「恥」と、
訳本の信仰書などで見られる「恥」とが
一致しない気がして、もやもや。

でも、昨日TCUで、
ケン・シゲマツさんの講演会があって、
ご自身の著書『もう、自分を隠さない』
 ~恥を癒すおおいなる恵み~
の内容を紹介してくださいました。

その講演会で、最初に、
「恥とは、自分は十分ではない、
足りていない、
ふさわしくないという恐れです」
と説明をしてくださって、
ああそういうことかと、
ストンと落ちました。

人は恥を持っていると、
不安になり、落ち込み、
時にオーバーワークになる。
オーバーワークは、
何とか、自分のことを評価してもらおうと、
自分の限界以上のことをしようとすること。
また、極端にいい人になろうとする。
これも恥から出ていることらしい。

要するに、
ありのままの自分を恥じており、
自分を等身大に受け入れられない。
自分を過小評価したり、
過大評価するするということ。

恥から解放されるために必要なことはひとつ。
それは、神の愛で満たされること。
神の愛はいつも変わらずにあるのだけれど、
私たちの罪の性質は、
それを十分理解できず、
受け止められない。

神さまは、
マスクをし、着飾り、武装した私たちではなく、
どんなに欠けだらけでも、
弱さを持っていても、
どうしようもなく罪に傾く性質を持っていても、
ありのままの私たちをを愛している。

私たちの罪の性質は、
簡単にはこれを受け入れられないので、
習慣的に自分に語りかけることが大事。
ケン先生は毎朝、
「これは私の愛する子、
私はこれを喜ぶ」と、
3回自分に語りかけるのだと。

人は自分の力で、
恥を取り除こうとしても無理。
神の愛でいっぱいになるときに、
恥は自然に居場所を失っていく。

はい、そんな内容でした。
だいぶ脚色あります。
本も買ったので、
あとでじっくり読みます!
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主とともに歩む

2024-06-30 23:16:14 | 信仰 聖書
6月30日、今日の説教のテキストは、
創世記5章全体。
今日の説教から一部を抜粋します。


 私たちの教団の北海道苫小牧で伝道、牧会しておられる水草修治先生という方がおられます。先生は『失われた歴史から』という著書の中で、エノクが取り上げられた時のことを美しく描いていたので、皆さんに紹介しましょう。

「ある日、エノクさんが野を散歩していました。いつものように神とともに語らいながら行く道はなんと楽しいことでしょうか。時がたつのも忘れて語らううち、気がつくともう夕日が西の山の端に近づいています。神がおっしゃいました。『エノク。今日はずいぶん遠くまで歩いてしまったようだ。少し早いが、家に来ますか。』エノクは『そうですねえ。そうさせていただきましょうか。』こうして、神がエノクを取られたので、彼はいなくなったのでした。」

 神とともに歩む人生は、この世界で生きることと、御国で生きることの境をなくします。人がこの地上で生きる時、生活の苦労、学業の苦労、人間関係の苦労、子育てや老後の衰えの苦労、病気…、多くの苦労があります。けれども、神さまと共に歩む楽しみと喜びとは、それらの苦労を忘れさせ、苦労を上回る喜び中を生きることができるのです。それを体験したエノクにとっては、地上と御国の境はもはやなかったのでしょう。聖歌467番に「みくにのここちす」という賛美がありますが、こんな歌詞です。

悲しみ尽きざる 浮世にありても 日々主と歩めば 御国の心地す
ハレルヤ! 罪 咎消されしわが身は いずくにありても 御国の心地す

 イエスさまの十字架によって罪ゆるされた私たちは、聖霊によって、この地上にあっても、いつも主と共に歩むことができます。そして地上の生涯が終わるときに、私たちはエノクのように、主によって、そっと御国に移されて、主と共に永遠に生きるのです。ある人が、死ぬことは「お引越しだ」と言いました。この世から御国への引っ越しです。それにしても、御国の方がだんだんにぎやかになって来ました。私たちもお引越しの準備をする必要がありますね。それは今日も主と共に生きることです。

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神とのコミュニケーション?

2024-04-23 14:36:31 | 信仰 聖書
お野菜?
はい、金曜日の朝も、
飛び込みで、
別の農家さんにお願いして、
規格外のキャベツ16玉、
ご提供いただきました!
本当に、世の中捨てたものではないです。
日曜日の「フードシェアしんふな」も祝福され、
たくさんの方に食料をご提供できました。

話しは変わって…、
日曜日の礼拝では、
創世記の3章からのメッセージでした。
人類に罪が入ったところです。

罪というのは、
「行動」ではなく「状態」。
私たちは、神に向き合って生きるように造られたのに、
神を退け、無視し、反抗し、
神を神として認めない。
それは、神に背を向けている状態。

ハイデルベルグ信仰問答によると、
「この根源的な腐敗のゆえに、
人間は善に対して全く無能となり、
あらゆる種類の罪を生ぜしめるように、
悪に傾いている

罪に対して、
何もできない私たちは、
何もできなことを認めて、
そのまま、罪あるままの状態で、
神にもう一度向き合うことが
求められている。

そうすれば、
イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、
罪ある存在がまるごと受け入れられ、
義の衣で覆われ、
罪のないものと見なされる
それだけではなく、
神の子どもとしての身分が与えられる。
つまりそれは、
神とのいのちのつながりができるということ。
ハレルヤ!!

これは何度もすることじゃない。
1回の決心で、すべてのことは起こる。
昨日は神の子どもで、
今日は違うということはない。

けれども人は罪を犯し続ける。
善に対して無能で、
いつも悪に傾くのは変わらない。
義で覆われただけの罪人だから。

だから、罪を犯すたびに、
はやり主の御前に出る。
それは何も、
分割払いのように、
罪という借金を返していくことを意味しない。
私たちの罪は、
イエスさまによってすでに全額返済済み。
一括払い。

ではなぜ、
私たちは自分の罪を自覚し、
神さまに告白し続ける必要があるのか。

それは…、
53師いわく、
「神とのコミュニケーション」だって。

神さまがお嫌いになる罪を持っているときに、
人は神から隠れる。
恥とやましさを感じ神に向き合えない。
せっかく神の子どもとされても、
神との愛の交わりをエンジョイできない。

だから、私たちは今日も主の御前に出る。
「神さま、またやっちゃった、ごめんなさい」
「大丈夫、大丈夫、
あなたの罪はもうゆるされているからね。
安心していいんだよ。
よく告白できたね。」

こうして私たちは、
いつも両手を広げて、
私たちを待っていてくれる神を信じて、
その胸に飛び込んでいける。
神のふところで憩うことができる。
そして心は晴れやかで明るくいられる!

そして、この繰り返しで、
私たちはますます神の愛がわかり、
いつでも受け入れてくださる神さま、
いつも私を喜んでくださる神さまを体験し、
安心して、
喜んで、
生きることができる。

だから日々の悔い改めは、
神との信頼関係を深めるための
コミュニケーション!

感謝主!
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キャンプ奉仕終了

2024-03-31 21:26:54 | 信仰 聖書
今日の牧会コラムから

 皆さんにお祈りに支えられて、松原湖バイブルキャンプの小学生キャンプの講師として奉仕してきました。
改めて思わされたことは、子どもの信仰の成長のために、キャンプは欠かせないということです。
例えば、子どもたちが教会学校に毎週欠かさずに来たとしても、うちの教会学校は一回30分なので、1年でもせいぜい26.5時間に過ぎません。ところがキャンプは、この1年分をはるかに上回る時間を霊的養いのために費やします。
 また、子どもたちは、同年代の子どもたちと寝食を共にし、大好きな賛美を思い切り、心行くまで賛美し、子どもの年齢に合ったみことばの解き明かしを聞き、多くのチャレンジを受けます。そして、同年代の友だちや同じような環境にいる友だちと悩みや課題を分かち合い、お部屋のカウンセラーと一対一で、丁寧なカウンセリングを受け、祈りを導いてもらいます。こうして、子どもたちの心は神さまに触れられて、大きな信仰のステップアップを遂げるのです。
 特に今回私が奉仕した小学生キャンプでは、聖霊が力強く働いてくださいました。子どもたちは最後の晩、涙を流して主の前に進み出て、それぞれの信仰の決心をました。また、約40名の参加者が一つになって、肩を組んで賛美し、感動を抑えられずに、お互いハグし合う姿に、聖霊による強い一体感を感じました。
 しかしながら、キャンプは子どもたちにとってクライマックス。それぞれの教会での地道な信仰教育と牧会があってのクライマックスです。これからも地道な教会学校の活動を続けていきたいとも思わされたことでした。

今日のイースターファミリー礼拝の説教は、
子ども向けのお話しだったので、
私がキャンプでしたお話を
コンパクトにまとめて話しました。
よろしかったらどうぞ♪


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宿題

2024-01-30 12:47:16 | 信仰 聖書
昨日は、オンラインで部会だったんだけど、
あっ、部会ってテニス部とかバレー部とかの部じゃないよ。
教団の局の下にある部ってこと。

会議は別に楽しくもないんだけど、
4時間ぐらいの会議だったかな?

オンライン会議でミュート外しておくと、
しゃべりすぎるからあかんね。
私の場合。
今どき、会議でべらべらしゃべる人おらんからね。
後で後悔…。
これもいつものことだけどね。
今度はちゃんとミュートして、
しゃべるときにはミュートを外すという
ひと手間を入れることにしよう。

それはどうでもいいんだけど、
会議の後に、
局長の聖書のおすすめがあり、
それがとてもよかったのでシェア。

聖書箇所は、ネヘミヤ記4:16~21
その日以来、私の配下の若い者の半分は工事を続け、もう半分は、槍、盾、弓、よろいで身を固めていた。隊長たちがユダの全家を守った。城壁を築く者たち、荷を担いで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を握っていた。築く者はそれぞれ剣を腰にして築き、角笛を吹き鳴らす者は私のそばにいた。私は有力者たち、代表者たち、およびそのほかの人々に言った。「この工事は大きく、また範囲は広い。私たちは城壁の上で互いに遠く離れ離れになっている。どこででも、角笛が鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」 こうして私たちはこの工事を進めたが、その半分の者は、夜明けから星が現れるまで槍を手にしていた。

城壁再建にいそしむイスラエルの人たち、
だけど敵がいつせめて来るからわからないから、
片手に槍を握り、片手で作業を続けた。
やりにくいし、効率は悪いし、大変。

それは人生における神さまの「宿題」のよう。
人生、スムーズにいかないことばかり、
どうして自分の身にこんなことが降りかかるのかと
思うことが多い。

だけどそれは神さまからの宿題。
この困難な状況の中で、
あなたはどうやって、
神さまのみこころの道を歩みますか?
この人生の障壁を前に、
どうやって神の栄光をあらわしますか?
神さまは、
私たちに宿題を与える。

そう、五千人の給食の時に、
神さまは弟子たちに、
「あなたがたが、
あの人たちに食べる物をあげなさい。」
と言われたイエスさま。
これは弟子たちに与えた宿題。

弟子たちは考える、
話し合う、
計算する、
周りを見渡す。
あるものに目を留める。
あるものをイエスさまに持っていく。

あるものをイエスさまに持って行く。
それが宿題の答えだったのかな?

私たちも試練のときに、
それを神さまからの宿題と思いなさいと。

宿題は大事。
私たちは繰り返しドリルをやって、
漢字を覚え、
計算問題をして、
学力をつけていった。

同じように、
神さまからの宿題をする中で、
私たちの信仰は成長する。

どうやったら、
この状況で、
神のみこころに沿った
よい生き方ができるか。

どうやったら、
この試練の中で、
最大限に神の栄光をあらわすことができるか。

私たちは、
今日も神さまの宿題に取り組む。

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キャンドルライトサービス

2024-01-03 14:42:32 | 信仰 聖書
キャンドルライトサービスは、
神山みささんのコンサートからヒントを得て、
「戦争をやめた人たち」という絵本の朗読を入れました。
今年のクリスマスは、
どうしても「平和」を扱わなくてはいけないと思ったから。

メッセージの最後に、
アッジシのフランチェスコの祈りを
共に祈りました。

「主よ、わたしを平和の器とならせてください。
  憎しみがあるところに愛を、
  争いがあるところに赦しを、
  分裂があるところに一致を、
  疑いのあるところに信仰を、
  誤りがあるところに真理を、
  絶望があるところに希望を、
  闇あるところに光を、
  悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
  理解されるよりも理解する者に、
  愛されるよりも愛する者に。
  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
  許すことによって赦され、
  自分のからだをささげて死ぬことによって
  とこしえの命を得ることができるからです。」 
アーメン

「地の上に平和が、みこころにかなう人にあるように」(聖書)
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聞くドラマ聖書

2023-12-15 12:52:38 | 信仰 聖書
俳優の大浦龍宇一がクリスチャンになったきっかけ

「聞くドラマ聖書」のルカの福音書の
ナレーションをしていた大浦龍宇一さんが
クリスチャンになっていた!

私の車通勤の友「聞くドラマ聖書」。
聖書が単なるストーリーでも歴史書、宗教書でもなく、
魂を救う力があるなら、
この声を演じている俳優さんたちが
救われなかきゃうそだなって思ってた。
そしたら、やっぱり
救われた人がいたのね!
感動です!
ハレルヤ!
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