おかあちゃん牧師の日記

新船橋キリスト教会の牧師です!
日々の生活のこと、教会のこと、
家族のことなどを書いています!

神さまは見ている

2010-09-29 21:26:20 | 信仰 聖書
先日、シーツを買った。
台湾でよくある「買一送一」(一つ買うと一つ付いてくる)
の商品だったので、
一枚の値段で二枚買えたわけだが、
家に帰って来てからあけてみると、
薄くて、いかにも化繊という感じで、
寝心地がわるそう。

そこで意を決して返品に行った。
台湾での返品は簡単。
理由を言えば、特価品でも返品できる。

ところが、
サービスカウンターで返って来たお金が、
どうも多い気がした。
「えっ?これでいいの?多すぎない?」
と言ったのだけれど、
お店の人は、取り合ってくれない。

仕方なく、サービスカウンターを後にして帰ろうとしたのだけれど、
やっぱり、多くもらいすぎのような気がする。
きっと、「買一送一」で二枚を一枚分の値段で買ったことを
店員さんは、理解していなかったのだと思う。
戻って、店員さんに説明してお金を返さなきゃと思う。

でも、もう一つの声が、あったことは否めない。
「こっちは、多すぎない?って言ったんだし、
人の話を聞かない定員さんも悪いんじゃない?
外国語で、こういうのを説明するのって気合がいるんだよね。」
みたいな。

だけど、このまま帰れるか。
神さまは見ている。
全部ご存知。

私自身の心も知っている。
きっと、しばらくは思い出しては、
後悔したり、苦々しい思いになるんじゃないだろうか。
こんなことで自分の心を貧しくしたくはない。

ということで、
葛藤の末、再度サービスカウンターへ。
レシートを示しながら、
十分とは言えない中国語で説明。
店員さんも理解してくれた。
別にあやまりもしなかったけど、
「謝謝!」とお礼は言われた。

私も思わず、
「私はクリスチャンだから、こうやって戻ってきたけど、
そうでなかったら、戻ってこなかったよ。」
とだけ、言っちゃった!

というわけで、心はすっきり。
神さまとも正面から向かい合える。
感謝主!

そうそう、シーツはといえば、
なんと、昨日、今度引っ越す人からたくさんもらっちゃいました!
神さまって、そういうお方なのです。
感謝主!




コメント (3)
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小さい頃

2010-09-24 11:29:18 | 家族
今年も卒業アルバムの担当です。
何しろ、中学3年生は、たったの5人。
その5人の保護者の中で、
ある程度、時間が自由になり、
子どもの受験がないのは私だけ。
ということで、1年かかって、
卒業アルバム製作に関ることになります。

卒業アルバムの中には、
個人のページがあって、
子どもの小さい頃の写真を載せるページがあるのですが、
今中三のKの小さい頃には、
デジタルカメラが、今のように普及していなかったので、
早速Kの子どもの頃の写真を
何枚かスキャンしてみました。

今でこそ、声も低くなって、
ひげがはえたりしてるけど、
小さい頃は、かわいかったのだ!!











上の3枚が、新潟にいたころ。
次が、アメリカのキンダーガーデンに通っていたころ。
そして、最後が台湾の墾丁で撮った写真。

懐かしいな~。
みんな小さかったな~。
4人の子育て、
忙しかったけど楽しかった…。

なんて、
写真を見ていると、
感慨に浸ってしまうのです。
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観光案内

2010-09-23 11:08:51 | 旅行
忙しくしていました。

週末には、
日本から来たお客さん女性二人を連れて、
台北観光をしました。

土曜日の晩にいらっしゃったこのお客さん。
本当は、日曜日の早朝には、
新幹線に乗って、
台北から台中まで移動し、
竹子坑教会で証しと賛美のご奉仕をしていただく予定でした。
ところが、なんと、
台湾本土に台風直撃!
新幹線も電車も高速バスもみんなストップしてしまいました。

仕方がないので、
急遽、近くの同じ団体の教会に連絡をとり、
飛び込みでご奉仕させていただきました。
感謝、感謝!

ハプニングはあったけれど、
初めての台北観光案内は、無事に終了です!

主人は、何度も人を連れて台北観光案内をしているのだけれど、
私は、実は、初めて!!
はらはらどきどきでしたが、
楽しい、いい旅になりました。

案内させていただいたのは、
定番のコース。

まずは故宮博物院!



中国の故宮に比べると、
豪華な展示品が、豊富にそろっていて、
見ごたえあり!です。
急いで見たつもりでも、2時間半かかりました。

そして、忠烈祠の衛兵の交代。



これも見ごたえがありますね。
結構間近で見られるし。

ここでまつられているのは、
抗日戦争で戦った国民党軍の兵士たちだそうです。
日本で言う靖国神社?


おいしいものもたくさん食べました。
欠かせないのは、この二つでしょう!



鼎泰豊(ディンタイフォン)の小龍包!
相変わらずの人気で、30分待ちでした。
おいしかったですよ~!

そして、冰館(ビングァン)のマンゴーかき氷!
そうそう、お店の名前は変わっていたけれど…。
何でしたっけ?忘れました!



3人で一つでデザートとしては十分でした。
これまたおいしかったですよ。

他にも士林の観光夜市、
それに、日本人の女性観光客に大人気の中華風小物のお店にも行きました。
夜には、お客さんだけで、
足ツボマッサージにも行ったらしいです。


ということで、
私も台北の観光案内ができるようになったので、
日本からの女性の訪問客、大歓迎です!
もちろん、教会でのご奉仕セットでね!(^^)!
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信仰のルーツ

2010-09-13 15:11:00 | 家族
うちの父を信仰に導いてくれたステファン・メティカフ宣教師は、
1927年、中国雲南省で生まれました。
父はイギリス人、母はオーストラリア人で、
宣教師として、雲南省の山奥にある少数民族の村で暮らしていました。

ところが、ステファンが七歳になると、
両親は彼にイギリス式の教育を受けさせるため、
1938年、山東省にある学校に入学させました。

しかし、1941年12月、真珠湾攻撃を機に、
日本はアメリカ、イギリスなど連合国に宣戦布告しました。
中国北部にいた同盟国人は、
日本の憲兵によって捕虜収容所に集められ、
翌年の1942年、ステファンが通っていた学校は、
生徒も教師もそっくりそのまま、
日本軍の民間人収容所に入れられてしまったのです。
メティカフ氏が、14歳の時でした。

幸いにも、彼がいた収容所の日本兵は、
皆比較的おだやかな人たちだったということでした。

食べ盛りの年頃にもかかわらず常に飢餓状態だったり、
様々な苦労があったことはもちろんですが、
彼自身が直接暴力を受けるようなことはなかったそうです。
 
しかし、日本兵の中国人に対する振る舞いは残虐で、
メティカフ氏自身、
首を切り落とされた死体、
生きたまま両目をくりぬかれ、
リヤカーに乗せられて引き回されている中国人を
目撃した体験をもっています。

こうした見るに耐えない光景を目にしているうちに、
当然のことながら、日本人に対する憤り、
憎しみは膨れあがっていきました。

ところで、メティカフ氏がいた収容所には、
時を同じくして、
あの有名な映画「炎のランナー」で主人公として描かれた、
陸上の元オリンピック選手のエリック・リデル氏がいたそうです。
彼もまた、宣教師として中国で暮らしているうちに戦争に巻き込まれ、
民間人抑留者として捕らえられていたのでした。

メティカフ氏や友人たちは、リデル氏が収容所の中で開いていた
バイブルクラスに出席していました。 

ある時、そのバイブルクラスで、一つの議論が持ち上がったそうです。

それは、「自分の敵を愛しなさい」というイエスの教えは、
ただの理想かそれとも現実的な教えか、という議論でした。

少年たちの意見が「それは理想にちがいない。
日本兵を愛することなどできるはずがない」
という結論に傾き始めた時、リデル氏が口を開きました。

「私もそう思うところだった。
でも次に続く言葉に気がついたんだ。
『汝を迫害する者のために祈れ』という。
私たちは愛する者のためには時間を費やして祈るが、
イエスは愛せない者のために祈れと言われた。
だから君も日本人のために祈れ。
祈るとき君は神中心の人間になる。
神が愛する人を憎むことはできない。
祈りは君の姿勢を変える」

そう教えるリデル氏自身、
毎朝早く起きては日本のために祈っていたのだそうです。
こうして、敬愛するリデル氏の勧めに従って、
メティカフ氏は日本のために祈り始めたのでした。

ところが、日本と日本人のために祈っても、
事態は、一向に変わりませんでした。

しかし、それを見ているメティカフ氏の心の中には
変化が生じていきました。
そして、やがては、
自らが、宣教師となって日本へ行き、
神の愛を伝えたいという祈りに発展していったのです。

リデル氏は、1945年2月に日本軍の強制収容所の中で,
43歳という若さで亡くなりました。
2千人いた収容所のすべての人間が参列した葬儀で、
メティカフ先生はリデル氏の棺を担いだということです。

そして、終戦を迎え、メティカフ氏らも開放されます。
メティカフ氏の祈りは、そのまま温められ、
25歳になったときに、
とうとう宣教師として日本へ派遣されたのでした。




父を信仰に導いたメティカフ先生が、
日本の宣教師になるために、
あのエリック・リデル氏が、
こんなに大きな影響を与えていたとは!
驚きでした。

そして、今私たちは、台湾で宣教師として働いている。
志半ばで、収容所で命を閉じたエリック・リデル氏の思いを
受け継いでいるとも言えるのじゃないだろうか?
そう思うと、神様の導きの不思議さを覚えないではいられない。

感謝主!

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角田くんその後

2010-09-10 10:25:47 | 家族
「お父さんを信仰に導いてくれた角田さんは、その後どうなったの?」

「それがね。教会を離れてしまったんだよ。
そして、クリスチャンじゃない人と結婚して、
家庭ももったらしい。」

「じゃあ、その後は、音信不通?」

「うん、長い間ね。
でも、何年か前、お父さんのところに、
その角田くんの奥さんだという人から、
電話があったんだ。」

「えっ?何十年も音信普通で、よくお父さんのこと見つけられたね!」

「あちこちの教会に電話して、
川○江○って牧師知らないかって、
聞きまくったらしい。」

「で、とうとうお父さんを見つけたんだ。
ところで、何で連絡してきたの?」

「実は、角田くんは、その時ガンの末期だったらしい。
そんな中で、角田くんの信仰が回復し、
奥さんもイエス様を信じたらしいいんだ。
奥さんが、電話口で言うには、
角田くんが、病床で、もう一度お父さんに会いたいとしきりに言うのだとか。
それで連絡をとってきたらしい。」

「それでお父さんは、角田くんに会いに行ったの?」

「うん。
その頃は、まだお母さんも元気だったからね。
早速、お母さんと一緒に会いに行ったよ。

角田くん、すごく喜んでね。
舌癌だったから、直接話は出来なかったけれど、
筆談で、
『もしも、このガンが良くなったら、
川○くんの教会を手伝いたいな~。
一緒に伝道したいな~。』って、言ってた。」

「…でも、良くならなかったんだね。」

「うん。
その後、しばらくして天国に行ったよ。」

「でも、良かった。
亡くなる前に、もう一度イエス様のところに帰って来られて。
しかも奥さんも一緒に!
お父さんも、天国に行ったらまた会えるね。角田さんに!
そしたら、今度は天国で将棋できるかな?」(笑)

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風邪ひき3人

2010-09-09 10:16:21 | 家族
今、家族の中で風邪がまわっています。

長女が、学校から菌をもらってきたらしく、発熱。
3日目の今日も、まだ微熱があります。

そして、一番下のマイマイが、
昨日から発熱。

朝、学校に行く前に、
その日プールのある上の子達に混ざって、
「みみっぴ」で体温を測っていたのだけれど、
(ちなみにうちでは、わきの下で測る体温計は「わきっぴ」と呼ぶ)
そのときに、マイマイが、
「あっ!38度ある~!」
とか言って、騒いでいた。
しかし、他の兄弟たちは「またまた~!」
みたいな感じで、みんな笑って誰も相手にしない。

わたしもお弁当の準備をしながら、
そんな会話を耳の端にとらえながらも、
なぜか、全く気にも留めず、
そのまま、学校に送り出す。

でも、子どもが学校に着く頃、
はたと、朝の子どもたちのやり取りが気になりだし、
学校に電話。
案の定、マイマイが熱を出して、元気がないとのこと。

早速、学校までマイマイを迎えに行くと、
「だから、熱があるって言ってたのに。」と怒っている。

…確かに。
なぜ、朝マイマイが熱があると訴えた時点で、
だれも相手にしなかったのか。
体温計の故障とか、気のせいとか、
そんな風に思ってしまったのか…。
不思議~。
だけど、日ごろの彼女の行動とか性格とかが、
影響していることは、否めないかも。


性格といえば、
主人も夕べから体調を崩し、
同じ風邪をもらったようなのだけれど、
主人もなるべくしてなったというか、何と言うか…。

マイマイが風邪をもらった時点から、
「今度は、俺かも…」
「俺もうつんないようにしなきゃ。」
と、やたら構えている様子。
あんまり、気にしすぎて、
それが、暗示のような役割を果たし、
風邪の受け入れ態勢万全みたいになって、
とうとううつったって気がしてならないのだけれど。
違うかな~。

というわけで、
今日は、風邪の3人と日中の生活を共にしています。

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父 その4

2010-09-02 10:42:34 | 家族
父が聖書と格闘する日々が続いた。
そんな父の中で、
もっと聖書を学びたい、
もっと神さまのことを知りたい、
という思いが、日増しに強くなっていった。

そして、ある日、
キリスト教雑誌か何かに載っていた、
「半年(3ヶ月?)で聖書を学べる!」
といううたい文句の神学校?の広告を見つけた。

父は、その広告に飛びつき、
早速、宣教師に相談した。
ところが、宣教師は首を縦に振らなかった。

そして、別の神学校を父に紹介したのだった。
それが、福島県の須賀川にある「中央日本聖書学塾」だった。
この神学校は、安藤喜市先生と羽鳥明先生が、
共同で始めた神学校だった。
学歴も不十分、経済的にも何の保障もなかったが、
宣教師に勧められるまま、
父は、この神学校に飛び込んだ。

もちろん、神学校というからには、
牧師を養成するところだ。

これは、以前父が言っていたことだが、
父が牧師を志した理由の一つに、
とにかく、先に述べたような
メティカフ宣教師の日本語が、
あまりにわからなかったことがある。
こんなに素晴らしい福音を、
もっとわかる日本語で伝えたい。
この深い聖書のみことばを
わかりやすく、人々に解き明かしたい。
いつしか、父の胸の中に、そんな思いが芽生えてきていたのだ。

それにしても、メティカフ宣教師の日本語の足らなさは、
致し方ないことだろう。
語学研修をどれぐらいしたかわからないが、
日本語を学んですぐに、津軽弁の真っ只中に入って行って、
福音宣教を始めたのだから!
まわりの人が彼の日本語を理解できない以上に、
彼が、どれほどまわりの人の話す津軽弁が理解できたか!

宣教師の端くれとして、
むしろメティカフ宣教師が、
神さまに導かれるまま津軽の片田舎に来てくれたことに、
ただ、ただ、敬服するばかりだ。

さて、父が神学校に入学したのは、19歳のとき。
当時の神学校は、貧しかったからか、神学生の訓練のためか、
ほとんど自給自足だった。
寒い東北福島で、暖房さえもなかったという。
そして、悪いことには、
父が入学して2年後には、教育方針のずれからか、
神学校が分裂。
羽鳥先生と何人かの神学生は、
東北聖書学校を去って行き、
東京で、「中央日本聖書学院」を立ち上げた。

父は、福島に残った。
そして、紆余曲折はあったが、
無事神学校を卒業し、その後津軽の五所川原の教会に赴任。

23歳の若い牧師が誕生した!

かつては、半年で6回仕事を変えた父が、
すでに牧師になって50年。
主任牧師は退いたものの、
今も現役で毎週説教をしている。
娘の私が言うのも何だか、
父の説教は、
平易な言葉を用い、
聖書を忠実に解き明かすわかりやすい説教だ。
まさに、父が目指していたそれである。

当時の甘ったれた、気の弱い少年が、
神さまの御手の中で、取り扱われ、
牧師としての生涯をここまで送ってきた。
そして父を通して、
恐らく、100人以上の人が信仰に導かれた。
私だって、その一人。
父が毎週語る説教で、長く養われてきたのだから。


この夏、短い時間だったけれど、
こうやって、父の証しが聞けて、
本当に良かった。
うちの子どもたちも一緒に聞いた。
我が家の信仰のルーツだもの。
みんなで聞かなきゃね。

ホントに、
メティカフ宣教師に感謝です。
角田さんにも感謝です。
よく、よく、父に福音を伝えてくださいました!

そして、何より神さまに感謝です。
父を取り巻く全ての出会いが、
神さまの不思議なご計画の中のことだったのですね。
感謝、感謝です!!
ハレルヤ!!
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