おかあちゃん牧師の日記

新船橋キリスト教会の牧師です!
日々の生活のこと、教会のこと、
家族のことなどを書いています!

牧会コラム

2022-10-21 11:15:07 | 牧師
ここ2ヶ月ぐらい、
週報に「牧会コラム」のコーナーを設けています。
コロナになってから、
信徒の皆さんと接する時間が短くて、
なかなか牧師が考えていることや、
主から与えられているビジョンなどを
分かち合う機会が少ないので、
コラムを通して知っていただこうというのが目的。
A先生ご夫妻の提案を採用させていただきました!

とりあえず地域支援活動を始めて一年。
それこそ役員会の承認は得ているものの、
どさくさで始めた感、否めないので(^_^;)
当初の様子や経緯、
どんな視点で、
どんなことを大切にしてやっているのか。
今後のビジョンなどを順番に分かち合っています。
…って、すでに次主日で7回目なんだけど、
終わる気がしない(笑)
こんなに分かち合いたいことあったんだと、
自分でびっくりです。

地域支援活動の話題が終わったら、
チャンピオンズの働きも紹介しようかと…。

いや、自分こう見えて、
自分の考えや意見を人前で話すのは、
気が引けるタイプで…。
そういう場所が与えられないとできない。

教会の皆さんが、
週報を読む楽しみが
増えてくれていたらいいな♡

あっ、コラムで書いている内容は、
このブログで分かち合っていることばかりです。
第一回の分だけ下に貼り付けます♪

【牧会コラム】
 9月の役員会で、週報に牧師が一言コラムを書いてはどうかということになりました。2020年4月、コロナ禍での牧師就任でしたから、教会員の皆さまと接する時間が非常に少ないまま、すでに2年半が過ぎてしまいました。その間、フードパントリー、シェアなどの地域支援活動が立ち上がり、教会学校が再開され、毎月たくさんの地域の皆さんが教会に出入りするようになりました。皆さまの中には、目まぐるしい変化について行けず、戸惑いを感じながら、ここまで来てしまった方もおられるかもしれません。
私としても、がむしゃらに走って来た2年半でしたが、そろそろスピードをゆるめて、皆さまと歩調を合わせなくてはと思わされています。このコラムでは、今までのことを振り返ることから始めて、皆さまの目に触れないところで何が行われているのか、今後の展望、ビジョンなども分かち合えていけたらと思っています。よろしくお願いします! (2022.9.11.週報より)
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公平

2022-10-17 14:22:22 | 牧師
どこで聞いたんだっけ?
子どもが複数いた場合、
親は一人ひとりを
公平に愛することができるかという話し。

結論から言うと、
それは難しいということ。
例えばうちは4人の子どもがいるけど、
公平に25%ずつ愛してきたかというと、
そんなことできるわけがない。

だけど、その人は言っていた。
すべての子どもを100%の愛で愛するだと。
そうすれば公平だって。
確かに~。
一人ひとり、全力で愛すればいいのです。

だけどそんなこと人間にできるのか…。
無理ですよね。
…でも神さまはそれがおできになる。
私のことも100%の愛で愛してくれて、
他の人も…、
すべての人を100%の愛で愛していてくださる。
それが神さまだって。

牧師って、
公平さが求められるのだなと思わされることがあって、
そんなことを思い出しました。

私は、信徒の皆さんを
それぞれ100%の愛で愛せるのか?
やっぱ無理なんじゃない?
だからせめて、
毎日一人ひとりの名前をあげて祈り、
一人ひとりに今日も主の100%の愛が注がれるようにと祈る。
それしかないでしょ♪

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片手間で

2022-10-13 12:11:57 | 地域支援
今日はこれから登録制のフードパントリーのため、
セカンドハーベストジャパンに食料を取りに行きます。
14時半に現地に着いて、
食料の積み込みをして、
16時には教会に到着。
そして16時半から配布開始です。
18時頃まで待機して、
それからK姉と手分けして、
宅配をします。

今回も2世帯増えて、
現在29世帯88名です。

しかも最近の傾向として、
結構遠方から電車で取りに来る人が多いということ。
今回新規で登録された2世帯も、
千葉県稲毛区の方と鎌ヶ谷市の方。
柏市、習志野市の方もおられて、
今回のようにお米5㎏の配布などがあると、
かえって申し訳なく思えてきます。

東京、埼玉、神奈川は、
セカンドハーベストジャパンの拠点がたくさんあり、
埼玉などは、パントリーのネットワークがあり、
物流や倉庫なども確保していて、
たぶん全国一充実しているのよね。
千葉は、子ども食堂はだいぶん増えたけど、
フードパントリーまだまだ少なくて。

子ども食堂は、
子どもの見守りや、
地域のコミュニティーの場の提供としては、
とてもいいんだけど、
貧困家庭の支援という意味では不十分で、
やはりその部分は、
フードパントリーが担わなくていけないのです。

千葉の教会が、
「片手間」にでいいから、
フードパントリーに参入してくれないかな。
うちも片手間だから、
そろそろキャパオーバーしそうです。
はじめは20世帯50人ぐらいが限界だと思ってたけど、
今は何とか30世帯100人まではと思っています。

関心のある教会は、
セカンドハーベストジャパンのHP見てみてください。
お問い合わせくだされば、
ノウハウのすべてをお教えします~!

では、そろそろ行ってまいります♪

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秋の研修会

2022-10-10 22:18:16 | 牧師
先週月曜日は、伝道懇談会。
実は初参加なんだけど、
分科会で奉仕させていただきました。
テーマは「地域支援活動」だったので、
うちの教会の取り組みを紹介しました。

今はこんなご時世だから、
教会は地域支援活動に取り組んだ方がいいと思う。
でも、無理せず、片手間で!と励ましました。

教会の中心はあくまで礼拝と宣教。
だから自分たちでできる範囲で。
そうやって“片手間”で取り組む教会がもっと増えたら、
地域の中での教会の認知度があがって、
地域の中にぐんぐん食い込んでいけるんじゃないかと。

集まった皆さんは、
同じような意識を持っておられて、
こちらの方が、いろいろ学ばされました!

楽しかったな~!
教団で同じような活動している人たちで、
ゆるく繋がれたらいいな。
情報交換したりできるし。

教師研修会も楽しかった。
三回の講演も興味深かったし、
札幌の朴先生の聖会もすっごくよかった。
好きなんだよね、あの手の説教。
聖霊充満🔥ってやつ(笑)

何より、いろんな先生たちに会えて嬉しかった。
集まることは力だね、ホント。

教団誌の「秋の研修会報告」は、
今回は私が担当で、執筆したので、
さっそく11月号に載りま~す♪

でも、前半楽しく過ごした分、
後半の主日礼拝の準備、説教とか、CSのお話とか、
めちゃくちゃ大変だった。
でも、無事に済んで感謝!
求道者のYさん、定着しそう♪
嬉しい( ;∀;)

そして日曜日の午後と今日の午前中は、
行徳キリスト教会で、
『愛を守る人』の対面セミナー!
対面久しぶり!
たのしい♡

だめだ、
なんか文章になってない。
疲れてるな…。
寝よ😴 

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女性教職

2022-10-06 16:34:01 | 牧師
今週月曜日は、伝道懇談会、
火曜日から水曜日は秋の研修会に参加してきました。
その話はまた後日。
その前に、先週金曜日のお話し。

TCUの教会教職課程合同演習で、
「女性教職について」話してほしいという依頼を受けて、
主人とコラボで話してきました。
最近のTCU生は、
クリスチャンホームの子が多く、
牧師家庭の子も少なくないと聞くので、
自分の救いの証しから語りました。
原稿は以下に貼り付けます。
長文注意!

「女性として主に仕えるということ」

〇洗礼を受けるまで
 私は東海の方に現在28教会ある同盟福音基督教会の岐阜キリスト教会出身です。父はその教会の初代牧師で、兄弟は5人、二番目の長女として生まれました。イエスさまを信じたのは小学3年生の時です。はじめてのバイブルキャンプで信仰の決心をしました。それまでは、天地万物を創造された神さまは、みんなの神さまだったのですが、イエスさまが十字架に架かって死んでくださったのは、私の罪のためであることをその時知りました。兄弟が多いので、兄弟げんかが絶えず、自分が罪人であることは自覚していましたから、罪をゆるしてくださいと、またイエスさまを心にお迎えしますと素直に祈りました。そして、家に帰ってそれを両親に報告しましたが、当時は子どもが洗礼を受けるというアイデアはなく、実際に洗礼を受けたのは中三になってからでした。そのきっかけになったできごとはいくつかありますが、その一つとして、下川友也先生との出会いがありました。
 中学1年生の時に、私は新鮮さを求めて、母教団の夏のバイブルキャンプではなく、松原湖バイブルキャンプに参加したことがありました。その時にカウンセラーの先生にこんな質問をしました。「私は、天地万物を創造された真の神さまがいらっしゃることを疑ったことはないですし、イエスさまが十字架で私の罪のために死んでくださったことも信じて、小学3年生のときには、イエスさまを個人的な救い主として心にお迎えするお祈りもしています。けれども教会で、他の人の証しを聞いていると、信じる前と信じた後には、明確な境があります。自分にはそういうものがありません。自分は本当に救われているんでしょうか?」そんな質問でした。それに対して下川先生は、こんな風に答えてくださいました。「あなたは救われていますよ。あなたの小学校三年生の時の決心は有効です。今のあなたに必要なことは、信仰者としての歩み始めることです。」その先生の答えはわたしにとってビンゴでした。そして大きな励ましになりました。ところが、それでもすぐには洗礼を受けませんでした。洗礼を受けたのは、二年後の中三の夏でした。クリスチャンホームの子が洗礼を受けるのは、意外にも、ハードルが高いということです。
 私の中学時代は、「つっぱり」や「ヤンキー」の全盛期。私も例にもれず、短い丈のセーラー服にひだの多いロングスカートをはいて、聖子ちゃんカットをしていました。でも私は神さまが私のことを見ていると知っていましたから、そんなに悪いことはできません。またぐれるにはお金もかかるのです。PKにはお金がありません。それに実際私は、教会もイエスさまも大好きだったのです。ですから日曜日の礼拝、水曜日の祈祷会も欠かしたことはありません。学校行事も模擬試験も部活の試合も休みました。定期テストの前も祈祷会を休みません。それでも、荒れた中学校で、友達からの悪い誘いにノーが言えない弱さをいつも感じていました。私はイエスさまのことが大好きでしたし、イエスさまに従いたいと思っていました。そして罪を犯せば、私のうちに住む聖霊が教えてくれるので、心が痛んで悲しくなります。でもそれに従うことができない自分にいつも失望していました。そしてそのアンバランス、板挟み状態に、私の心は悲鳴をあげていました。その当時の私の夜の祈りは、「神さま、私は自分で自分をコントロールできません。私はもうお手上げなので、神さまが何とかしてください」そういう祈りでした。そしてある日、神さまはその祈りに答えてくださいました。私は親にうそをついて悪い友達と遊びに出かけ、遅く帰ったことがありました。母は、教会の玄関で私を待っていました。私の顔を見るなり、「どこに行っていたの?」と聞きました。「恵子ちゃんち」「うそでしょ。恵子ちゃんには電話したから」。母にはうそがばれていました。母は、私を家の中に入れて、私の胸ぐらをつかむようにして、激怒しました。そしてその晩、母に導かれて悔い改めの祈りをしたのです。そして悔い改めの表明として洗礼を受けることにしました。それは感謝なことですし、いわゆる洗礼の「きっかけ」としては王道なのですが、正直いらぬ回り道だったような気もします。私の場合、洗礼を受けるチャンスが2回ありました。もしあの時に洗礼を受けていたら、私はあの嵐のような思春期をもっと違う乗り越え方ができていたのでは…と思わないではいられません。

〇献身の導き
 大学では社会福祉を専攻していました。井上先生の後輩で、大学の聖書研究会で一緒に活動していました。KGKの活動にもはまっていて、東海地区の運営委員もしていました。また大学では教職課程を履修し、中学校、高校の社会科の教員免許と今でいう特別支援学校教員免許を取得し、社会福祉士の資格も取りました。そして卒業年度には社会福祉方面で就職活動もしていたのです。献身の思いは常にありましたが、社会の中で主にお仕えするのが私の召しなのか、教会に仕えることによって主にお仕えするのが私の召しなのかわからなかったのです。私は母に相談しました(母は共立女子聖書学院の卒業生です)。「私は献身したいんだけど、決め手となるようなみことばも与えられないし、自分が召されているかどうかもわからない。召しの確信がなければ献身しちゃいけないんでしょ?」と。すると母は私に言いました。「お母さんの場合は、献身する以外の可能性が全く考えられなくなってしまったのよ。そういうものじゃないかな」と。
 ちなみに母の献身も当時としては珍しかったと思います。母は父が牧会する教会の信徒だったのですが、二人が結婚を決めたとき、父は母にも神学教育を受けるよう勧めました。またそう勧められたことは、母にとってもとても嬉しいことでした。二人が婚約した後、母は共立女学院で3年間学びを修め、母の卒業を待って二人は結婚し、新しい任地、岐阜に赴いたのでした。
 自分はどうかと考えました。「やはり神学校に行きたい。将来はフルタイムで教会に仕えたい。」当時は独身であれ、既婚者であれ、女性が牧師になる道は開かれていなかったので、「牧師になる」というアイデアはありませんでしたが、とにかく「教会に仕えたい」「フルタイムで伝道したい」そんな思いで神学校の受験を決めました。社会福祉への思いは依然ありましたが、私はこんな風に考えるようになりました。それは、社会福祉の道と献身者の道は決して違う方向、ベクトルではない。私は教会で、社会福祉を実践するのだと。こうして大学卒業後すぐに、当時の東京基督神学校に進学したのです。

〇神学校時代
 当時のクラスメイトは12人でした。伊藤明生先生や木内伸嘉先生が留学から帰って来たばかりで、それぞれギリシャ語、ヘブル語を教えておられました。1年生の私たちは、それらを半年で修めなければいけませんでした。五十三先生はどちらの試験も一発で通りました。私は、何度も追試を受けて、それぞれ半年から1年後ぐらい後にやっと通りました。その頃のキリ神は、文字通りサバイバル状態で、一人、また一人と授業に来なくなりました。一人の留学生は途中で退学。一人はキリ神を去り、別の神学校に行きました。そして最終的に3年で卒業したのは、半数の5人だけだったのです。そしてその半数の中に私がいたのは、まさに奇蹟でした。実は私も挫折しそうになったときが何度もありました。けれども幸いなことに私は臆病でした。一度講義を休むと、きっと次も行けない。そう思うと休めなかったのです。ですから這ってでも行きます。(授業中は寝てしまいます)また、当時は勉強が大変すぎて、勉強以外のものはすべて切り捨てていました。シオン祭も出なかったですし、当時わわわクラブが始まって一年目だったのですが、私はすごくやりたかったけれど、我慢しました。寮で困っている人がいても、時間が取られるのが恐くて声もかけられませんでした。非常にセルフィッシュでした。あの頃の私は、いつも疲れていて、喜びもなく、必死の形相で神学校生活を送っていたのです。そんな時に、キリ神のある先輩と話す機会がありました。その先輩に何を話したかは忘れましたが、その時、その先輩が言われたことははっきり覚えています。「神学校で、ぼくたちに成績をつけるのは先生じゃない、神さまだよ。もし学校から卒業証書をもらっても、神さまからもらえなかったら、神学校に来た意味がないでしょ」というようなことでした。私はそれで目が覚めて、それ以降は、神さまに卒業証書をいただけるような神学校生活を送ることにしました。もちろん学びもがんばりました。あとずっとやりたかった「わわわクラブ」での活動を始めました。また、病床伝道グループ「星の子どもたちプレイヤーミーティング」を立ち上げました。そして、寮での自主的な祈り会に参加したり、困っている人がいれば声をかけ、悩んでいる人の話に耳を傾けるようになりました。勉強は依然大変でしたが、そのように優先順位がはっきりしたら、心はいつも楽でした。ある日木内先生と中庭ですれ違ったのですが、すれ違いざまに「何ですか、そのGracefulな顔は!」と叱られてしまいました。

〇伝道師の一年
 卒業後は、一旦母教団に戻りました。同盟福音基督教会の岡崎キリスト教会でドイツ人宣教師を助けながら、1年伝道師として働きました。私がはじめ与えられた仕事は、訪問伝道でした。教会は開拓5年目でしたから、バザーやクリスマスなどの行事に来られて住所を残して行かれた方が80人ぐらいおられました。その方たちには、定期的に読み物を送っていましたので、一度その人たちを訪問して教会にお誘いするのが私に与えられた仕事でした。私はナビもGPSもない時代、地図を片手に原付に乗って80件訪問しました。また、生まれたばかりのクリスチャンホーム(全盲のご両親が救われて子ども5人いる家庭)に週一度、夜に訪問して、家庭礼拝を導くということもしていました。何しろ上司は宣教師でしたから、私のアイデアを採用してくれて、やりたいことを何でもさせてくださいました。本当に楽しかったです。宝のような1年でした。
 ところが1年後結婚が決まり、岡崎キリスト教会を辞することになりました。相手は神学校の時の同級生、齋藤五十三先生です。どうして彼と結婚することになったのかもお話しした方がいいでしょう。五十三先生お願いします。

〇亀田キリスト教会牧師夫人として
 こうして五十三先生と共に新潟の亀田教会に赴任しました。五十三先生は横浜上野町教会で、わたしは同盟福音の岡崎キリスト教会で、それぞれ1年間の伝道師としての奉仕を経てきましたので、気持ち的には、同労者としていっしょに赴任したのですが、現実は違いました。牧師として招聘されたのは五十三先生でしたので、説教をするのも、祈祷会を導くのも、洗礼準備会をするのも主人でした。教会の人には、「牧師は一人でいいですから」と釘を刺されたこともあります。その立場と役割りの違いを受け入れることができなくて、しばらく葛藤していました。また、教職であるとかないとか、そういう立場や資格にこだわっている自分も嫌でした。立場は何であれ、資格があろうとなかろうと、与えられた立場と役割りの範囲で、精一杯伝道すればいいじゃなかいかと自分に言い聞かせていました。幸いなことに?私はすぐに妊娠し、つわりになり、動きたくても動けない状態になりました。また子どもを産んでからはなおさら、子どもの世話に忙しい毎日となり、そちらに集中しました。もちろん、子育て中しかできないような奉仕もしてはいました。「子育て新聞」みたいなものを作って、毎月、教会の子育て仲間のママたちと配布したり、教会の青年といっしょに公園伝道をもしました。また、教会学校の女の子たち5人ぐらいとデボーション交換日記をしたり、子どもたちの洗礼準備会もさせていただきました。自分に許されている活動範囲と時間の中で、精一杯伝道と奉仕に励みました。
 亀田キリスト教会では8年半仕えましたが、その時に夫婦のパートナーシップの基礎を築いたと思います。夫婦の秩序と子育てにおける父と母の役割り分担ができました。同級生夫婦ですから、私たちの関係は対等ですし、互いに尊敬し合い、尊重し合っていますが、秩序としては夫が頭です。つまり責任者ということです。子どもの教育も信仰継承も、最終的には父親の責任です。では私、母親の役割りは何かというと、ひたすら子どもを愛し、どんなときも受容し、応援し、生活の中で信仰の感化を与えることです。そして、家族を教会とするならは、うちの牧師は五十三師です。それは私が牧師になった今でも変わらないことです。
 また亀田では、主婦業の尊さを学びました。私が育った時代は、フェミニズムの影響を強く受けている時代です。私自身も男女平等、女性の自立とか、自己実現とか、そういうことにあこがれと価値を置いていました。余談ですが、わたしが中学1年生の時に、「将来の夢」という作文を書いたのですが、そこに私はこう書いて、職員室で回し読みされ、話題になりました。「私は、将来男になりたいです。なぜかというと、女性であることによって将来社会の中で受けることになるであろう差別や不利益、制限を思うと、将来の夢が描けないからです」と。そんな私にとって、教会の中の専業主婦の皆さんの姿は新鮮でした。家族の幸せのために家事を一手に引き受け、子育てをし、しかもそれを嬉々として、やりがいをもってこなしている姿は、ある意味衝撃でした。そしてその姿は、とても「尊い」と思ったのです。「自分を無にして仕える者の姿を取り…」まさにイエスさまのみ姿です。私も結婚してから30年近くの中で、専業主婦の時代もありました。けれども、亀田での先輩主婦の皆さんとの出会いがあり、その価値と尊さを知っていたので、その時も私は誇りとやりがいをもって、幸せをかみしめながら、専業主婦をエンジョイすることができたのです。

〇台湾宣教師時代
 その後、2年の主人のアメリカ留学(Maiはこの時生まれた)。そして続いての台湾宣教師としての働きは、約15年に及びました。台湾では、4つの教会と協力しました。けれども、私が台湾で、宣教師らしい働きができたのは、実は最後の一つの教会で奉仕した6年だけです。その前の10年近くは、日本語クラスで教えたぐらいで、ひたすら家事育児に明け暮れる毎日でした。外国で子育てするというのは、日本以上に大変です。しかも頼りにしていた主人も台湾に行った2年目に病気になって、日本に一時帰国して4か月の療養生活を強いられました。そしてちょうどその時に、岐阜の母も病気で召されるということがありました。台湾での生活は、私たち夫婦にとっても、子どもたちにとっても、決して楽な生活ではありませんでしたし、絶えず緊張の中にあったと思います。それでも今振り返ると、楽しい思い出ばかりです。
 そして最後の6年は、私たちは現地の牧師夫妻といっしょに開拓伝道に出ました。立新教会と言いますが、この教会の開拓伝道の方法は非常にユニークで、礼拝を始めるのに先立って、貧困家庭の子どもたちの学習支援やフードバンクの働きを始め、まずは地域に食い込み、すそ野を広げるというものでした。また超教派のチャンピオンズ教育協会のボランティア教師として、地域の小中学校に出て行って、性教育プログラムや問題解決プログラム、アンガーマネージメントのプログラムを導くという働きにも携わりました。多い時には、1週間に1コマずつ7クラスで、3ヶ月続けて授業を行いました。今振り返っても、この最後の6年間は、神さまからのプレゼントでした。そして、本当に神さまのご計画、導きには無駄がなくて、私はこの6年間の経験をすべて、今の教会のミニストリーに生かしているのです。

〇正教師として
 正教師になろうという思いが与えられたのは、2018年、本帰国する1年前でした。同盟教団は正教師試験を受けるための条件として補教師研修会に3回でなくてはいけません。当時わたしは、すでに補教師にはなっていましたが、補教師研修会に出たことがありませんでした。ですから、台湾にいるうちに1回、帰国してから2回補教師研修会に出て、正教師受験資格を取得しました。
 前後しますが、なぜ正教師になろうと思ったのか、理由は3つあります。一つは、主人が、日本帰国後、しばらくは牧会に戻らないと決めたからです。主人が牧会に戻らなければ、自動的にわたしも牧会に携わることができません。一信徒として、おとなしく教会生活を送ることができればいいのですが、自分には無理だと自覚していました。二つ目は、私の伝道者としての召しがあったからです。三つ目が、神さまから与えられている賜物と使命、そして台湾での経験を活かして、存分にチャーチワークをしたかったということもあります。
 正教師を受験する年、私が伝道師として派遣された教会は、東京、練馬区にある谷原キリスト教会でした。私たち家族(私と夫と真依)は、教会の牧師館に住み、主人はそこからTCUに通いました。毎日通うことは無理なので、TCUで4日、谷原で3日の生活でした。けれども、そんな生活を数ヶ月続けるうちに、主人が疲れてしましました。4か月で主人の体重は5キロも落ちました。また、当時の主任牧師、役員と私たち夫婦との意見の食い違いもありました。こうして私はわずか4か月で教会を辞任して、千葉に引っ越すことになったのです。このことは、私たちの痛みですが、このことを通しても多くを学びました。夫婦ともに正教師で、妻が担任教師である場合の夫婦のパートナーシップを痛い思いをして学んだのです。それでも主の憐れみは尽きず、私は正教師試験を受験することがゆるされ、合格し、春には正教師として、今の新船橋キリスト教会に主任担任牧師として派遣されました。

〇新船橋キリスト教会の牧師として
 理事会から新船橋キリスト教会での奉仕を打診され、いわゆる「お見合い説教」に行ったときに、私は今までにない経験をしました。朝、教会の玄関に入ったときに、教会のご年配の婦人方が、迎えてくださったのですが、「齋藤先生、どうぞどうぞ!」とスリッパを出してくださったのです。私は、主人もいっしょにそこにいたので、「齋藤先生」というのは主人のことで、主人にスリッパをすすめているのだと思ったのですが、そのご婦人は私の方を見て、「さあ、どうぞどうぞ」と言っていたのでした。小さなことですが、私は感動しました。ああ、この教会は、主人ではなくて、私を牧師として迎えようとしているのだと感じました。私はすでに長年の経験からどこかいじけていて、どの教会も本当は主人がほしいはずで、それが叶わないから、私を呼ぶ。そうすればビッグなおまけもついて来るから悪い話じゃない、そう思っているのだろうと思っていたのでした。けれどもこの時私は、女性教職として受け入れられたと感じ、みこころならこの教会に導かれるようにと思ったのでした。
新船橋キリスト教会に赴任した2020年。新型コロナウイルスが猛威を振るい始めた頃でした。4月の第一主日は、なんとか少ない人数で礼拝を守り、その週の金曜日、役員会を招集して、次の週からの対面礼拝休止を決議しました。赴任2週目で、「礼拝に来ないでください」と言わなくてはいけないジレンマ…、本当にあの時は泣きました。それでも淡々と毎週説教を準備しました。説教原稿を火曜日には完成し、郵送担当の役員さんにお渡ししました。また、あの頃はマスク不足が深刻でしたから、私は夜な夜なマスクを縫って、日曜日ごとに、教会の兄弟姉妹にお渡ししました。また、教会のご近所へのあいさつまわりをするときにも、やはり手縫いのマスクをお配りしました。そのうちオンライン環境も整い、皆さんの教会と同じように、対面とオンラインの礼拝で柔軟に対応しつつ今までやって来ました。このように、無我夢中で駆け抜けた初年度でした。ところが、主はあわれみ深くて、このコロナ禍でも2名の受洗者と5名の転入会者が与えられました。
 新しい教会に赴任したら、1年目は何も変えないようにと言うのが、新任教師の鉄則です。実際、牧師になって一年目、毎週の説教と祈祷会準備、またコロナ対策で手一杯でした。けれども2021年、年が新たまる頃、私の中で、コロナ禍でしかできない、教会の働きは何かということを考えるようになりました。コロナ禍で、地域の多くの人々が経済的に困窮しているのを見ました。ニュースでは「貧困」という言葉が普通に出て来るようになっていました。そんな中で、何とか台湾でやっていたようなフードパントリー(無料食料配布活動)ができないものかと祈り始め、リサーチを始めました。そして役員会の承認も経て、2021年5月から、登録制のフードパントリーを、6月からは、どなたでも来てもいい、オープンなフードシェアを始めました。
 この働きも丸一年経ち、今では登録制のパントリーの方は、27世帯(83人)、そのうちひとり親世帯が三分の二の17世帯を占めています。またオープンな方のフードシェアも先月は37世帯(61人)に配布できました。今では、1か月に100人近い教会外部の方が教会に来られ、教会とつながりを持っているということになります。そして、私はなるべく来られる方全員にお声をかけるようにしているのですが、中には個人的に話して行かれる方もいます。自分の身の上話、自分が受けてきた虐待やDV、ひとり親としての悩みや困難、子育ての悩みなど、いろいろです。その話しの内容によっては、その場でお祈りしたり、教会学校にお誘いしたりもします。私はそんな中で、自分は、この新船橋キリスト教会の牧会者として立てられているだけでなく、この地域の牧会者として立てられているのだなと実感しているのです。昨年まで実習に来られていた木田友子さんが、「千恵子先生は、この地域のお母さんですね」といつも言ってくれていました。本当にそうありたいと思っています。
 そして、この地域支援活動と同時に教会学校も再開しました。貧困家庭の子どもたちが来るようにと、朝ごはんつき教会学校にしました。うちの教会は、前任の牧師家族が転任されてから、教会学校はゼロだったのですが、これらの地域支援活動を始めるのと同時に再開に踏み切りました。今は、この活動で関りを持っている子どもたちとお母さんが、レギュラーメンバーとして6人与えられています。
 私が新船橋キリスト教会の牧師になってから2年半ですが、多くの教会が、コロナが通り過ぎるのをじっと待っている中で、これほどスピーディーに地域支援のミニストリーを展開して来られたのは、本当に不思議なことです。主がこの地域で教会を通してなさりたいと思っていらっしゃることを、教会が察知し、受けとめ、一歩を踏み出すときに、主は存分に働いてくださるのだと、さやかに見せられた2年半でした。

〇私の女性観
  • 自分が女性であることを受容することは、神が自分を女性として造られたことを受け入れ、従い、感謝すること。
  • 人間の堕落によって、神のかたちが損なわれたことによる悲惨(差別や関係のゆがみ)があることは否めない。
  • 神の前に男性も女性も尊い存在。それぞれ特質はあるが優劣はない。
  • 女性が女性のままで尊重されること。男性と肩を並べる必要はないし、競う必要もない。
  • 男性と女性、それぞれが相手を利用し、消費するのではなく、仕え、与えるという姿勢で協力する。
  • 自分の必要、関心、求めではなく、相手の必要、関心、求めを優先させる。それが尊重するということ。
  • 女性が日本の教会に仕えるとき、立ちはだかる困難(偏見、差別、制限)は現実にある。
  • 自分に関する限り、それらの困難に甘んじることも時にやむなし。
  • 公的なことに関しては、訴えていく姿勢も必要。

〇女性教職を目指す皆さんへ
  • 自分に与えられている賜物に気づく。
  • 「召し」は、導きとプロセスの中で明らかになる?
  • 「召し」は、願いと平安と喜び(わくわく感)に表れる?
  • 自分以上に自分の賜物と資質を知っている主に、絶えず聞いて行く。
  • あれかこれかではなく、あれもこれもでよい。…と思う。
  • 立場や資格に固執しない。
  • 家族と教会を生かす一粒の麦となる。
  • 神さまの導きに無意味、無駄はない。
  • 優先順位を持つ。「愛すること」が最優先。

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