ザカリヤは、
み使いのみ告げを信じなかったから、
口がきけなくなりました。
これは罰なのか?
罰ではない。
彼にとって一番の罰は、
信じなかったら子どもを与えない
だったはず。
み使いはそうは言わず、
子どもが生まれるまで(期間限定)、
口がきけない
そう言っただけ。
神さまは憐み深いお方なのです。
そして、たとえ罰だとしても、
神さまは、神の子どもたちに、
罰するだけが目的の罰は与えない。
父として、
愛する我が子の成長のために、
時として罰を与えることはあるけれど。
(へブル12:5~6)
では、どうしてザカリヤに、
口をきけなくしたのか。
ヤコブはもものつがいを打たれ、
歩けなくなり、
サウロはダマスコ途上で、
イエスさまと出会ったとき、
目が見えなくなった。
どうしてザカリヤは口?
1.ザカリヤは不信仰を口で表明したから。
信仰の表明は口からですが、(ローマ10:10)
不信仰の表明も口からです。
心の中の不信仰も罪ですが、
それを口に出すか出さないかには、
大きな違いがあります。
彼は不信仰を口にしたので、
神さまは口を打たれました。
2.神さまはザカリヤから
ことばを取ることによって、
彼を無力にし、裸の状態にしました。
人はことばをもって言い訳したり、
自分を取り繕ったり、飾ったり、
格好つけたりするものです。
ですから、話せなくなることで、
人は無防備になり、
自分のありのままを、無力を、
さらけ出すことになるのです。
神さまは、ザカリヤからことばを取り上げ、
彼を裸の状態にし、無力にし、
主により頼ませたのではないでしょうか。
3.信仰者は、静まりの中で、
主と向かい合うことができます。
主は、静けさの中で、
私たち信仰者に語ってくださるのです。
落ち込んだ預言者エリヤに主が語られたときも、
山々、岩々を崩すような大風の中には、
主はおられなかったし、
地を割くような地震の中にも、
焼けつくす炎の中にも
主はおられなかったのです。
そしてそれらが過ぎ去った後に、
その静けさの中で、
主の細き御声が聞こえたのです。
10カ月の静けさは、
ザカリヤは主と向かい合う機会となりました。
4.人は孤独の中で、
主に出会うからではないでしょうか。
人の意見、人のアドバイス、慰めのことばなどは、
わかりやすく、即効性があるかもしれません。
けれども、人に聞き、人を頼っているうちは、
神の声に耳を傾けないのではないでしょうか。
人は人とのコミュニケーションを絶たれ、
独りぼっちになったときに主に出会うのです。
こうして沈黙のうちに彼は10か月を過ごします。
その間、妻が妊娠し、
お腹はどんどん大きくなり、
五カ月もすると、
親戚のマリヤが、
聖霊によって身ごもったとの知らせが届きます。
沈黙と静けさのうちに、
神のみわざが大きく働いています。
ザカリヤは、どんな思いで
それを見ていたのでしょう。
そしてとうとう妻エリサベツが、
男の子を産んだとき、
彼は、「彼の名はヨハネ」と、
彼の信仰を告白するのです。
夫婦ともにアロンの家系、
祭司としての先祖代々続いた家業も終わり。
その子と家を主に捧げる信仰告白。
その献身と信仰を表明することによって、
彼の口は開かれます。
そして開口一番、
主への賛美がほとばしり出たのです!
ハレルヤ!!