おかあちゃん牧師の日記

新船橋キリスト教会の牧師です!
日々の生活のこと、教会のこと、
家族のことなどを書いています!

父 その3

2010-08-31 14:12:53 | 家族
学もなく、社会的地位もない父を
一人の人格として敬意を払って、
丁寧なお辞儀をしてくれた宣教師。
この人こそ、戦後間もない日本へ宣教師として訪れ、
その38年という半生を捧げたステファン・メティカフだった。

メティカフ宣教師の来日は、戦後間もない1952年、
その6年前まで、中国で民間抑留者として、
日本軍の収容所に入れられていた。
18歳で終戦を迎え、解放された時の体重は、
なんと40キロに満たなかったとのこと。

憎んでも憎みきれないはずの日本へ
神さまの愛を伝えるためにやってきた
メティカフ宣教師の人生にいったい何が起こったのか。
関心をもたずにはいられないが、
そのことについては、
また後日触れたいと思う。

さて、私も津軽の地理には、詳しくないが、
父に言わせれば、
金木といえば、北津軽郡の片田舎。(現在は五所川原市)
父は、「どうしてあんな田舎に、当時まだ少ない宣教師が来てくれたのか」
と今でも不思議に思うという。

メティカフ宣教師の日本語は、本当にわからなかった、
父は、想い出しては笑う。
しかし、父をひきつけてやまないその人格と、
彼が、信じ、命がけで宣べ伝えている福音に、
父は、すっかり捕らえられてしまった。

こうして父の求道生活が始まった。
今まで、何をするのも続かなかった父だったのに、
この度は、違った。

夜、仕事が終わるとまっすぐ家に帰り、
夜が更けるまで、聖書と格闘。
本当に「格闘」というのが相応しい熱中ぶりだった。
父は、当時日本のキリスト教会でも著名な内村鑑三の著書を
文字通り、すべて読みあさった。
何しろ、勤め先が本屋さん。
ほしい本は、何でも手に入った。

特に父が感銘を受けた著書は、
『ロマ書の研究』と『キリスト教問答』だったらしい。
父は、夜な夜な聖書の中の特にローマ書をノートに書き写し、
内村の『ロマ書の研究』と照らし合わせて一人学んだ。

そして、わからないことがあると宣教師に質問しに行く。
父はこうして、
毎朝のように、6時の出勤の前に宣教師宅に寄り、
宣教師をまずは起こしてから、
たくさんの質問をしたというのだから、
宣教師もたまらなかったことだろう。

父は、聖書と格闘するうちに、
キリストの前に白旗をあげるように、
自分の中にある罪を認め、
キリストを心に受け入れる決心をするのだった。

つづく。






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父 その2

2010-08-30 14:13:21 | 家族
つづく…
とか書いて、
随分間が開いてしまいました。
父の生い立ちの続きを書きますよ~。


さて、中学を卒業した父は、
兄を頼って、川崎へ。
早速、就職するも、なかなか続かず、
なんと半年で、6回も仕事を変えたという。
父の弱さ、不器用さ、根性の無さもあったと思うが、
父は、「働いても働いても、兄に給料を取られてしまう…」
ともこぼしていた。

そんな中で、
父は、人生の意味を考えるようになる。
人は、何のために汗を流し、苦労して働くのか。
何のために生きているのか。
自問自答しながら、
都会の真ん中で、むなしさを感じ、
ただ、生きていた。

川崎に出て、半年後、
父は、失意のうちに帰郷する。
そして、青森の金木という小さな町の本屋さんで、
働くことになった。

相変わらずのきつい仕事。
朝の6時から夜の9時まで、
年中無休で働いた。
(その辺、根性なしの父のこと、
時には、ズル休みもしたらしいが。)
とにかく、労働基準法など、
あってない様なもの。
そういう時代だったのだ。

そんな父にも友達がいた。
同じ職場で働く、将棋仲間の「角田くん」だ。
二人は、少しばかりのひまを見つけては、
一緒に将棋をさす仲間だった。

ところが、そんな角田君が、
いつの頃からか、パタッと将棋をしなくなった。
その代わり、聖書を片手に、
キリスト教の話をしだしたのだ。
罪だとか、さばきだとか、
父にとっては、あまり面白くない話だった。
そして、一緒に宣教師のところに行こうと、
いつも父を誘うのだった。


父は、大事な将棋友達をとられたのと、
角田くんが、あまりにしつこく誘うこともあって、
ある日、彼にキリスト教を教えたという
イギリス人宣教師に会う決心をした。

そうそう、こんな伏線もあった。
実はその宣教師に会うずっと以前、
父は、その宣教師を電車の中で見かけたことがあった。

電車は、ひどく混雑していたらしい。
そんな中で、一人の年老いたおばあさんが、
大きな荷物を持って、困っていたらしい。
すると、赤ら顔の西洋人が、
そのおばあさんに優しく声をかけ、
重い荷物を荷台に載せて上げたのだった。

父は、その様子をずっと見ていた。
自分の西洋人にもっていたイメージとは違っていた。
親切で、優しそうなその態度に、
父は、驚き、感動を覚えたらしい。

さて、父は、角田君と一緒に宣教師のところに行った。
当時、宣教師のいた集会所は、
洋裁学校の二階にあった。

そのイギリス人の宣教師は、
畳の上にきちんと座っていたが、
父が部屋に入ると、
向きを買え、畳に両手をつき、
最高級の丁寧なお辞儀をした。

父は驚いてしまった。
学も無く、社会的地位もない、こんな若僧に、
未だかつて誰も、
こんな丁寧なお辞儀をしてくれた者はなかった。
そして、更に父をおどろかせたのは、
この宣教師は、かつて混雑した電車の中で見かけた西洋人、
その人だったのだ。


つづく…。






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2010-08-26 11:05:01 | 家族
日本滞在中、岐阜に行って、
父宅で5日ほど滞在したわけですが、
今回ぜひ父に聞きたいことがありました。

それは、昭和12年生まれの父の生い立ちと、
どのようにしてイエス様に出会ったかということ。

断片的には、聞いたことはあるけれど、
通して聞いたことは、
今までになかったので、
今回はぜひ聞きたいと思っていたのです。

実は、母の話も聞きたかった…。
でも、母は四年前に天国に行ってしまったので。
どうしようもないですね。


さて、話はさかのぼって、祖父のことから始まります。
祖父は青森県五所川原の地主の家に生まれた。
比較的裕福な家ということもあって、
絵の才があった祖父は、
京都の美術学校を受験するために故郷を離れる。
しかし、受験に失敗。
程なく地元に帰って、教師になった。

地主だった祖父の父は、そんな息子のために、
何を思ったのか、
土地を売り、7つの家を建て、人に貸し、
息子、娘のために店を構えさせた。
酒を中心に、味噌や醤油を売る店だった。
その店は、祖父の父によって「兄妹商店」と名づけられたとか。

教師を辞めて、
店を任せられた祖父。
ところが、店の方は女達に任せて、
自分は、毎日のように酒を飲み、
将棋をさしたりして、遊んで過ごしたらしい。

そんな生活がたたってか、
祖父は、父が5歳のときに、
結核を患い、
父と兄と姉、3人の子どもを残して死んだ。

残された祖母は、働くことを知らないお嬢様。
生活のために、
持っていた家も土地も次々売り、
ついに、自分たちが住んでいた家も、
持っていた着物などもみな売り、引越し。
最後は、和裁などを請け負って細々と生計を立てていたという。

さて、父はというと、
末っ子で、甘やかされて育ったせいか、
泣き虫で気が弱く、小学校にも馴染めず、
今で言う、不登校のさきがけになりかけたとか。

ところが、何でも「よし、よし」と甘やかしていた親も、
このときだけは、頑として譲らず、
嫌がる父も、しぶしぶ学校に通っていたらしい。

その反対に父の姉は、
当時の女の子としては、とてもおてんばで強く、
父が泣いて学校から帰ってくると、
父を叱り、父をいじめた相手にかたきをとってくるような性格だったらしい。

そんな父の兄と姉は、
まだ、経済的にそれほど深刻でなかった事もあって、
それぞれ今で言う高校まで卒業し自活することになる。

しかし、父が中学を卒業する頃は、
家計は火の車。
それに、何しろ、甘やかされて育ち、
自分の弱さを身にしみて感じていた父は、
これ以上親元にいては、自分は駄目になる思っていた。

そこで一念発起、
中学を卒業した父は、
当時川崎にいた兄を頼って、
家を出た。



つづく。





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野外礼拝

2010-08-24 09:42:37 | 教会
この間の日曜日は、
外埔教会の野外礼拝でした。



場所は、「清境農場」。
この農場、台湾のスイスとも呼ばれているところで、
南投県の山岳部、仁愛郷に位置し、
海抜1700~2100メートルという高原地帯にあります。
年平均気温は摂氏16度前後。
毎日午後になると決まって霧に包まれるようです。
周りは、3000メートル級の山々に囲まれ、
なかなかの絶景!

外埔教会から二時間ほどバスに乗ると、
清境農場に着きます。
最近、高速道路が延びて、
随分近くなりました。

到着すると、
まずは、予約してあったレストランで、
礼拝です。

なんと今回の参加者は80人。
普段20人ぐらいで礼拝をしていることを思うと、
すごい人数です。

主人が導いている日本語クラス関係の人たちと、
教会が地域の人達のために開いている合唱団関係の人たちが参加したので、
こんな大人数になったようです。
ちなみの今回の説教者は主人でした。



礼拝が終わると、お食事!
もちろん熱々のおいしい中華。
台湾の教会では、日本の教会みたいに、
自分でお弁当作って用意したり、
教会の一部の奉仕者が準備したりということがないので、
気軽に参加できていいです~!

食べ終わると、
今度は、牧場へ!
霧におおわれて、視界はあまり良くなかったけど、
ヤギや羊たちが、たくさんいる
きれいな牧場でした。



カウボーイショー?を見ました。
水族館でいう、イルカショーみたいなものです。
馬に乗ったカウボーイが、
牧羊犬を使って、
上手に羊の群れを誘導するのを観賞するわけです。
羊の毛を刈り込むところも見せてくれました。
こんなショーは初めてで、
なかなか面白かったです。

長女が、
丘の上の牧草地で、
ショーを観賞している大勢の人を見て、
聖書の中の5000人の給食みたいだね、
なんて言ってましたが、
まさにそんな感じ。

たくさん歩いて、
あちこちの景色を楽しんで、
帰りのバスが出たのは午後3時。

バスの中では、
日本語クラスの生徒さんが多かったためか、
日本の演歌が流れてました。



さて、先週日本から帰って来てからの1週間は、
毎日のようにお客さんが来られて、
泊まっていかれたり、
食事を一緒にしたりと、
忙しかったですが、
今週からは、子どもたちの学校も始まり、
日常が帰ってきた感じです。
昨日から日本語クラスでの奉仕も始まったし。

そうそう、主人は、昨日から二泊三日で、
牧師たちのリトリートで、
台湾北部の宜蘭に行ってます。
主人も帰台してから、
ばたばたと忙しい毎日です。

でも、家族みんなが、
守られて元気でいることが、
何より感謝ですね。

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帰台

2010-08-17 10:58:32 | 旅行
日本から昨日夜遅く帰ってきました。
今回は3週間ちょっとの長い滞在になりました。
滞在先は、岡山の西大寺キリスト教会ゲストハウス。
一番の目的は、
子どもたちのキャンプ参加。

でも、今回は盛りだくさんで、
岡山滞在中に、主人と二人、
二泊三日で北京へも行ってきました。

また、岐阜の父のところにも帰省しました。
母教団の学生キャンプで、主人のご奉仕があったので、
教会の車をお借りして、
家族みんなで行ってきました。
父や兄弟の家族も元気そうで何よりでした。

そんなこんなで、3週間守られて、
楽しく過ごして帰ってきたわけですが、
いつものことですが、
こちらに帰って来る2,3日前から、
緊張が高まって来ました。
「台湾での生活がまた始まる。
がんばらなきゃ…!」
みたいな緊張です。

でも、帰って来て見ると、
構えてたほどでもなくて、
すぐにリラックスするんですけどね。

ということで、
簡単ですが、
まずは台湾に無事に帰って来たとのご報告まで。<(_ _)>





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