YouTubeで「心のともしび」というシリーズがあって、その中の渡辺和子氏の「キリストの香り」シリーズが好きで、何度も聞き返しています。その中の「小さな死」の抜粋です。
私が修道院に入りました時に目上の方に、「私はイエスのように十字架の上で死ぬ覚悟ができています」と生意気に申し上げました時に、目上の方が「いいえ、これからのあなたの十字架は、毎日毎日針の先でチクチク刺されるような、そういう痛みを笑顔で受けることなのですよ。決して華々しい死ではなくて、本当に人知れず、人知れず自分が受ける小さな苦しみを人に悟られることとなく受けていくこと」と、おっしゃってくださいました。
そして、修道院に入りましてから今50年経っておりますが、私は、日本語ではちょっとおかしな言葉かもしれませんけども、「小さな死」という言葉を自分の一つのモットーにしております。
それは、人は誰しも迎えなければならない「大きな死」のリハーサル、それを毎日繰り返すということです。リハーサルをすればするほど本番が落ち着いてパフォームすることができるように、毎日の生活の中で「小さな死」を事あるごとに繰り返すことによって、しかも美しく繰り返していくことによって、もしかしたら大きな死を、心静かに美しく迎えることができるかもしれないと思います。わかりませんけれども、自分の毎日の体の不調とか、むつかしい人間関係とか、どうしても人様に話さなければいけない嫌なこととか、腹が立つこと、たくさんそういうことがございますけれども、そういうことを一つ一つ逃げないで自分らしく受け止めていく。
そしてもう一つ大切なのは、頭で「小さな死」を遂げるのではなくて、口の中で「小さな死」と、人に聴こえないようにつぶやくことなんです。これはわたしが経験して習いました。頭だけで、心だけで思っているだけでは駄目なんですね。やっぱり自分の口で「小さな死」とつぶやく。そうすることによって何か「小さな死」を意味あるものに変えることができると思います。つまり私たちは人に殺されるのではなくて、自分が主体性をもって死ぬんです。しかも、それは意味のある死に変えることができるんだと思います。
今年の受難節の私のテーマは、
この「小さな死」です。
この「小さな死」です。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マタイ16:24)